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 女はぼくの方へ歩いて来る。まるであの時の再現のように、じっとぼくの顔を見つめている。ぼくはヘビににらまれたカエルのように固まってしまった。しかし不思議と恐怖は感じない。女の背はぼくと同じくらいで高い。肌は透き通るように白く、目は雨期明け時のアマゾン海に似たエメラルドグリーンだった。

 女はぼくの五メートルくらい手前まで来ると立ち止まる。しばらく、見つめ合ったままだった。ぼくは何か声を掛けないといけない、そうは思ったけれど一体何を話せばいいんだろう?言葉は通じることが分かっている。あの時、村長の言うことが通じていたし、ぼくらの言葉、カステジャーノ(スペイン語)で答えていた。何か言おうと必死で考え、そしてぼくの口を突いたのは今思えばまるで喜劇だった。

「霧が、深いですね」

 女は一瞬目を細めたけれど、すぐに、

「そうね」

 それは取り澄ましたわけでなく、取って付けたような感じでもなかった。ぼくは少しほっとしながら、

「この村に泊まっているんですか?」

「そう」

「一人で?」

「……そう」

 話せ。話し続けろマレイ。心の中で叫んでいるぼくがいた。

「あの……あのとき、あの、さん、サンマルティンであなたを見ました」

「知っているわ」

 女は硬かった表情を少しゆるめて、

「ああいうのは、あなたの趣味?それともこの辺りの流行?」

「え?」

「屋根の上から女の子の部屋を覗くことよ」

 ぼくはたちまち赤面する。やっぱり覚えていたんだ!

「あれは、ああ、あれ……ぼくはただ……」

 しどろもどろになるぼくに、女はクスリ、と笑った。それがとてもかわいらしい仕草だったので、ぼくは口をつぐんで見つめるばかりになった。

「あなた、歳はいくつ?」

 しばらくクスクス笑いが続いたあとで女の方から質問して来た。ぼくはちょっと考えたあと素直に答えることにして、

「十六。あの、今度の八月で十七」

「そう」

「あ、あなたは?」

「先月、十八になったわ」

 ぼくは少し悔しい気持ちになる。もっと年上かと思っていたのに。ベンたちが思っていたことの方が正しかった。この監視者はぼくらと同じ年頃だったんだ。

「だから、私のことをあなたと呼ばなくてもいいわよ。あなた、名前はなんて言うの?」

「マレイ。マレイ・ソトマイヨール」

「マレイ。すてきな名前ね」

 女、いや、少女は微笑を浮かべ、

「私の名前はエミリー。フルネームはエミリー・ブランドン」

 女が手を差し出す。でもぼくはすぐに動くことが出来なかった。

 地上の人間は握手なんかしない。ずいぶん昔、大破壊の際に流行した疫病のせいで、むやみに人と触れ合わない習慣になったという。それは上流階級の、例えば上級市の評議員みたいな人たちが大事な会議で行う儀式でしか見られない。でも、監視者はよくやる、と聞いたことがあった。ぼくはためらったあげく恐る恐る手を出し、彼女に触れると、さっと手を引っ込めた。そのあとで思わず手をズボンに擦り付けてしまい、はっとして止めた。気まずくなって俯くぼくに声がかかる。

「ごめんなさい、マレイ。地上の人は握手する習慣がないということを忘れていた。本当にごめんなさい」

 そしてぼくが見ている間に、さらりとした笑顔になって、

「あなたをマレイと呼ばせてね。私のことは、どうぞエミリーと呼んでください」

「エミリー」

 口に出して言う。聞いたことのない、けれどすてきな名前だ。ぼくは少し大胆になって来て、

「どうやってあの、ここに来たの?ボゴタシティの兵隊に捕まったんじゃなかったの?」

 するとエミリーの笑顔が消えて、

「捕まったけれど、飛行機が墜落したの」

 あのひしゃげた機体と、ぼくの知らない武器で死んだ兵隊。その光景が頭に浮かんだ途端、背筋を冷たいものが走って体の震えを押さえるのに必死になった。気を許してはいけない。それはエミリーの仕業かも知れないんだ。

「ほんとによく助かったね」

 ぼくは言葉に刺が忍び込まないよう、つとめて明るく振る舞おうとしていた。

「運が良かったのよ。でも一緒にいた人たちは墜落の衝撃で死んでしまった。私は座席から投げ出されて気を失い、気付いた時には飛行機から飛び出していて草の上に寝ていたの」

 ぼくが墜落した飛行機の残骸や死んだ兵隊たちを見ていなかったら、すっかりだまされていたのかも知れない。彼女はそのくらい上手に嘘をついていた。

「それで、ここまで歩いたの?」

「ええ。私はこれでもフィールドワークを何度もやっているから、これくらいのジャングルは慣れているの」

 フィールドワークって、一体何なのかその時はぼくは知らなかったけれど、頷いておく方がいいと判断した。ぼくはこちらが嘘を見破っていることを悟られないよう、注意をそらすために次の質問をした。

