第二十九話
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リアンはブロンズ像をスカートの内側に入れると石畳の床をけった。
『時間がない……速くいかないと…ベアーが』
礼拝堂を出て寺院の裏口までつくと見張りの傭兵がいないことを確認した。
『いけるわ!』
リアンは裏口から出ると森の小路を小鹿がはねるごとくかけた。
『ここを抜ければ街道に出られる、そうすれば、早馬があるはず。それに乗ればドルミナまで1時間もかからない……』
リアンがそう思った時である、突然、茂みの中から2人が現れた。
「そんなに急いでどこに行くんだい?」
現れたのはリアンの母親役のハンナと、父親役のスコットであった。
「今日は街に行く予定はないよな、ハンナ」
「そうね、あなた。今日は買い物の必要はないわ」
二人は疑似夫婦の会話をしながらリアンに近づいた。
「どこに行くつもりなんだい?」
「まさか治安維持官の所なんかじゃないよな、リアン」
スコットがそう言うとリアンは逃れようとした。だがハンナが素早くその行く手を阻んだ。
「困らせないで、リアン。お母さん悲しいわ。」
わざとらしい物言いにリアンは反吐がでそうになった。
「あら、あんまりいうことを聞かないようだとお仕置きが必要になるわよ」
「そうだ、悪い娘にはお仕置きが必要だ」
ハンナとスコットの眼が犯罪者のそれにかわった。
*
リアンはハンナの脇を何とかすり抜け森の小路を走った、だが礼拝堂を出てからずっと走っていたため体力は続かなかった。
「鬼ごっこは終わりかい。リアン?」
追いついたスコットはハンナに眼で合図した。ハンナはそれを見ると退路を断った。
「お頭がね、お前の様子がおかしいから、見張れって言ったんだよ」
「お頭の予想通りね、あなた」
ハンナとスコットはリアンに詰め寄った。
「お仕置きをしてあげよう」
「そう、最高のお仕置きをね」
邪悪な笑みを浮かべた二人にリアンはなす術なかった。
*
スコットは間合いを詰めてリアンを追い込むとカランビットナイフを懐から出した。
「さようなら、リアン!」
太陽光を浴びて銀色に煌めく刃がリアンの胸に振り下ろされそうとした。
『ごめんね、ベアー……』
リアンが絶望したその瞬間であった、
風のように不細工な生き物が現れると、電光石火のごとく素早い動きでスコットに頭突きをかました。スコットは吹き飛び、杉の幹に背中をぶつけると白目を見せて気絶した。
それを見たハンナは驚きを隠さなかった。
『何だ、このロバは……』
ハンナは混乱した。
*
ロバは間合いを詰めた。
ハンナはロバの気をそらすために善人の顔で話しかけた。
「あたしゃ、悪いことはしないよ。本当だ、今までまっとうに生きてきたんだ。性根はいい人間なんだよ、今だってお頭に無理やりヤレって……」
ハンナが泣きながらそう言うと、ロバは気の毒そうな顔を見せた。その表情には憐憫の情が浮かんでる。
『引っかかったね、この馬鹿ロバ!』
ハンナは近寄ってきたロバに隠し持っていた刃をつきたてようとした。
だが、ロバはその攻撃をヒラリと交わすと、すれ違いざまに蹄の一撃をくらわせていた。顎を砕かれたハンナはその場にうずくまると血反吐を吐いた。
ロバはその姿を見下ろすと低い声でいなないた。
『お見通しなんだよ、クソ婆ぁ!』
ロバのいななきにはそんな響きがあった。
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「助けてくれたの?」
リアンがおそるおそる言うとロバは首を縦に振った
「ありがとう…」
リアンはその首に抱き着いた。だがロバはにやけるどころか厳しい表情見せた。
「どうしたの?」
リアンが尋ねた時であった、寺院の方から馬の蹄鉄が地面を蹴る音が聞こえてきた。
「追手ね…」
絶望的な表情をリアンが見せた時である、ロバは顎をしゃくった。
「乗れって言うの?」
ロバが頷くとリアンは素直にロバにまたがった。
「これでいい?」
ロバはそれを確認すると短い脚で森の小路をかけだした。
