お昼寝令嬢、第二王子と登校する。
先日、王城にて現在の実力を測る試験を受けたユティアだったが、その結果が届いたのは数日後だった。採点をした者は余程、急いだに違いない。
試験結果は全問正解の満点だったが、ユティアの父はわざわざ眼鏡を持ってきて、結果が記された紙を何度も見ては胃が痛そうな顔をしていた。何故だろうか。
……全部、サフランス家で学んだことが試験に出ていたから、特に難しいものはなかったし……。
もちろん、家庭教師から学んだこともしっかり身に着いているが、それだけではない。
サフランス家の者は、必要と思ったことは忘れない頭脳を持っている。
地理と歴史、そして語学は父が所有する本から学んだ。読書家であり、蒐集家でもある父は本ならば何でも読む。
それがたとえ外国語で書かれたものであっても、だ。
むしろ、外国の本が読みたいがために彼は七ヶ国語を習得していた。
それだけではない。サフランス家は薬草領と呼ばれる程に薬草の栽培が盛んだ。
病や怪我に効果がある薬草の苗を他国から取り寄せ、栽培することもあり、伯爵夫妻は買い付けに時折出向いた。
その際にユティアも付き添ったりしているのだが、現地で直接、外国語による会話を聞くことで日常会話などを学んだ。
それゆえにユティアは父ほどではないが、五ヶ国語くらいなら読めるし話せる。さすがに現地特有の訛り言葉までは習得していないが。
そして、算術は家の手伝いをしていて自然と身に着いたものだ。
領地の税収に関することや収穫高、収入や支出を計算しなければならないのだが、ユティアはその手伝いをしていた。
数字に一番強いのは他家に嫁いだ姉と母だが、その次くらいにユティアも計算が得意だった。
……途中、引っかけ問題みたいなものもあったけれど、満点が取れて良かった……。魔法の実技試験も問題なかったし……。
試験結果が出てから数日後にはダンスと魔法の実技試験が行われた。魔法の実技試験はさすがにドレスでは出来ないので、乗馬服に着替えて試験を受けた。
こちらの試験も、動かない的にただ魔法を当てるだけの簡単なものだった。
辺境伯である祖母に指導された時よりも試験内容は優しかったので、もしかするとユティアが伯爵家の普通の「令嬢」だから、と考慮してくれたのかもしれない。
そして一昨日、ユティアとルークヴァルトの婚約式が行われ、正式に婚約者となったのである。
……婚約者、かぁ。
すでにユティアがルークヴァルト第二王子と婚約した件は周知されているだろう。つまり、これまでユティアと関わりが無かった者が接触してくる可能性だってある。
……でも、もう面倒くさい、だけじゃ済まされない。
あらゆるお茶会や誘いをのらりくらりと躱してきたユティアだが、これから始まる婚約者という立場による変化に上手く対応できるだろうか。
そんなことを思っていると、馬車が少しずつ速度を落とし、やがてゆっくりと停まった。
「馬車が学園に到着したようですね」
アニエラの言葉に、ユティアは軽く頷く。
御者が扉を開けるのを待っていると、外から扉が数度叩かれた。
アニエラが返事をすれば、すぐに扉は開かれる。
共に馬車から降りて見送ろうとしたアニエラをユティアは止めた。
後続には学生が乗った馬車が次々と停車しており、ここでサフランス家の馬車をずっと停めておけば他の利用者の迷惑になると思ったからだ。
「アニエラ、今日も付き添ってくれてありがとう。帰りはいつもと同じくらいの時間に迎えにきてくれる?」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ、お嬢様」
わざわざ言葉にしなくても、ユティアの考えをアニエラは察してくれたようで、その場で頭を下げて見送ってくれた。
行ってきます、と言ってから開かれた扉へと向かう。
馬車から降りる際には御者が手を貸してくれるので、いつものようにユティアが自分へと差し出された掌に、手を伸ばした時だ。
「……えっ……?」
そこにいたのはサフランス家の御者ではなく──ルークヴァルトだった。
ユティアはそのままルークヴァルトの手に自分の手を重ねてしまう。
「ル……。……殿下、何故こちらに……?」
固まったまま、ユティアは問いかける。
脳内で記憶を掘り起こしてみたが、ルークヴァルトに迎えにきてもらう約束などしていなかったはずだ。
後ろからはアニエラの「ひぃぅっ」と引き攣った声が聞こえた。今の小さな叫び声が不敬にならないといいのだが。
「とりあえず、馬車から降りるといい」
「あ、はい。……お手を貸していただき、ありがとうございます」
何とか首を傾げそうになるのを留めたが、それでもユティアの頭の中は困惑でいっぱいだった。
ルークヴァルトはちらり、と馬車の中へと視線を向ける。
「……ああ、ユティア嬢は私に任せてくれ。ここまで、ご苦労だった」
ルークヴァルトは馬車の中にいるアニエラにそのままで良いと視線で制止し、扉を閉める。
最後に見たのは、石のように固まったままユティアを見ているアニエラの姿だった。
……そういえば、アニエラは遠方の男爵家出身で、侍女になる前から社交とは縁遠い暮らしだったと言っていたから、王族の方に会うのはこれが初めてかも。
ならば、あの動揺は理解できる。雲の上にいるような人と思っている相手が目の前に突然現れたら、驚きもするだろう。
馬車を見送った後、ユティアはルークヴァルトの手に自分の手を重ねていたことを思い出す。
「……あ、申し訳ありません。ずっと手を添えたままでした」
手を離そうとしたがそのまま引かれてしまい、先程よりも距離が一歩分、近付いた。
「このまま、教室までエスコートしよう」
「エスコート、ですか」
