第二王子、山場を越える。
「……まぁ、でも」
そこで母は一つ、息を吐く。
「あなたが一生懸命になる程に、好きな女の子が出来たことに関しては、本当に良かったと言えるわ」
視線をイルンへと向けるとそこには慈愛とも言うべき微笑みが浮かび上がっていた。
「そのご令嬢を自分で迎えに行きたいという気持ちも分かるわ。そこで──」
母はふふん、と愉快そうに笑ってから一つの言葉を告げる。
「変装をしなさい、ルーク」
「……は?」
「あなたの銀髪は目立つのよ。確か魔法の中に髪色を変えられる魔法があったわよね。それで色を隠しなさい」
「……」
イルンは何でもなさそうに言っているが、その魔法はかなり高度な技術が必要とされるものだったはずだとルークヴァルトは密かに思い出したが、口には出さなかった。
「それと私がよく使っているお忍び用の馬車を貸してあげるわ。その馬車でサフランス家に迎えに行きなさい。これならば、王子が乗っているとは外から気付かれないはずよ」
「え……」
お忍び用の馬車とは、母や義姉が街中へと繰り出す際によく使っている馬車で、見た目は王家の人間が中に入っているとは分からないような目立たない装飾の馬車のことだ。
公務などがなく、時間がある際には母と義姉はこの馬車を使い、時折、演劇を観に行ったり、美味しいものを食べに行ったりしているらしい。
「可愛い女の子を家まで颯爽と迎えに行くのは物語の定番でしょ! 『あ、こいつ、現地までエスコートも出来ないんだな』、なんて思われたくはないでしょ! もちろん、待ち合わせは待ち合わせで素敵だけれど! 相手がいつ、来るか分からない緊張感の中で、その人のことだけを思いつつ待つのは素敵だけれど!」
熱弁するようにイルンは捲くし立てているが、もしや身に覚えがある出来事なのだろうか。
その場合、相手は父となるが。確かに父は人としては良い人物だと思うが、恋愛方面が疎かったようで『あの人は確かにいい人だけれど、女心が分かっていないわ』とよく母が愚痴っていた。
「でも、馬車を貸すには条件があるわ」
にやりと母が笑ったため、ルークヴァルトは思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「当日、サフランス家に迎えに行く際に当主であるご両親にエスコートの件について話しを通しておきなさい」
「なっ……」
「あら、簡単なことよ? その場で求婚してこいって言っていないだけでも感謝して欲しいわ」
ふふふ、と楽しげに笑いつつ、母は獲物を逃がさないと言わんばかりの瞳を自分へと向けてくる。とても怖い。
「もちろん、娘さんと婚約させて欲しいって直接、その場で伝えて来ても良いのよ? ……まぁ、学園の新入生歓迎パーティーのエスコートの件を個人的に頼みに来ている時点で察すると思うけれど」
つまり、婚約についても話の裏に含めた心積もりで行けと言っているのだろう。
……急に緊張してきた気がする。
だが、心に決めた以上、後戻りはしない。
ぐっと喉の奥から飛び出そうになる何かを押し込めつつ、ルークヴァルトは顔を上げる。
「……分かりました。まずはサフランス家の当主宛てに手紙を書き、それから訪問したいと思います。その際に──婚約の件も伝えてきます」
「ふふっ、良いわ。それじゃあ、お忍び用の馬車を貸してあげる」
まるでそうなることが最初から分かっていたような笑顔をイルンは浮かべていた。
「は~……。これからどうなるのか楽しみだわ。ふふふ、恋愛小説を実際に間近で体験しているみたいだわ」
そう言えば、母は恋愛小説を読むことが好きだったなと思い出す。
女性は皆、好きなのだろうか。もしかすると大っぴらにしていないだけで、こっそりと読んでいる者もいるのかもしれない。
「母上、あまりルークを刺激しないで下さいね」
兄がルークヴァルトに申し訳なさそうな視線を送りつつ、母に向かって静かに告げる。
兄だけは自分の気持ちを理解してくれるようだ。
「上手くいったら、それで素敵だし、いかなかったら面白いし……。どちらに転んでもルークの成長に繋がると思うのよねぇ。これから、王子としての仕事も増えていくでしょうし、自分から行動することの練習の一つだと思いなさいな」
「……はい」
自分で取り次いで想い人の家に行き、エスコートの件と婚約の話をすることが人生における最初の分岐点だと言うならば、少し段階が早すぎる上に難易度が高過ぎないだろうか。
……いや、このくらい容易く出来なければ。
この先に待っているものの中には、親兄弟の力を借りられないものもあるだろう。
自分で行動を起こすことには必ず責任が付いて来る。それをいつまでも親兄弟に頼り、尻拭いしてもらうわけにはいかないのだから。
「それじゃあ、この件もあの人に伝えておくわね。まぁ、文句も反対も言わせるつもりはないけれど」
一瞬、イルンが黒い笑みを浮かべたが気のせいだっただろうか。
「……母上にはお手数をおかけします」
「いいのよ。まぁ、もちろん自分で色々と出来るようになれば、それが一番あなたにとって良いことだけれど、まだ私にとっては世話がかかる子どもだもの。……それに手を貸せば貸すほど、可愛い孫が増えそうだし」
「母上っ!?」
母の発言に対して思わず声を荒げてしまうルークヴァルトだったが、恐らく頬は赤くなっているだろう。
「ふふ、冗談よ」
いや、今の発言は冗談などではなかっただろう。
瞳だけはかなり本気だったように思えた。
「……さて、ルークの手腕を拝見させてもらうわ。ちゃんと頑張って来なさい」
それまで浮かべていた笑みをふっと消してから、使命を言い渡すような真面目な表情で告げたため、ルークヴァルトはすぐに表情を戻してから頷き返す。
「ルークがそのご令嬢とサフランス家に振られたならば、慰めの会でもしましょうかね。その時にはルークの好きなものを料理長に作ってもらいましょう」
「まぁ……。それならば私は持っている恋愛小説をルークヴァルト殿下にお貸しいたしますわ」
「確かに良い教本になるわよね、恋愛小説って。……はぁ、あの人もこの類の本を読んで、少しは勉強すれば良かったのに」
「ルークヴァルト殿下、ちなみに純愛、悲恋、大人向けの中でしたら、どれをご所望ですか?」
サラフィアは真剣な表情で訊ねてくるが、全部を読めと言わないか不安になってしまう。特に女性向けに書かれている大人が読むものは絶対に読みたくはない。
一応、王子としてはそういう知識も学んでいるのだが、はっきり言って未知の世界であるからだ。
「サラフィア、そのあたりで……。ルークが可哀そうだよ……」
この場で自分の味方は兄だけである。
「ルーク、お前の想いも大事だけれど、何よりもサフランス家のご令嬢の気持ちを最優先にするんだよ。……兄からの助言はそれだけだ」
「……はい」
兄弟間で確かめ合うように話している最中にも、母と義姉は恋愛小説について議論しているようだ。
その内容は登場人物に出てくる浮気性だったり、甲斐性がない男は駄目だとか、優柔不断だったり、中途半端な男には付いていきたくはないといったもので、かなり耳が痛くなる内容だった。
そのような内容を耳に入れつつ、ルークヴァルトは兄へと視線を向ける。
彼は「これは止められないなぁ」と諦め混じりに呟いていた。同意見である。
長い議論が展開されていくのを遠い目で見つめつつ、ルークヴァルトは静かに息を吐く。
それでも、一つの山場を越えたような感情に溢れ、人知れず安堵していた。




