第二王子、恋心に苦笑する。
「ちなみにその書名は何というのだろうか」
何となく、ムルクが追い求めていた書籍の名前を知りたくなったルークヴァルトはユティアへと訊ねてみる。
「『ベスティール監獄の手記 第十三巻』です」
「ベス、ティール……?」
初めて聞いた名前にルークヴァルトは首を傾げてしまう。そのような監獄、存在していただろうか。
「今から三百年ほど前に北の大国に存在していた監獄に、収容されていた者達が書いた手紙や日記をまとめた本です。生身の記録書、とでも言いましょうか。ベスティール監獄はとても寒い土地にあった監獄でしたが、現在は存在していません。今から二百年ほど前に、この監獄は閉鎖されてしまったので」
ユティアにしては珍しく、饒舌に説明してくれるので思わず聞き入ってしまう。
「詳しいんだな」
「ええ。最終巻である『十三巻』以外の十二巻までは我が家に揃っていますので、そちらで読みました。人間の生々しい感情がそのまま『本』になっているものでして、その本を読んだ人の中には気が狂ってしまったり、普通の生活を送れないほどに精神が病んでしまう方もいたそうです。そのような事情もあって、刊行されなくなったのです」
「それは……。……ユティア嬢も読んだのだろう? 大丈夫だったのか?」
「え? ああ、はい。別に大丈夫でしたよ? 確かに、囚人達が現実の厳しさや自身が犯した罪への独白などは読んでいて、息が詰まりそうなほどに生々しかったです。それでも様々な人間の感情が凝縮されていて、興味深い内容でしたね」
読みたいような、読みたくないような。
そんな気持ちが沸き上がったルークヴァルトだったが、ぐっと心の奥へと言葉を押し戻した。
「ですが、この『ベスティール監獄の手記』が刊行されたことで、北の大国では犯罪が大幅に減少しました」
「何故だ?」
そのような話を聞いたことがなかったルークヴァルトは思わず、首を傾げる。
「内容が生々しい故に、あまり公にされてはいないのでご存知ないかもしれませんが、この書籍が『参考』にされたからです。……この書籍は様々な罪を犯した者達が書き記したものを集めた記録です。そこには彼らは何故、罪を犯してしまったのか、といった経緯なども綴られています。……生身の言葉です。飾ることのない、本心がそこには綴られているのです。読み深めれば、気が狂うほどの生々しい感情……。彼らが罪を犯した理由が深く、深く刻まれているものでした。……なので、この書籍を北の大国のとある宰相は何とか全巻読破し、犯罪が起きる理由や状況を調べ上げ、自身の足もしくは部下を使って、各家庭に赴き、調査をしたそうです。犯罪を無くすためにまず、原因を取り除こうとしたのです」
どこか遠くを見つめるような瞳でユティアは言葉を続ける。まるで、実際にその全てを見てきたように。
「この方のお名前ならば、ルークヴァルト殿下もご存知だと思います。北の大国──サスリカ王国で『鉄雪宰相』と呼ばれていた方です」
「ああ、ヴォスチ・モルチャリス公爵か。確か、福祉や医療に力を入れ、国民の生活に安定をもたらした宰相だと聞いている」
ヴォスチ・モルチャリスという宰相は寡黙で生真面目な人柄だったが、それでも他者に対する慈愛が深い人物だったようで、宰相という任に就いてからはひたすらに国民のためになる政策を考える日々を送っていたらしい。
他国であり、そして数百年も昔の人物だが、それでも名前が後世に伝わっていることから、彼が成した偉業は尊いものだったのだろう。
ルークヴァルトの答えにユティアは小さく頷き返す。
「……一年のほとんどが雪に覆われているサスリカ王国では、温かい気候を持つ国や凍らない海を求めて、国土を広げるために他国へ戦を仕掛けるべきだという意見が多かった中、このモルチャリス宰相だけは決して首を縦に振りませんでした。……戦によって、新たな富が生まれることもあるでしょう。ですが、宰相はそれを許さなかった。戦による最初の犠牲はいつだって、立場の弱い人間からで、そして後々、犯罪が増えると彼は様々な『歴史』から学んでいたからです」
かの宰相のことを思っているのか、ユティアの声は少しだけ弾んでいるようだ。
あまり、人に興味を抱いていないと思っていたが、歴史上の人物に対しては別なのだろうか。
「──『鉄と雪を愛せずに、この国を愛せようか』」
「……それは確か、モルチャリス宰相の愛国心が含まれた言葉として有名なものだな。この言葉がきっかけで『鉄雪宰相』と呼ばれるようになったのだったな」