「婚約者ならば、エスコートするのは当然だろう? 鞄も持つから貸してくれ」
「い、いえ。さすがにそれは……」
婚約者になったとはいえ、王子に荷物持ちをさせるなんてとてもではないが出来ない。
ユティアが遠慮すれば、ルークヴァルトは少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
しかし、手を離すことなく、彼はそのまま校門に向かって歩き始める。
その場にはすでに登校している学生達もいて、ユティアとルークヴァルトが共に並んで歩いている姿を少しだけ遠巻きにしながら眺めていた。
「やはり、あの婚約発表は本当のことだったのか」
「彼女が第二王子殿下の婚約者……」
「何故、伯爵家の令嬢と婚約を……。家格が上の令嬢は他にもいるだろうに……」
そんな声が風に乗って、ユティアの耳に入ってくる。
けれど、ユティアはそれらの声に反応することなく、背筋をぴんと伸ばしたまま歩いた。
校門をくぐり、向かうのは校舎だ。
お互いに学年は違うので、教室がある階数も違うはずだが、ルークヴァルトは一年生のユティアの教室へと向かっているようだ。
「お手数をおかけしてしまい、申し訳ありません。……まさか、迎えに来て下さるとは思っていなかったので……」
「迷惑だったか?」
「いいえ。……ただ、少しだけ驚きました」
素直に答えれば、ルークヴァルトはふっと小さく笑った。
「馬車から降りる際、御者じゃなく俺だと知った時、君にしては珍しく表情が固まっていたな」
「だって、本当に驚いたんですよ……?」
ユティアはルークヴァルトの顔を見る。
眩しい。何というか、眩しくて仕方がない。そんな表現しか出来ない程に、ルークヴァルトはつやつやとした笑みを浮かべていた。
ふと、ルークヴァルトは周囲に聞かれないように声量を落とした。歩いている場所は廊下なので、少しでも声を張れば会話が他の学生に聞かれてしまうからだろう。
「ユティア嬢。……いや、これから君のことを『ユティア』と呼んでもいいだろうか」
それは、「家族」や親しい友人がユティアを呼ぶ時と同じ呼び方だ。
慣れているはずなのに、ルークヴァルトに呼ばれるとどうしても妙な心地がしてしまうのは何故だろうか。
けれど、ユティアは心の中でそう思っていても、感情を表情に出すことはない。
「はい、構いません」
ユティアが無表情のまま、こくりと頷けばルークヴァルトは安心したように小さく微笑んだ。
いつの間にか、ユティアの教室前に到着しており、自然と足が止まってしまう。それでも手は離されない。
「ユティア」
「はい」
少しだけ真剣に見える表情で、彼は言葉を続ける。
「君はいつも同じくらいの時間に、学園に登校するんだろうか」
「そうですね。学生が少ないこの時間帯が多いかと」
「そうか。……それで、その……。もし、よければ今後も迎えに行ってもいいだろうか。時々で構わないから」
つまり、今日のように馬車を降りたところから教室までエスコートしてくれるということだろうか。
確かに学生の中には今日のルークヴァルトと同じように、婚約者を教室までエスコートする者はよく見かけるが。
「ですが、ルーク様のお時間をいただくことになってしまうのでは?」
「少しでも交流を深めたいんだ」
「……」
ユティアは「お昼の時間はいつも一緒に過ごしているのに?」とは言わなかった。
「……では、どうか無理をなさらないようにお願い致します。さすがに毎日だと、大変だと思うので……」
ルークヴァルトにエスコートされることは嫌いではない。むしろ、共にいると穏やかな心地がするので好きな方だ。
「ああ、分かった。……それではまた、お昼休みに会おう」
いつもの場所で、とは口にしない。何故なら、誰が聞き耳を立てているか分からないからだ。
教室から廊下へと通じる扉は開いているため、すでに登校している数人の学生達が扉の向こう側からこちらを覗き込むように見ていた。
普段ならば、学年が違うルークヴァルトが一年生の教室に来ることなどありえないため、同級生達は驚いているようだった。
ルークヴァルトは去り際、触れていたユティアの手の甲に軽く口付けを落とした。
「!?」
顔には出さなかったものの、ルークヴァルトの突然の行為にユティアは驚いてしまう。
今、ルークヴァルトがしたことを見ていたのか、教室にいた何名かの女子生徒が控えめながらも小さい声を上げていた。
手を離したルークヴァルトは涼やかな表情で微笑んでから、去っていった。
ユティアはぱちぱちと瞳を瞬く。
そして、ルークヴァルトの背中と先程、口付けを落とされた手の甲を交互に見て、ぽつりと呟いた。
「……何だか……前より、距離が近い、ような……?」
婚約者になったからだろうか。
婚約者ならば、普通のことなのだろうか。
……ふむ。つまり、さっきのエスコートも手の甲への口付けも、婚約者同士なら「特別」なことというわけじゃないのね。
なるほど、なるほど、とユティアは心の中で納得する。
少しだけくすぐったいし、自分にとっては未知なるものだが、それでも嫌だとは感じなかった。
……うーん、私も何か婚約者らしいことをした方がいいのかな?
たとえば、親友のリーシャ・カルディンとその婚約者のスヴェン・レオストルがお互いに接する時の様子をよく観察してみて、実行するとか。
もしくは父の愛読書である女性向けの本を参考にしてみるとか。
もし、自分がルークヴァルトに婚約者らしいことをしたら、彼はどんな言葉や表情を返すだろうか──どんな感情を返してくれるだろうか。
普段ならば他者から返ってくるものに特に反応を示さないユティアだが、ルークヴァルトだけは別だと思ったのは、自分でも首を傾げるくらいに謎だった。




