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「エミリー」
ベンの声は震えてかすれて、怖いものを見た幼い子供のように聞こえる。
「エミリー」
ぼくの声もそっくりだ。そして本当にぼくは怖いんだ。
エミリーはユットナーの言う通り、人間に見えなくなっていた。両脚は太腿の付け根から下がなくなって、お腹にひどい穴が開いていた。仰向けにして、ベンが膝枕をして抱いているけれど、白い肌が青く蝋のように血の気がなく、微かに震えていた。
「エミリー」
ベンがなおも言う。エミリーの目は開いていて、ベンの顔とぼくの顔を交互に眺めているようにも思える。でも、ぼくは怒りで涙が出て来て、視界がかすんで来た。あんなにきれいだったエミリーの変わりよう、足だけじゃなく手も骨折し鼻が折れた顔は血まみれで普段の面影は全くなかった。
ベンはさっきから長い金髪を梳いてあげるように撫でていた。そしてもう一回。
「エミリー」
するとエミリーが。
「ベン、ありがとう。それ、気持ちがいいわ」
「エミリー、大丈夫だ。すぐによくなるから」
「エミリー、また旅を続けようよ。三人で楽しい旅を」
ぼくは涙にくれながら、言葉を掛ける。
「ありがとう、マレイ」
エミリーはぼくの方を見る。そうだ。エミリーは元に戻っている。自分を取り戻していた。けれど、これじゃあ……
「あのね、ベン……あのね、マレイ」
エミリーの変わり果てた顔が辛うじて笑顔だとぼくにも分かる表情に変わった。
「お願いだよ。無理しないで、エミリー」
ベンの声に嫌々をするように弱々しく首を振る。
「わたし、は、謝らなくちゃ……ごめんね、ごめんなさいね、こんなこと……巻き込んで……」
「ううん、大丈夫だよ、何でもないよ、エミリー」
ベンの声にぼくも頷いて、頷いて。ただ頷くしか出来なくて。
エミリーはこくり、こくりと首を振る。ぼくと同じで両手の指が潰れている。何をされたのか、は、された人間がよく分かっている。ぼくは体の熱とは他の何かで熱くなって来る自分が分かる。ベンも一緒だろう、ぶるぶる、ぶるぶる震えているのは怒りを抑えられないからだ。
「……ベン……マレイ」
エミリーの潰れた右手がなにか探して宙をさまよってる。ベンがその手を取って、そしてもう一つの手をぼくに伸ばす。ぼくも折れて潰れた手を伸ばし、痛かったけれど、そんなのはどうでもいい、エミリーの手を取らなければ、と思って必死で……それをベンが助けてエミリーの手に重ねる。ベンの手だって真っ赤に潰れてるのに。
「エミリー」「エミリー」
エミリーは安心したように大きくため息を吐く。
「あのね……ベン、マレイ……」
声がささやきみたいに小さい。ぼくは耳鳴りのする耳で、もっとよく聞こうと耳を近付ける。エミリーは再び、ハアーっと息を吐き、苦しそうに吸いこんで、
「わたし……二人のこと……だいすきよ……ありがとう……」
そしてハアーっと息を吐いて。
「ぼくもだいすきだよ」
「……ぼくも、エミリー」
ぼくらの声は聞こえたかどうか分からない。
エミリーは死んだ。
泣こうと思った。泣くのが当然だったけれど、何故だか涙が出なかった。
ベンは長い間、頭を垂れてエミリーの手を握っていた。ぼくはもう力が抜けてしまい、そこに横になる。このまま寝てしまおうか、と思った。忘れて逃げてしまいたかった。
でも、ベンは違っていた。
ぼくは痛みと熱と悲しさと怒りが一緒になって、残っていたのはひどい疲れだった。それに負けていたぼくは、石の床に伸びていただけだった。
ずいぶん時間が経った後で、ベンがゆっくり立ち上がる。痛む足は引きずっていない。普通に歩いているのがぼくには不思議だった。
「ベン?」
異様な感じは歩きだけじゃない。全身から何とも表現し辛い熱を感じて、ぼくはなんとか上半身を起こす。
「ベン、なに?」
不安が忍び寄って来た。何か分からないけれど、悪いことが起こる予感。
「ベンったら!」
「看守!」
ベンが叫ぶ!
