公爵令嬢、淡い夢を見る。
クラシスがアークネストと婚約して、七年が経ち、学園へと入学する年になった。
必要以上に接することがないため、今もお互いの距離感は相変わらず、「他人」のままだ。
それでも変わったことはある。
側妃からお茶会の誘いが届いても、自ら断れるようになったことだ。
次期公爵として、やるべきことが多いからと色々と建前を並べて、きっぱりと断った。
もちろん、あの性格の側妃なので文句を手紙で色々と言ってくるが、それだけだ。
側妃が自らの「庭」であるあの王城の一角から出てくることなんて、ほとんどない。彼女がクラシスの心を害するためだけに、公爵家へと訪れることなどないのだとやっと気付いた。
だから、本当はわざわざ自分を傷付けに行く必要なんて、なかったのだ。ただ、幼い自分には断る勇気がなかっただけで。
今の自分はあの頃と比べると少しくらいは処世術が身に付いたのかもしれない。
「……でも、相手の行動をあらかじめ予測して対応する術は、まだまだね……」
クラシスは学生の行き来が少ない廊下にぽつりと立ち、独り言を呟く。少し遠くの場所から、学生達の賑わう声がかすかに響いてくる。
今日は新入生歓迎パーティーが学園で行われる日だ。
本当ならば、もう会場である広間に向かわなければならないというのに、エスコートをしてくれる予定だったアークネストの姿は隣にはない。
何故なら、クラシスは一人で学園に来たからだ。
「……はぁ……。少し考えれば、あの方がいかにわたくしを貶めようとしているのか、事前に察することが出来たでしょうに……」
先程、アークネストがクラシスではなく別の女子学生を伴って、会場入りしている姿を見かけた。
きっと今頃、学生達の間でクラシスはどうしたのかと根も葉もないことを言い交しているに違いない。
アークネストはクラシスのことをかなり嫌っている。今回、エスコートをぎりぎりの時間で拒否したのだって、クラシスに嫌がらせをするためだろう。
正直、学園に入学する前の方が気は楽だった。学園に在籍している上に同じ学年である以上、必ずアークネストと顔を合わせる場面があるからだ。
そのたびにクラシスはあくまでも「婚約者」として、アークネストに挨拶をしていた。
彼がいかにクラシスと話したくはないと思っていても、廊下で顔を合わせてあえて無視をすれば、アークネストは腹を立て、余計に面倒くさいことになると分かっているからだ。
だが、ただの挨拶でさえ彼にとっては不快だったようで、お目付け役は勘弁してくれと言わんばかりに毎回、罵詈雑言を浴びせてくるのだ。
それだけではない。
言い方が悪いのかもしれないが、アークネストはただいま発情期──いや、お年頃のようで、気に入ったあらゆる女子学生に粉をかけているという。
風紀が乱れるが、相手は第三とは言え王子殿下。
注意したくても身分が邪魔になり、出来ない者達はクラシスにアークネストの件を報告してくるのだ、それはもう何度も親切に。
おかげで、それまで保てていた心の平穏はがりがりと削られ、ここ最近は気疲れで溜息が増えたほどだ。
……でも、今はこの状況をどのように打破するべきか、考えないと……。
そんな時だった。
会場へと向かう第二王子のルークヴァルトとユティア・サフランスと会ったのは。
サフランス家の末娘と会ったのは初めてだ。
一応、祖父達が実の兄弟ゆえに血の繋がりはあるものの、親戚付き合いはしていない。祖父達の仲が悪いわけではなく、単に必要以上の付き合いをしないだけだ。
何故なら、サフランス家は趣味に生きる家系ゆえに、人付き合いに割く時間があるならば趣味に没頭したいと思う者ばかりだからだ。
その本当の意味を理解しているものならば、趣味に関することを侮蔑したり、邪魔をしてはならないと分かっている。
サフランス家はただの伯爵家ではない。
誰であろうと絶対に敵に回してはいけない者達だ。
……ですが……。なるほど……。ルークヴァルト殿下のお心を射止めたのがサフランス家の方ならば、どこか納得ですわ……。
サフランス家の者は自覚がないようだが、彼らがかなり格上の家の者の心を射止めることはよくあると祖父に聞いたことがある。
中にはぜひ妃に、と望まれて大国の王へと嫁いだ者もいるらしい。
だが、サフランス家特有の気質を理解出来ない者からすれば、「何故、サフランス家が?」と首を傾げることなのだろう。
