公爵令嬢、秘める。
柔らかな風がその場を吹き抜け、クラシスの赤い髪を揺らした。
「ぁ……」
突然、見知らぬ少年に声をかけられて驚いたクラシスは、思わず一歩下がった。
しかし、足元を見ていなかったせいで、靴の踵が石畳の隙間に引っかかり、体勢を崩してしまう。
「っ、危ない……!」
咄嗟に少年の腕が伸びてくる。気付けば、彼の右手はクラシスの肩に、そして左手は──クラシスの右手を引いていた。
だが、触れていたのは五秒も経っていないくらいに短い時間で、クラシスの体勢が安定したことを確認した彼はすぐに手を離した。
顔を上げれば、自分を助けてくれたというのに、そこには気まずそうな表情を浮かべる少年がいた。
「……咄嗟のこととは言え、許可もなく触れてしまい、申し訳ございません。俺が──いえ、私が声をかけてしまったばかりに……」
「い、いえ、そんな……。転びそうになったところを助けて頂き、ありがとうございました」
ふるふると首を横に振って、お礼を告げる。
確かに触れられたが、嫌だとは感じなかった。恐らく、少年から伝わってきた熱が優しいものだったからだろう。
「それに花を見ながら、ぼんやりしていたわたくしも悪いのです」
「花……。ああ、確かに今は薔薇が見頃ですからね。見とれるのも分かります」
「……ええ、見事です」
少年に返事をしたがふと、彼の表情が窺うようなものへと変わった。
「……もしかして、薔薇はあまりお好きではありませんか?」
「えっ?」
「いえ、その……。私の勘違いかもしれませんが……今、一瞬だけあなたが浮かべていた表情が苦しげに見えたので……」
その言葉に、クラシスは目を丸くした。
……感情を表に出さないように、上手く隠していたはずなのに……。
どうして、彼は気付いたのだろうか。いや、感情を制御出来ていない自分が未熟なだけだろう。
けれど、気付かれたことが、何故か──嬉しいと思ってしまう自分もいた。
クラシスは少年に向けて、薄っすらと微笑んだ。
「いいえ、薔薇が嫌いというわけではないのです。……ただ、赤い色があまり……」
好きではない、とはっきりとは言えなかった。
本当はそう言ってしまえたら、楽になれただろう。
赤は、自分だ。
自分のことが嫌いだと、言えれば良かったのに。
だが、見知らぬ相手に自分の胸の内を晒して、困らせるようなことだけはしたくはなかった。
それなのに、少年はクラシスの返事に対し、少し考える素振りを見せた。
「……俺は、好きです」
「え……?」
「赤い色のことです。……見ているとこう、元気が出るというか、強さを表しているというか……」
こちらに気を遣ってくれているのか、少年は突然、そんな話をし出した。
「それに俺が目指している理想の騎士が『赤騎士』と呼ばれていまして。……いや、逆だな。『赤騎士』に憧れて、俺は騎士を目指すようになったんです」
「赤騎士……。あ、あのっ、もしかして……『ノルタリアの赤騎士と花の姫』に登場する赤騎士様のことですか……?」
「そうです、絵本の! えっ、ご存じで……!?」
まさか、愛読書だった絵本を少年も知っているとは思わず、クラシスは弾んだ声になってしまう。
また、少年の方もクラシスが知っているとは思っていなかったようで、嬉しさからなのか表情が明るくなった。
「はい、わたくしもあの絵本が大好きなのです。全て頭で覚えているのに、何度も読んでしまいます」
久々に、自分の好きなものを誰かに打ち明けた気がした。あの絵本は亡き母との思い出でもあり、大好きな宝物だ。
婚約者である第三王子に打ち明ければ、幼稚だと罵られるに決まっているため、今まで好きなものを打ち明けたことなどなかった。
「俺も同じです。……この歳になっても、あの絵本だけはどうしても手放すことが出来ないんです。何せ、自分を変えるきっかけになったものですから」
「ご自分を変える……?」
クラシスはこてん、と首を傾げる。
「いやぁ、お恥ずかしい話、あの絵本に出会うまでは剣の稽古を怠ってばかりいたんです」
