表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デスプエス~それから、  作者: 小田中 慎
アンデス東脈
20/41

19

 この五日間、恐れていた追っ手の気配もなく、空を飛ぶヘリやチルトローターもなかったから、その日の夕暮れ時、ぼくらは少し長めの休憩を取った。

 場所も最高だった。河に近い高台、樹木がまばらで、余った空間を濃いオレンジ色のカズラの花が埋めていた。河に近いのに地面や空気は乾いていて、背の低い柔らかな下草が生えている。最初の頃、フリオと辿った森に似て過ごしやすかった。

 ぼくとベンは河まで降りて汚れた衣類を洗い、水浴した。河の水は少だけ濁っていたけれど、ほどよい温さで泥臭くなく、ワニやカミツキガメ、ピラニアのような獰猛な魚もいなかった。

 椰子の実石鹸で服も体も洗うと、気分が晴れ晴れとする。洗濯と水浴は六日振りだったので尚更だった。ぼくらはサンマルティンの海や河で三々遊んだのと同じように泳ぎ、潜る。水深は浅く流れがゆっくりだからため池で遊んでいるようなものだ。

 そのうちにベンがふざけて水をかけ始め、ぼくも応戦したからだんだんエスカレートして、しまいにはお互いの頭を水に沈め合ったりしていた。そんなバチャバチャの大騒ぎに飽きると、ぼくらは息をハアハア言わせながら仰向けに水に漂う。

 ぼくらが水浴した場所は浅瀬になっていてゴロゴロした岩が水面から露出している。ずっと昔に噴火した火山から飛んで来た岩だ。その一つに頭をもたれて、ぼくとベンは並んで浮かびながら星を見た。満天の星は見慣れたものだったけれど、こんなにきれいな星空はめったに見られない気がした。

 河の両岸はマングローブになって水際まで木が生い茂り、空は両側から樹木に遮られ、河と同じ幅だけ開けて見えた。その上を銀河が薄いもやとなって流れている。星座は学校で習ったからよく知っていた。村の子供たちはこういう生活に役立つ知識だけはちゃんと覚える。漁に出る場合に絶対必要だからだ。ぼくは農家の子供だけれど、サンマルティンでは子供はみんな漁師になれるほど海のことを教え込まれるんだ。

 南の空に伝説のアルゴー号が銀河を進んでいる。ケンタウルスやキシチョウがいて、三角や祭壇まである。銀河を少し外れたもやの島は大小二つのマゼラン雲だ。そんな当たり前の夜空がとっても懐かしく、妙な気分だった。まだ十日ばかりが過ぎただけなのに、村の生活がもう十年くらい遠く彼方になってしまった気分だった。ベンが隣にいなければ思わず泣いていたかも知れない。父さんはどうしたんだろう?村人は?ルックは捕まってしまったんだろうか?そう、ぼくにはもうベンしかいない。もの悲しくて寂しい、何か大切なものをなくした後のような気分だった。

「上がろうよ」

 ぼくはそう言って先に岸まで泳ぐ。体を拭いて着替えるとさっぱりと生き返った気分になって、悲しさが少しだけ遠のいた。月が昇って来て、辺りの風景が深い青色に染まって来る。ベンは黙って着替えると、一言も言わずに先に歩いて行く。その姿に、ベンもぼくと同じようなことを考えていたんだ、と確信した。ぼくも黙ってベンの影を追い、月光に青く照らされた斜面を登って行った。


 今夜のねぐらになった空き地に戻ると、既にエミリーは寝袋に入り顔を向こうに向けていた。ぼくらは寝袋なんか使ったことがないから、たとえ有ったとしても枕代わりになるだけだけど、彼女はどんなに暑苦しくても寝袋を使っていた。何か秘密でもあるのか、と一度彼女が離れた隙に寝袋を確かめたけれど、ごく普通の品物だったからちょっと失望した。何を期待していたか、と言われても困るけれど。そんなことを考えながら寝転がっていると、ぼくもいつの間にか眠ってしまっていた。


 目が覚めると、辺りは白い壁に覆われていた。一瞬ここがどこか分からず、不安にかられて飛び起きたけれど、ひんやりと冷たい空気と湿気で霧の中にいると知って安心する。まだ薄暗いので朝も早い時間、霧が白く光って見えるのは月で照らされているからだろう。時計はベンが持っている。フリオから奪ったやつだ。ベンを起こそうかと考え隣を見たけれど、寝ているはずの姿がなかった。

 ぼくは完全に目がさえて、辺りを手探りで探した。ねぐらになった空き地に荷物はあったけれど、ベンの姿どころかエミリーもいなかった。エミリーの寝袋がきちんと畳まれ、リュックサックに縛り付けられている。トイレにでも行ったのか?ぼくはしばらく迷った後、河に下る斜面をぶらぶらと下っていった。

 ヤギの乳のような色をした霧が渦を巻いて視界を遮っている。シダの葉やカズラや蔓草のぼやけた影が生き物のように揺れ動いた。ぼくは足下と突然現れる葉や枝に気を付けてゆっくりと歩く。水の音や虫の音が遠く近く聞こえ、時間や距離の感覚までぼやけてくる。昼間の蒸し暑さと獣や鳥の騒がしさとは正反対の涼しく静かなジャングルは異次元のようだった。

 河にたどり着くと、そこでは霧が風に流れていてまるで乳白色の河の中にいるようだった。ぼくが湿った草を踏み分けながら河岸までたどり着くと、さらに強く風が吹いて白い大気がぼくをなでながら流れて行った。すると河の方からバシャン、と水のはねる音がする。