そういった者は少なくないと聞く。
ユティア達は会場入りしないクラシスに声をかけてくれただけでなく、今まさに面している問題を自分のことのように悩んでくれた。
本当は自分一人で解決しなければならないことだ。次期公爵として、あらゆる問題に面しても冷静に対処しなければならない。
頼る相手がいない状況だって今後、たくさんあるだろう。だからこそ、どんなことがあっても心を強く持たなければならないのだ。
けれど、損得関係なく親身になってくれる彼らがあまりにも優しくて──素直に嬉しいと、思ってしまった。
するとユティアは、エスコートの役をルークヴァルトに頼めば、一時的に解決するのではと提案してくる。
案の定、その提案に対してルークヴァルトの表情がほんの一瞬だけ引き攣った。
これはクラシスのエスコートをするのが嫌だからではなく、エスコートをしたいと思っていたユティア本人にこの提案をされたことに対して、複雑さを抱いた感情の表れだろう。
けれど、本当にいいのだろうか。
ユティアの表情は出会った時から一切動かないが、それでも本当はルークヴァルトと──。
そこへ一つ、声がかかる。
初めて、声をかけられた時に比べれば、声変わりをしていて少し低く感じられるが、忘れることのない穏やかで柔らかな声。
「……フォルティーニ様、こんばんは」
好きな絵本に登場する「赤騎士」のような騎士になりたいと夢を語ってくれた彼。
今、目の前にいるラフェル・トルボットは、パーティーのために正装していたが、その装いはまるで物語に登場する騎士のように煌めいて見えた。
……ラフェル様……。
数年前に王城で出会い、それ以降は一度も顔を合わせる機会はなかったが彼のことを忘れたことはなかった。
辛い時や苦しい時、ラフェルと約束したことを思い出せば、背筋を真っ直ぐ伸ばすことができた。
きっと、ラフェルも夢のために頑張っているのだろうと思えば、何度だって顔を上に向けることが出来た。
彼の存在が今のクラシスを作り上げ、支えてくれていたと確かに言える。
そこに──そこに、決して表に出してはならない感情が潜んでいるのだとしても。
だが、驚いたのはここで会えたことだけではない。アークネストにエスコートを拒否されたクラシスに、自分がエスコートをするのはどうかとラフェルは提案してきた。
思わず、淑女らしくはない驚きの声が出てしまった。
そんな、夢のようなことが現実にあっていいのだろうか。
ほんの僅か、憧れを抱く相手にエスコートをしてもらうなんて、贅沢にも程がある。
けれど、これは決して夢の中などではなくて。
自分の手をラフェルに重ねてしまえば、更に現実だと自覚してしまうわけで。
……ううっ、どうしましょうっ、どうしましょうっ……! て、手袋はしているけれど、ラフェル様に触れるなんて……!
自分の顔は赤くなっていないだろうか。
手袋越しとは言え、緊張や熱が彼に伝わっていないだろうか。
クラシスは基本、気弱だ。
すましているように見えて、内心ではわたわたと慌てているのが常だ。
「あの、トルボット様。あなた様にまでご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません……」
クラシスの事情で、ラフェルに気を遣わせることになり、心の中は申し訳なさでいっぱいだった。
それなのにラフェルは涼しげな表情で言葉を返してくる。
「いえ、気にしないで下さい。むしろ、とても幸運だと思っているので」
「幸運、ですか?」
どういう、意味なのだろうかとクラシスは首を傾げる。
するとラフェルは眩しいものを見るように、ほんの少しだけ目を細めてから答えた。
「ええ。フォルティーニ様をエスコート出来るなんて、きっと二度とないことでしょうから」
だから、と彼は言葉を続けた。
「今宵限りとはなりますが、あなたの隣を歩くことを嬉しく思いますよ」
「トルボット様……」
ラフェルの言葉を受けたクラシスの胸はずきりと痛む。
そうだ、これは夢だ。
一夜限りの夢なのだ。
お互いの道が交わることなど、決してない。──ありえないのだ、絶対に。
……ああ、そうね。分かっているわ。……自分が望んではいけない夢を今、見ているのね。
眩しくて、優しくて、温かくて。
そして、二度と見ることは出来ない、「夢」なのだと改めて、自分の心に刻むことしか出来なかった。