「看守!」
ベンは鉄の扉まで行って、それを拳で叩く。ぼくはぞっとした。潰れた手で鉄を叩くなんて。
「看守!おい!看守!」
ガンガンガン。叩く度に血が飛び散って、それはとても恐ろしい光景だった。
「看守!」
「うるさいぞ!何だ!」
外から声がする。
「大変だ!開けてくれ。殺される!」
それは血気迫って、本当に殺されそうな人が助けを求めている声にしか聞こえない。
「助けてくれ!開けてくれ!」
ガチャン。鍵の開く音がして、そして。
「おい!一体何が――」
それは一瞬だった。
ベンが猛然とドアから覗いた看守に襲いかかる。いきなりひざ蹴りで相手を二つ折りにさせ、そのまま足を払って内側に突き飛ばす。石の床に叩きつけられた看守は叫びもしなかった。
もう一人の看守は驚いてただ見ていたから貴重な数秒を無駄にした。ボコボコに痛めつけられた少年が武器を持つ兵隊に襲い掛かるなんて想像も出来なかったんだろう。ぼくだってあまりの驚きに自分を忘れて見入っていたくらいだった。
もう一人の男も外に向かって突き飛ばされ、そのままベンと共にぼくの視界の外になる。ボキっと骨の折れる音がして、ぼくは吐き気を覚えたけれど、ドアからベンの姿が現れ、ほっとする。ベンは落ちていた看守の拳銃を拾うと肩で息をしながらぼくを見る。
「マレイ。お前は生き抜けよ!」
「ベン!」
ベンは行ってしまった。
「ベン!」
パーンパーン。
銃声がして、そして。
パンパンパン。タタタタタッ。パーン。
怒声と足音、銃声、そして甲高いサイレンの音が始まる。
「そっちだ!」
「捕まえろ!」
「行ったぞ!」
「いや、殺せ、殺してしまえ!」
パンパンパン。タタタタタタタッ。
そして銃声も声も静まって。
「ベン!」
ぼくは力を振り絞っていざりながら、壁に向かう。ドアまで行きたかったけれど、そこまで行けるかどうか自信がない。だから近くの窓へ向かう。
それは細いスリットの窓で、体を滑り込ませるほど広くない。光が差し込んでいて、床から一メートルちょっとの高さにあるから、立ち上げれば外が見える。
ぼくは床を這い、いざり、傷から血を流しながらなんとかスリットの横まで来る。息を整えると、背中を壁に押し付けて尺取り虫みたいにして壁をすり上がって、やっと窓の枠に腕を乗せる。そして……
「あの、ヤロウ……」
目に飛び込んで来たのは、あの男だった。ユットナーが何かを蹴っている。
見える範囲は白い明りで明るくなっていて、そこは最初にこの場所へ来た時に通った中庭のようだ。あの噴水があって、その前でユットナーと十人ほどのベオウルフたち、そして大勢の兵隊が動き回っていた。
誰かが、ユットナーの肩を叩く。ユットナーが振り向くと人垣の中から、あの若い士官が現れ、ユットナーに何か言っている。ゴウゴウゴウと耳鳴りがひどく、あのすさまじい銃声も耳に残っていて、何を言っているのか分からない。
兵隊が二人、ユットナーの前にしゃがみ、何かを引き上げる。それがぼくの視界に入った時。ぼくの時間は止まった。
ベンだった。ここから見ても血まみれで、ぐにゃりとした体はとても生きているとは思えなかった。
何もかもが、終わってしまった。ぼくもこの後、殺されるだろう。けれど、もう、何も感じていない自分があった。
そして、心を失ったぼくが眺めているその前で、それは始まったんだ。
ユットナーが笑いながらあの若い士官の肩を小突く。その瞬間、奇妙なことが起きた。
白い光の中、ユットナーの金色の頭が突然真っ赤になる。すると。
ボワッ。
はっきりと音を立てて、ユットナーの頭が燃え出した。それはまるで油を染み込ませた松明みたいにメラメラと燃えあがり、あっという間に全身が炎に包まれた。
次はあの士官だった。驚く士官の頭も真っ赤になり、直後炎に包まれる。兵隊たちが驚き、後退りしたり逃げ出す者も出始める。再びサイレンが鳴り始めると、それはたちまち加速して、もう誰にもコントロール出来なくなった。




