お昼寝令嬢、呼び止められる。
ユティアがルークヴァルトの婚約者となり、王城にて王子妃教育が始まって暫く経った頃。
どこから漏れたのかは不明だが、王子妃教育を滞りなく進めていくユティアに対して印象を改めた者が多いのか、もしくは話題にする内容が減ったのか、周囲は落ち着きを取り戻していた。
王子妃教育と言っても、王家に関わる機密などは婚姻が結ばれた後に教わるらしい。なので、普段の王子妃教育はそれ程、大変なものではない。
もう少し慣れてから、ルークヴァルトの婚約者としての公務も増えるとのことだ。
それでもユティアは変わらない。学園に登校している今日もいつもと同じように昼寝をするため、秘密の場所へと向かっていた。
……ルーク様、もう来ているかな……。
お昼休みの時間に秘密の場所で共に昼食を摂り、その後に昼寝をするのが何よりの楽しみになっているユティアはほんの少し早足で向かっていた。
ここ最近、ルークヴァルトと同じ時間を過ごすのが「楽しい」と感じることが理由なのか、以前よりも足取りが軽い気がする。
これもきっと、ルークヴァルトのおかげだろう。一緒に過ごすのが楽しいと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
そんなことを思いつつ、廊下を一人で歩いていた時だ。
「──おい!」
遥か後方から、耳障りな声が聞こえた。
しかし、無視する。何せ、その声の主が誰を呼び止めたのか、分からないので。名前で呼び止めていない以上、自分ではないだろう、とユティアはそのまま歩き続ける。
「おいっ! お前のことだ!」
廊下なのでよく声が響くなぁと思ったが、無視する。こんな声で呼び止められる人は気の毒だな、と思いながら。
「立ち止まれ! お前のことだと言っているだろうが!」
声は更に荒げられ、苛立ちと怒気が含まれていた。
すると後ろから風を感じる程の勢いで、誰かがユティアへと駆けてくる。
肩を掴み、無理に後ろへと引っ張ろうとしたのだろう。ユティアに触れた誰かの手が、「バチッ!」という激しい音と共に、強く弾かれた。
「──痛ぁっっ!?」
どうやら声の主はユティア自身を呼び止めていたらしい。
名前を知らずとも、もっと丁寧で品のある呼び止め方はあったはずだ。それをしない人間を相手にしなければならないのは面倒だ、と思いつつも表情に出さないように気を付けながら、ユティアは振り返った。
そこには金髪に深い緑の瞳の、見知らぬ男子学生がいた。
だが、それよりも重要なのは彼がユティアに触れた際、自身に常時施している防御魔法が発動したことだ。
これはユティアが無意識の状態でも攻撃を防いでくれる魔法だが、特殊なのは悪意や害意を持っている人間による攻撃や接触も防いでくれるところだ。
それゆえに、相手が自分に対してどのような感情を持っているのか確かめるための術でもあった。
……つまり、この人は私に何らかの悪意か害意を持って、接してきたということ……。
目の前にいる男子学生は表情を歪めながら、ユティアに触れたであろう右手を左手でさすっていた。
赤くはなっていないようなので、冷やせば痛みも引くだろう。それをわざわざ伝える義理はないが。
「お前、何をした!?」
「何、と言われましても……」
「手が雷に打たれたように弾かれたぞ!?」
「静電気ですかね」
雷に打たれたようだ、とは言うが本当に打たれたことがあるのかどうかはこの際、置いておこう。
男子学生からの詰問に対し、ユティアは魔法とは言わずに用意しておいた言葉をさらりと答える。眉を吊り上げては迫ってくる男子学生の表情は苛立ちと怒りが混じっているようだ。
しかし、見知らぬ相手が何故、そこまで負の感情を自分に向けてくるのか分からず、ユティアは首を傾げそうになる。
「痛かったんだぞ!」
「静電気ってたまにすごく痛いですよね。無意識によるものなので、防ぎようがないですし」
何を言われても、静電気と答えよう。何故なら説明するのは面倒だし、この魔法のことは一般人には秘匿とされるものに今はなっているからだ。
「それで、何か御用でしょうか」
というか、そもそも彼は誰なのだろうか。顔も名前も知らないが、妙に偉そうなのだけは分かる。絶対に近付きたくはない部類の人間だ。
男子学生は嫌そうな顔で舌打ちし、ユティアを上から下まで不躾に眺めてくる。
「ったく、思っていたよりも愛想が無い女だな。体付きも貧相だし」
「はぁ」
「鈍臭そうで、気の利いた言葉一つ言えやしない」
「そうですか」
「だが、顔は気に入った」
そう言って、男子学生はにやりと笑い、ユティアへと手を伸ばしてくる。
左耳の前に下がっている三つ編みに触れようとしたのだろう。彼の手は再び、ユティアの防御魔法によって激しく弾かれた。
本当に懲りない人だな、とユティアは心の中で深い溜息を吐く。
「痛ぇっ!? だから、何なんだよ、これは!」
「静電気ですね。冬の時期は特にばちばちなります」
「もう、初夏だぞ!?」
「初夏だろうと、どこだろうと静電気が溜まりやすい人間はいるので不用意に触れない方が良いかと」
暗に触ろうとするなと言ったのだが、この男子学生には伝わっていないだろう。ぎゃー、ぎゃーと手の痛みを訴えてくるだけだ。
そもそも、常識がある人間ならば初めて会った相手に対して、許可なく触れることなどしない。
……早くここから立ち去りたいな……。ルーク様が待っているかもしれないのに。
目の前の男子学生を相手にするのが面倒だと思うのと同時に不要な時間を取られて嫌だ、という気持ちも湧き上がってくる。
もしかすると、これが「苛立ち」というものなのだろうか。
うずうずと、心の奥が騒ぎ始める。
彼は明らかに自分へと負の感情を向けている人間だ。それならば、まともに相手をしなくても良いのではないか、という考えが浮かんだ。
相手は自分に名乗っていないし、自分も相手から名前を呼ばれていない。つまり、これはお互いに知らない者同士ということだ。
ふむ、とユティアは決意する。──撒くか、と。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。……お前、あいつの──」
「──あっ!!」
男子学生の会話を途中で切り、ユティアはわざとらしくならないように気を付けながら、いかにも驚いたと言わんばかりの声を上げる。
そして、視線は彼の後ろへと向け、目を見開く、といった演技も同時に行った。
「は?」
ユティアが視線を向けた方向に何があるのか気になったのだろう、男子学生は振り返った。そこには何もないというのに。
その一瞬の隙をユティアは見逃すことなく、すぐさま自身に姿を隠す魔法をかけた。もちろん、詠唱を言葉にすることなく。
「……何だ? 何もいないじゃないか。急に大声を出しやがって……」
そう言いながら、男子学生はユティアの方へと視線を戻す。
だが、そこにはもう「視える」ユティアの姿はない。
「なっ……!? おいっ、どこに行った!?」
「……」
こうして目の前にいるというのに、男子学生は一切、気付かない。
渡り廊下には隠れる場所が全くないので、この短時間でユティアがどこに行ったのか分からず、本気で驚いているようだ。
気配を消すことにも慣れているユティアはそのまま、足音を立てずに彼の前からすぅっと立ち去る。
しばらくの間、顔も名前も知らぬ男子学生がユティアを探して喚く声が廊下には響いていたが、全てを無視し、ルークヴァルトのもとへと急いだ。