少年の家は貴族家だが、騎士を輩出する家でもあるそうで、親類のほとんどが騎士団出身らしい。
それゆえに、少年も幼い頃から剣を持たされていたようだが、あまり身が入っていなかったとのことだ。
「でも、『赤騎士』があまりにも恰好良くて……。あんな風に全力で、己の大事なものを守れる騎士になりたいと思ったんです。それからは真面目に剣の稽古をするようになりました」
小さい頃の自分を恥じているのか、少年は少しだけ頬を赤らめながら話した。
「だから、俺にとっての『赤』は強くて、優しくて、恰好良い色なんです」
少年はそう言って、繕った笑顔ではなく、年相応の無邪気な笑みを浮かべた。
偽りだらけの言葉ではない。
そこには彼が真摯に思いを込めて紡いだ言葉と笑みがあった。
ぱぁっと、まるで光に照らされるように少年の笑みを真正面から受けたクラシスは動けなくなっていた。
そして同時に目の奥がつん、と痛んでくる。
……ああ、この方は……なんて眩しい人なの。
赤が好きだと、彼は言った。
クラシスの目を真っ直ぐ見ながら。
それがクラシスにとって、どれほど嬉しい言葉だったのか、彼はきっと分からない。
ずたずたに切り裂かれていたものが、ゆっくりと縫い合わさっていく。
零れ落ちてしまっていたものをそっと掬うように。
彼は、今、この瞬間──クラシスの心を救ってくれた。
……たとえ、側妃殿下や第三王子殿下がこの髪の色をどれ程、蔑もうとも──たった一人でも「赤」を好きだと真っ直ぐ伝えてくれる方がいるなら、わたくしは……。
これ以上、自分を嫌いにならなくていいのだと思えた。
泣きそうになった目元に力を入れて、クラシスは心の底から笑みを浮かべる。淑女の仮面を捨て去り、今だけは偽ることのない自分でいたかった。
「わたくしも──わたくしも、いつかなれるでしょうか。あなたが教えてくれた、強くて、優しくて、恰好良い『赤』に」
なりたいと、思った。
少年は眩しいものを見るように目を細め、それからふわりと微笑んだ。
「ええ、きっと。……己がどう在りたいと、望んだ心さえ忘れなければ」
「……」
クラシスを否定することなく、少年は笑みを返した。
「それなら、俺も更に頑張らないといけませんね」
「え?」
「もし、次にお会いする機会があった時に、胸を張れる自分でいたいですからね。必ず、『赤騎士』のような立派な騎士になってみせます」
それは約束だったのかもしれない。
約束だ、という言葉で紡がなくても交わされた大事な結び。
だからこそ、曲がりかけていた背を支えるように温かな手が添えられた気がした。
クラシスと少年はお互いに顔を見合わせ、そして笑い合う。
すると少年はどこかはっとしたように我に返った。
「そうでした。迷っている最中でした」
どうやら少年は王城の中で、迷子になりかけていたらしい。少々、気恥ずかしげに彼は小さく笑う。
「まぁ、そうだったのですね。……ですが、こちらの渡り廊下を真っ直ぐ行くと、側妃殿下が住まう場所に続いていますので、戻った方がよろしいかと」
クラシスも、この場所がどのあたりなのか分かっていないが、自分は通ってきた廊下を戻れば、元の場所に出る。けれど、少年の場合は完全なる迷子なのだろう。
「えっ、側妃殿下の住まう場所……。……まさか、そんなところまで歩いてきていたとは……」
「どちらに向かう予定でしたの?」
「実はその、第二王子殿下の護衛候補となりまして。今日はご挨拶をするため、初めて王城に参ったのです」
「そうでしたのね」
第二王子というと、ルークヴァルトのことだ。つまり、彼はルークヴァルトと同い年なのかもしれない。
「ですが、お手洗いの際に席を外したあと……恥ずかしくも、迷子になってしまいました」
「王城は似ている場所が多いですから、迷ってしまうのも分かりますわ」
するとそこへ、渡り廊下の端から声がかかる。
「──ラフェル! こんなところにいたのか」
二人は声の主の方へと同時に振り返る。