「ええ、そうです。……どのような土地で生まれたとしても、まずはその土地のものを愛してこそ、その国の民と言える──。他の土地に目を向ける前に、鉄鉱石が豊富で、雪が降り止まない土地であるサスリカをまずは愛せよ、と宰相は言ったのですね。……私、この言葉が好きです」
好き、と言ったユティアの表情は『昼寝』を好きだと言った時に比べれば緩やかだったが、それでも雲間から光が地面へと降り注ぐように眩しく感じられた。
「宰相は鉄による産業にも力を入れ、国が戦を起こさずとも豊かにする道を選びました。もちろん、当時の王族や他の貴族からの反発はあったでしょうが、誰もが傷付かずに豊かになれる方法を模索した宰相として、国民からの人気は今も根強いらしいです。……実は私も鉄雪宰相の姿が描かれた肖像画をこっそりと持っています」
「持っているのか……」
その意外性にルークヴァルトは驚いてしまう。
まさか、鉄雪宰相のような男がユティアの好みなのではとふと思ったからだ。
「はい。偉人の中で最もお好きな方なので」
『偉人』と言っていたので、『好み』というわけではないのだろう。──そうだと信じたい。
一方でユティアは何かに気付いたのか、どこかはっとしたような表情をして、気まずげに視線を逸らしていた。
「……申し訳ありません。少し、喋りすぎてしまいましたね」
気恥ずかしいのか、ユティアはルークヴァルトから視線を逸らしたまま、自身の頬に両手を添えている。
「……王子殿下を相手に、このようなお話を長々としてしまったことをお詫び申し上げます」
柄にもなく喋り過ぎたと思っているようで、ユティアは丁寧に頭を下げてくる。
長話をしたことで、ルークヴァルトの気を悪くしたのではと思ったらしい。
「い、いや。君が謝る必要は全くないと思うのだが……。とにかく、頭を上げて欲しい。……それにユティア嬢の『好きなもの』をまた一つ、知ることが出来て、俺は嬉しいよ」
こちらも慌ててしまい、思わずいつもの口調で返事を返せば、ユティアは戸惑うように頭を上げつつ、目を瞬かせる。
「次は……気を付けます。……ですが、サフランス家の人間は好きなものを目の前にすると、饒舌になってしまう癖を持っているので……その、大目に見て頂けますと、助かります……」
注視しないと分からないが、頬はほんの少しだけ赤くなっており、彼女は恥ずかしそうに両手で組んだ指をもじもじと絡ませた。
ユティアのそんな珍しくも可愛らしい姿を垣間見てしまったルークヴァルトは思わず、顔を上に上げそうなってしまっていた。
──何なんだ、この可愛さは。
口に出なかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
自分が彼女の婚約者だったならば、遠慮なく何度だって言うのにと、そんなことを思ってしまう。
抱いた感情をぐっと心の奥底へと押し込めてから、ルークヴァルトは緩やかな笑みを浮かべた。
「また機会があったら、君が『好きなもの』についての話を聞かせてくれるか? ……ユティア嬢の話は俺にとって、どれも興味深いものばかりなんだ」
「……本当ですか?」
恐る恐るといった様子でユティアは上目遣いでルークヴァルトを見てくる。
「ああ、本当だ。君が持っている深い知識や確かな技術はどれも目を瞠るものだ。……それに君と言葉を交わすのはとても楽しいからな」
ルークヴァルトがそう答えれば、ユティアはぱぁっと瞳を輝かせる。
表情は笑顔と呼べるものではないが、それでも心から喜んでいるのは彼女を見れば分かることだ。
「……さて。それでは魔法管理局へと向かおうか」
ルークヴァルトがエスコートをするように手を差し出せば、ユティアは瞳を瞬かせてから、そして自然な流れで、彼女の手を重ねてくる。
そこに恥じらいや戸惑いなどは見受けられない。
触れることが出来るのが嬉しい反面、意識されていないのだと気付いてしまう自分もいて、中々に複雑だ。
それでも。──それでも、今はまだ彼女の心が自分に向けられていなくても構わない。
彼女が好きなものを楽しそうに語る瞬間を見られるならば、それだけでもいい。
そう思ってしまうのはやはり、自分が彼女に恋をしてしまったからだろうか。
……中々、妙なものだな、恋心というものは。
そんなことを思いつつ、ルークヴァルトはユティアに気付かれないように小さく苦笑した。