*
馬に乗った追手はボーガンを構えるとリアン達に向けて矢を放った。訓練された傭兵らしく、その腕前は尋常ではない。ロバとリアンをかすめて矢が飛んでいく。通常、乗馬した状態で矢を射るのは至難の業である。だが二人の追手はそれをもろともしなかった。
「もうすぐ、街道に出ちまうぞ!」
1人の傭兵がそう言ったがもう一人は悠然としていた。
「大丈夫だ、街道に入る前には直線になる、あそこなら仕留められる」
追手の傭兵は余裕を見せた。
蛇行した森の小路が終わり、視界が開けた。整然とした杉林がリアンとロバの前に現れた。
「もう無理よ……」
リアンが絶望を吐露した時、ロバが悲鳴をあげた。臀部に矢が刺さったのだ。
『万事休す』
リアンは初等学校で習った故事成語を思い出した。
「もう、おわりだ、やっぱり……私じゃ無理なんだよ」
リアンがそう思った時、傭兵の1人がボーガンの狙いをつけた。
「いただきだな」
そう言ってほくそ笑んだ時である、一本の矢が傭兵の乗っていた馬の横腹に突き刺さった。馬は制御不能になり、ボーガンを構えた傭兵は振り落とされた。
もう一人の追手は何が起こったかわからなかったが、その耳に一番聞きたくない音が入ってきた。
『警笛、まさか治安維持官か?』
傭兵は馬の騎首を巡らすと脱兎のごとくその場を去った。
*
リアンはロバが止まると頭を上げた。そこには二人の治安維持官がいた。スターリングとカルロスである。
スターリングはリアンに話しかけた。
「何があったの?」
リアンはスカートの中からブロンズ細工を取りだした。
「ベアーが、ベアーが危ないんです!!」
「落ち着いて話して!」
スターリングに言われたリアンは今までの顛末を手短に話した。
*
スターリンは『なるほど』という表情を見せると襟の記章を外した。
「リアン、これを」
スターリングは記章をリアンに渡した。
「これは緊急の時にだけ許される行為なの、これを持ってドルミナの詰所に行って、そうすれば応援がすぐに駆けつけてくれる。」
そう言うとスターリングはロバに近寄った。
「あと一頑張りよ、リアンをお願いね」
スターリングがそう言うとロバはいななきを上げた。
「カルロス、行くわよ、礼拝堂に!」
言われたカルロスの顔は一変した。
『やべぇ、キスどころじゃねぇジャン……』
カルロスは『命のやり取り』が始まることを肌で感じていた。
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礼拝堂の中は混乱が生じていた、リアンが逃げただけでなく、治安維持官に見つかった可能性が出てきたからである。馬に乗って戻ってきた傭兵の報告を受けた頭巾の男は想定外の展開にほぞを噛んだ。
『そんな、私の計画が……』
まだ作業が終わっていないため、偽造小切手の精査は済んでいない。チェックしてない偽造小切手を両替商に持ち込むのはリスクが高すぎた。
頭巾の男の頭の中では計算が始まっていた。
『確実に偽造された小切手はまだ3分の1しかできていない。』
『出来上がったものだけ集めて………』
『止むをえまい、計画を前倒しだ』
そう思った時である、頭巾の男は気配を感じ振り返った。
「お前か……驚かせるな」
後ろにいたのは眼帯の亜人であった。
「お頭、マズいんじゃないですか……状況が……」
「案ずるな、高級貴族の土地は許可がないと入ってこれない、多少の時間はあるはずだ。」
頭巾の男はそう言ったが眼帯の亜人は不審な表情を見せた。
「そのバックパックに入っているのは何ですか?」
頭巾の男は沈黙した。
「まさか自分だけ逃げようなんて……」
眼帯の亜人が続けようとした瞬間であった。
「おっ……お頭……」
眼帯の亜人の腹には深々とショートソードが刺さっていた。
「余計な勘を働かせる奴に用はない。私の肥やしとなれ」
そう言うと頭巾の男はとどめを刺した。
*
『さて、他の連中はどうするかな……』
頭巾の男は戸棚を開けるとそこから小瓶を取り出した。
『これでいいだろ……そのあとは燃やせば……』
頭巾の男の眼には黒い焔が揺らめいていた。




