公爵令嬢、出会う。
クラシスが第三王子、アークネストの婚約者となってから、二年が経った。
親睦を深めるためのお茶会は月に二回、王城の庭で行われるものの、互いの距離を縮めることは今も出来ていない。
たまにアークネストがお茶会を連絡もないまま欠席し、放置されることもあった。
恐らく、わざとであろう。しかも、この件に対する謝罪など一切なかった。
アークネストはクラシスを明らかに嫌っている。
令嬢として教育を受けてきたクラシスは周りの大人達からよく優秀だと言われるが、それでも人間だ。まだ、幼い子どもだ。
自分を嫌っている人間の相手をすることは想像以上に苦しいことで、そして精神的に負担がかかるものでもあった。
だが、それ以上にクラシスの胃が更に痛くなるのはアークネストの母、ヴァルノア側妃を相手にしている時だ。
王子妃としての行儀作法を教えることを側妃自らが行う、という名目で月に一度、お茶会に呼ばれるのだ。
そもそも、クラシスは公爵家の跡取りだ。確かに王子を婿として迎える予定だが、それでも「王子妃」としての教育を本来ならば受ける必要などない。
つまり、これがクラシスへのただの嫌がらせであり、日頃の鬱憤を晴らすためであることは明白だった。
しかも、お茶会に呼ばれているのはクラシスと同じ年頃の令嬢ではない。ヴァルノアと個人的に親しい貴族の奥方ばかりだ。
自分の母親と同じ世代の婦人方とお茶会をしなければならないなんて、なんという拷問だろうかとクラシスは気が遠くなりかけた。
さらにこの場に参加できるのは、クラシスだけだ。侍女の同伴さえも許されない。
……でも、このお茶会で何が行われているかなんて、お父様には相談出来ないわ……。
迷惑をかけたくはないことも本音の一つだが、何より父に──自分の娘がみじめな思いをしているなんて、知られたくはなかった。
それにこれくらいの悪意や敵意を簡単に対処出来なければ、この先、社交界に出た時にもっと苦労するに決まっている。
……この時間を乗り切れれば、自由になれる……。
けれど、早く過ぎて欲しいと思う時に限って、時間はゆっくりと進む。
お茶会に同席している婦人達はクラシスの一挙一動をじっと観察しており、少しでも粗相しようものならば、ここぞとばかりに全員で責めてくる。
そんな中でお茶を一口飲むだけでも一苦労だ。
しかし、緊張していたクラシスは、普段ならばしない小さな失敗を彼女達の目の前でやってしまう。
紅茶が注がれたカップをソーサーの上に戻そうとした時だ。
──カチャ……。
陶器が接触した音がその場に響く。
しまった、と思った時には同じお茶会に出席している婦人達の目が一斉にきらりと光った。
扇で口元は隠されているものの嘲笑が浮かんでいるのは明らかで、彼女達の瞳は獲物を狙う猛禽類のようだった。
「──まぁっ。公爵家のご令嬢とあろう方が、お茶を飲む時に音を立てるなんて……」
「公爵家では一体、どのような教育が行われているのかしらねぇ。わたくしだったら、恥ずかしくて、お茶会に参加なんて出来ないわ」
「……」
くすくすと、笑い声が降ってくる。
クラシスは知っている、彼女達は「母親」でもあることを。
クラシスと同じ年頃の子どもを持つ親達だというのに、他人の「子ども」に対して、この態度だ。
一方で、婦人達を招待したヴァルノアは、クラシスがみじめな思いをするのが余程楽しいのか、愉快げな笑みを浮かべていた。
「皆さん、そんなにこの子をいじめないで頂戴な。まだまだ、令嬢として足りない部分がある子ですの。どうか、大目に見てあげて?」
「ヴァルノア様は本当にお優しいですわね」
「このような方を義母に持てるあなたが羨ましいですわ」
羨ましいことなんか、一つもない。
けれど、彼女達に言い返すなんて、とてもではないが出来なかった。
……まるで調教されている気分だわ……。
言いたいことも反論できず、自分が持てる言葉の「牙」をゆっくりと削ぎ落してから、取り除き──そして、弱らせるために。
実際、クラシスの心は疲弊していた。
何を言おうが、何をしようが全てを否定され続ける。
子ども一人に対して、多数の大人達がそれを行うのだ。
心が疲れないわけがない。
……もう、駄目……。顔に出てしまう……。
ずっと、淑女の仮面を被っていたクラシスだが、保ち続けることに限界が来ていた。