 ぼくははっとして身構えた。バシャン、ともう一度音がして、続いて、ザーッ、ザーッ、ザーッ、と連続した音がする。それは人が河を横切る時に立てる音に違いない。

 ザーッ、ザーッ、ザーッ。そこに風が強く一吹きして……

 河の真ん中に人が立っていた。ぼくは空かさず近くの草むらに身を隠して草の間からそちらを盗み見た。

 ザーッ、バシャ。その人物はもう二歩水の中を歩く。水かさはちょうど腿の辺り、霧が渦巻いてその人の周りを漂い、姿を見せたり隠したりする。背の高さは多分ぼくと同じか低く、顔は分からないけれどベンでないことは確かだ。ぼくの心臓は高鳴って、そのドキドキが森と河に流れ出し、その人が気付くんじゃないか、と恐くなった。

 その時、河の中の人はドプン、と身を沈め水に潜り見えなくなる。するとそれを待っていたかのように、吹いては静まり、吹いては静まっていた風が徐々に連続して吹き出して、霧が左から右へ吹き流されて行く。空の一点に光の塊が覗き、それが半円になり、ついに月が顔を出した。その瞬間。

 バシャン。潜っていた人が勢いよく立ち上がった。水しぶきが月の光に照らされ、白い宝石が飛び散ったように見えた。でも、その時のぼくの目が釘付けになったのは、白い体にまとわり付いた月光に輝く金色の髪だった。

 その白い体はやせていて、足の長さと手の長さが際立っていた。半月の光が漂う霧と川面に反射して、彼女の体は白く柔らかな布の中にくるまれているように見える。河から立ち上がった後、両手を髪にやって背中に流し、夜空を仰いだまま動かない姿は、村長の家にある白い彫刻の女性像によく似ていた。

 ぼくがその姿に動けなくなったのはこれで三度目だけれど、最初の屋根から覗いた時や二回目の再会の時より、ずっと刺激的な状況だったのに彼女と知れた瞬間、ぼくが感じたのは安堵だった。もちろん、偶然とは言え覗き見する羽目になったことに罪悪を感じていたけれど。

 それまで本物の女性の裸なんか見たことがなかったぼくは、卑猥な感情より先に彫刻や絵を鑑賞する時のような、とりすまして姿勢を正したよそ行きの感覚で彼女を見ていたんだと思う。


 ザーッ、ザーッ、ザーッ。エミリーは再び河を歩き出す。そして更に数歩行ったところで止まると、じっと川岸の方を見つめて動かなくなった。

 彼女の体に見とれていたぼくは最初、彼女が何を見ているのか分からなかった。あまり長く一点を見ているものだから、ようやくぼくもエミリーの視線の先が気になり出す。音を立てないようにゆっくり、はいつくばって移動する。シダとツユクサの中を数メートル、大きなイモの葉陰からエミリーの方を見て、それからその視線の先を見れば。

 息が止まって、心臓の鼓動が跳ね上がる。驚いて思わずイモの葉を動かしてしまったけれど、見つめる二人の人間は気付いた様子を見せなかった。

 ベンが河岸に立って、エミリーを見つめていた。だいぶ霧が晴れ、いつの間にか空も灰色の朝の色を見せ始めていたから、その表情もよく見えた。ベンは無表情で、両手をだらりと下げ、全く動かなかった。エミリーも胸や、もっと恥ずかしいところを隠す素振りも見せなかった。その表情も無表情で、ぼくだけが心臓をドキドキさせ、汗をかいて見守っていた。

 どのくらいそうしていたんだろう?ようやくエミリーが動き始める。それがベンの方向だったから、ぼくはごくりと唾を飲み込んで緊迫の一瞬に備えた。ベンは動かず、エミリーも彼を見ているのかいないのか、分からなかった。そして彼女がついに岸に上がり、ベンの横に来る。ぼくは彼女が何かするか、例えばベンを叩くとか、そんな想像で緊張していたけれど。

 エミリーはそのままベンの横を通り過ぎ、河岸の岩の上に畳んで置いてあった着替えやタオル、そして靴を抱えると、一糸もまとわない姿のまま森の中に消えて行った。その間、ベンは全く動かないで、彼女の方を振り返りもしなかった。ベンも銅像になってしまったかのようだった。

 直後、ぼくは思い至る。このままここにいて、彼らが先に帰ったらまずい。そう思うや、ぼくは急いで斜面を登る。背を低くして音を立てないように。霧が晴れて来たので、本当に急がないと二人に見つかってしまいそうだった。


 高台の空き地に着くと、慌てて自分の場所に横になった。ほんの少し後でガサガサと草を分ける音がして、ベンが空き地に入って来るのが分かった。ぼくは狸寝入りをして、スースーと寝息を演出する。ベンが近付いてぼくの様子を見下ろした。嘘寝がバレないようにぼくは必死だった。やがて、草を分ける音と共に、エミリーの声が聞こえる。

「おはよう、ベン」

 全くいつものエミリーの声だ。ベンは小さな吐息を吐くと、

「おはよう、エミリー」

 そしてぼくの背中を思い切り叩いた。

「おい、マレイ!いつまで寝てるんだよ!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空想科学祭FINAL参加作品です。
空想科学祭FINAL

アルファポリスランキング参加作品です。
cont_access.php?citi_cont_id=867021257&s

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