「マスクをしていないんだね。大丈夫なの?」

 すると彼女は眉根を寄せて、少し悲しそうに、

「私はエスケイパーの中でも十万人に一人の『変異者』だから」

「え、えすけいぱー?へんいしゃ?」

「エスケイパーってあなたたちが呼ぶ『監視者』のこと。変異者とは私みたいに防護処置をしなくても生きて行ける人たち」

 エミリーは自嘲ぎみに笑って、

「わたしはエスケイパーの中でも特別扱いなのよ」

 そのとき、カチリという音が右手からして声が掛かった。

「動くな!二人とも」

 フリオの声に思わずそちらを向くと、

「おおっと、動くなと言っただろう!撃っちまうところだぞ」

 フリオがいつの間にか右側の廃墟の前に立っていた。手に例の拳銃を握っていてゆっくりとこちらに歩いて来る。

「マレイ。彼女から離れろ。すぐにだ!」

 ぼくはフリオをにらみながらも、数歩、動く。

「いい子だ。よし、監視者さん、手をあげて向こうを向くんだ」

 そして彼女に近付きながら、

「武器を持っているなら今のうちに言ってくれないかな。そうでないと、あなたの高貴な体を探らなくちゃならなくなる」

 フリオがエミリーの体をなで回すのか、と思うと、ぼくは不快になって来た。すると、彼女が降参したようにズボンの背後から小ぶりな銃を取り出し、ゆっくりとしゃがんで地面に置き、続けて腰に付けたポーチからナイフを出して前に放り出した。

「結構。こちらを向いてください」

 エミリーがこちらを向くと、ぼくはたまらず、

「フリオ。彼女をどうするの?」

「取引の材料にする、と言わなかったかな?」

「上級市との?」

「そうだ」

「彼女を引き渡すの?連中に」

「条件が合えば、な」

 ぼくらのやりとりの間、エミリーは無表情のままだった。自分の運命が話されているのにだ。ぼくは彼女を横目に見ながら、

「でも、それで本当に村の人は助かるのかな?」

「カリシティ辺りに持ちかけて村人と金銭を条件にボゴタと取引してもらうのさ。そうすりゃ、カリシティはボゴタから金を貰えるし、ボゴタはこの女を手にして村人を釈放するに決まっている。数百人の人間を監視したり手なずけたりするのは結構大変な労力だぜ?そりゃ、サンマルティンが植民地になればボゴタは多少潤うがな。でも、かえって面倒が多いんだよ。向こうとしちゃ、生きた監視者と交換した方がずっとメリットが大きいのさ」

 フリオの言うことは筋が通っていたし、最初から言っていたことでもあった。ぼくらが彼女をカリシティに連れて行き、むこうの市長とか偉い人間と交渉してボゴタと掛け合ってもらい、最後はボゴタに行って村人を連れて帰る。ぼくたちは村の英雄になる。

 けれど、なぜかうれしくなかった。それに何かが心に引っかかっていた。

 その時、ぼくは視野の端にそれを見つけたんだ。けれどそちらを見たいという欲求を押さえ、ぼくは、

「よく分かったよ。でもどうして彼女がここにいると分かったの?知っていたからこの村の跡に来たんでしょ?」

 何でもいいからフリオの気を引いてあちらを振り向かせないこと。

「どうしてそんなことを考える?」

 いい加減な質問が当たりだったらしい。フリオは怖い顔でぼくをにらんでいる。やっぱり彼は何か隠しているんだ。

「だって、猟師小屋で言ってたじゃない、それはまだ言えない、とかさ。だからフリオは何か彼女のこと知っているのかと思ってさ」

 それを聞いてフリオは少し安心したのかにやりと笑って、

「まあ、まだ秘密だが、おれにはちょっとした情報源があるのさ。さあ、マレイ、話は後だ」

 もう少し、まだだ。

「彼女を縛ったりするの?」

「こいつがある」

 フリオは腰からジャラっと音を立てて手錠を取り出す。

「用意がいいんだね」

 ぼくは皮肉っぽくいいながら、目線がフリオの後に動かないよう必死になっていた。エミリーからも「それ」は見えているはずだけれど、ほっとしたことに彼女もそちらを見ず表情も変わらない。

「まあ、何事にも備えってヤツが大切だな」

 フリオはそう言うと、手錠を持ち替えて、

「少々、不便になりますが、勘弁願いますよ。それに、拘束しておかないと逃げられて、どこかであなたを追ってらっしゃる監視者の方々に始末されちまう可能性もあるんでね。あのチルトローターの連中みたいに」

 フリオは自信ありげにエミリーを見て、

「あんたは逃げている。ボゴタから。そして監視者から」

「え!」

 ぼくはびっくりしたけれど、彼女は表情を変えなかった。

「どっちにしても、あんたは逃げきれない。観念するんだね」

 その時、はっとした表情になったフリオが銃を上げてさっと横に動いた。けれど、自分に酔いしれて話していたのがいけなかったんだろう、ほんの一瞬反応が遅れて、クルクル回りながら飛んで来た太い枝の切れ端を頭にガツンと受け、フリオはバタリと倒れた。



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