感情が顔に出てしまえば、また何か言われるに決まっている。
自分が馬鹿にされるのは構わないが、実家や両親、親しい者を貶められることには耐えられなかった。
「……申し訳ございません。少し手が汚れてしまったので、落として参ります」
先程、カップがソーサラーに接触した時、紅茶が少しだけ零れ、指先を濡らしていた。
それを口実に、クラシスはお手洗いに向かうために立ち上がる。
背後からはクラシスを嘲笑する声が聞こえたが、早く立ち去りたい気持ちを何とか胸の奥に押しとどめつつ歩いた。
もちろん、付き添ってくれる者や案内してくれる者はいない。
あの場にいる使用人達は全て、側妃の息がかかっている者ばかりで、主に倣うようにクラシスを蔑ろにしてくるのだ。
庭から、王城の中へと続く吹きさらしの渡り廊下へと入り、クラシスは一人、静かに歩く。
……疲れた……。
背中を丸めて歩きたい気分だったが、ぐっと我慢して背を伸ばす。
お茶会が始まって、まだ一時間も経っていないというのに、クラシスは屋敷に帰りたい気持ちでいっぱいだった。
まだ十歳、というべきか。
それとも、もう十歳というべきか。
同じ年頃の令嬢達に比べると、大人びているとよく言われるが、本当は違う。
ただ、少し我慢強いだけだ。
だからこそ、先程のお茶会で苛め抜かれて泣き喚く、なんて失態を犯さずに済んでいる。
……出来るだけ、公爵家に泥を塗らない振る舞いをしないと……。
きっと、あの場に参加していた婦人達はクラシスの失態について、すぐに別の茶会や夜会などで言いふらすに決まっている。
しかも巧妙に、クラシスの父である公爵の耳に入らないように、女性達の会話の中だけで、だ。
……まだ、わたくしが社交界デビューしていないから、余計な話を耳に入れる機会が少ないけれど……。
自分がいない場所で色々と言われているだろうが、自称親切な人達がクラシスや父の耳へと気鬱な話を入れてこないだけでましな方だ。
「……どうすれば、いいのかしら。あの方達はわたくしが何をしても、『良いよう』には捉えてくれないもの……。自分を嫌っている方と賢く付き合うには、どうすれば……」
渇いた独り言は、反響することなく消えていく。
考え事をしていたクラシスはふと、立ち止まった。
「あら……?」
いつの間にか、知らない場所まで歩いてきていた。
庭に面している渡り廊下は、どこも似たような造りになっている。お手洗いの場所はとっくに過ぎていたらしい。
「ここは……どこかしら……」
王城によく来ていると言っても、クラシスは限られた場所しか赴かない。
歩いてきた通路を逆方向に戻り、お手洗いに向かえば良いだけだが、今はまだあのお茶会の場に戻りたくはなかった。
ふわり、とクラシスの赤い髪が風で揺れる。
今、クラシスが立っている場所は吹きさらしの渡り廊下であるため、庭の方から風が入ってきたのだろう。
……せっかく、王城に来ているというのに、庭で咲いている花を見る余裕さえ無かったわね。
誰もいないからと自嘲する笑みを浮かべて、クラシスは庭の方へと近付く。
今の時期は、薔薇の花が見頃だったらしい。専門の庭師が丁寧に世話をしているのか、薔薇は伸び伸びと咲いていた。
鮮やかで、美しく、見る人を魅了する花は堂々とした姿で咲き誇っている。
同じ赤色でも、自分はこの薔薇とは違う。
堂々といることも、誰かの目を留まらせることも出来ない。
むしろ、嫌われている程だ。
あらゆる人から愛される薔薇と同じ色を持っているのに、どうしてこんなに差があるのだろうか。それならば、いっそのこと──。
「……赤じゃなければ、良かったのかしら」
母譲りの赤色ではなく、側妃やアークネストのような髪色だったならば、ここまで邪険にされなかったのだろうか。
大好きだったはずの赤色。
それなのに、今は──この色のせいで、こんなにも苦しい。
考えたくはないのに、そんな風にしか考えられない自分が嫌だった。
思わず、薔薇を眺めていた視界が揺らぎそうになる。
こんな場所で泣くものかと唇を強く結び直した時だった。
「──どうか、なさったのですか」
「っ……!」
少し離れた場所から声をかけられ、驚いたクラシスは小さく肩を震わせる。
振り返った先にいたのは、優しい焦げ茶色の髪の少年だった。