銀色の髪を煌めかせながら、こちらへと少しだけ早足で向かってくるのは、たった今、話題に出ていた第二王子のルークヴァルトだった。
「殿下……」
「中々、戻ってこないから心配したぞ。やはり予想通り、迷子になっていたようだな。……ん? クラシス嬢じゃないか。久しぶりだな」
少年の傍にクラシスがいることに、ルークヴァルトはすぐに気付いた。
「お久しぶりでございます、殿下。お元気そうで、何よりですわ」
「まぁ、元気と言えば元気だが……。……どうしたんだ、ラフェル? そんな顔をして」
どんな顔だろうかとクラシスはラフェルの顔を窺ってみる。
彼は何故か強張っている表情をしており、その瞳には少しだけ寂しさのようなものが浮かんでいた。
「そのお名前は確か……。フォルティーニ公爵家の……」
「そういえば、お互いに名前を名乗っていませんでしたね。……クラシス・フォルティーニと申します」
「そう、でしたか……。確か、第三王子殿下の……。……あっ、失礼しました。女性に先に名乗らせるようなことをしてしまい、申し訳ありません。俺は……いえ、私はラフェル・トルボットと申します」
何故、だろうか。
今、ここで線を引かれたような気がしたのは。
ラフェルの顔には柔らかな微笑が浮かんでいる。それなのに、自身の心を押し殺すような苦しげなものに見えてしまった。
「クラシス嬢、ラフェルの相手をしてくれてありがとう。……この渡り廊下の先まで進んで、側妃の手の者に見つかれば、面倒になったに違いない」
「うっ……。迷子になってしまい、申し訳ございません、殿下……」
「次から気を付ければいいだけだ。そのために、今から王城内を案内するつもりだったのだから。それと、公式の場以外では敬語をやめろと言ったはずだぞ?」
「いえ、それはさすがに……」
ラフェルはルークヴァルトの護衛だけでなく、友人として選ばれた者でもあるのだろう。
ルークヴァルトも初めての友人相手に、ぐいぐいと迫っているようだが、それが何だか微笑ましく思えて、クラシスはふわっと笑った。
すると、ラフェルがクラシスの方へと視線を向けてくる。
「……フォルティーニ様」
「は、はい」
「今日はありがとうございました」
まるで──そう、まるでもう二度と会えないと分かり切っているような、そんな表情で彼は笑った。
自分は第三王子の婚約者で、ラフェルは第二王子の護衛兼友人だ。
だからこそ、目には見えなくても交わらない線がどうしても引かれてしまうのだろう。たとえ、自分達がそれを望んでいないとしても。
「っ、いいえ。こちらこそ。……わたくしも、トルボット様とお話しできて、嬉しかったです」
笑え、笑え、と自分の心を縛っていく。
この短い時間の中、クラシスがラフェルに対して芽生えたものを何と表現すればいいのか分からない。
たった一つ、分かるのはこの奇妙な心地を誰かに話してはならないということだけだ。
ずっと、ずっと秘めなければならない。
それがいかに苦しくても表に出してはならない。
それではまた、と別れの挨拶をしてからルークヴァルトはラフェルを伴い、その場を去っていく。
最後にラフェルがこちらを振り返った時、クラシスは無理に笑みを浮かべ、見送った。
名残惜しそうにこちらを見ていたが、やがてラフェルは唇を結び直し、小さく頭を下げてから背を向ける。
……さようなら、ラフェル様。
心の中ならば、名前で呼んでもいいだろう。
だって、自分の心だけは誰にも暴けないのだから。
クラシスは両手を重ねながらぎゅっと握りしめる。
……なってみせよう。あの方が好きだと言って下さった「赤」に。
もう一度、会えるかどうかは分からない。
それでも──。
いつかまた、ラフェルに会った時に、胸を張れる自分でいられるように。
新しい決意を胸に、クラシスはラフェル達とは逆方向へと向かって歩き始める。
そこにはもう、俯く小さな背中はなかった。
リアル多忙につき、不定期更新で申し訳ございません。




