第十話
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舞台の初日は朝から異様な緊張感が一座を覆っていた。
「今日が初日だ。気合を入れろ!」
座長のコルレオーネが檄を飛ばすと劇団員たちの間に高揚感が生まれた。バイロンは生まれて初めての経験のため、周りの緊張感にプレッシャーを感じた。
『トチらないようにしないと……』
稽古こそしてきたが女優としての経験がない状態でいきなり『板に立つ』わけだ、緊張するなという方が無理な話である。バイロンは不安な表情を浮かべた。
そんなバイロンの様子を見るとラッツが声をかけた。
「大丈夫だよ、バイロン、たくさん稽古してきたんだし」
ラッツは気を使ってバイロンに笑いかけた、だがバイロンは体をこわばらせ小刻みに震えていた。明らかに強い緊張感がバイロンを支配している……
*
「よし、各自自分の持ち場につけ、役者は最後に自分の出番の動きを確認しろ」
座長が言うと蜘蛛の子を散らすように劇団員たちは離れていった。
「この緊張感たまんないね」
言ったのは管楽器担当のパリスである。
同じ演目とはいえども初日の公演はベテランの楽団員たちにとっても特別であった。
「ああ、いい感じの緊張感だね。」
ヘンプトンはアコーディオンを調律しながら答えた。
「どうなんだい、仕上がり具合は?」
パリスはバイロンのことを尋ねた。
「マズマズだね、芝居はアレだけど……歌の方はギリギリ及第点だろ」
厳しめの口調でヘンプトンは答えたがその顔には自信が浮かんでいた。
パリスはそれを見て愉快そうに笑った。
「かなり、入れ込んでたもんね」
「久々の逸材だからね」
ヘンプトンは自分の演奏以上にバイロンがどうなるかが気になっていた。
*
「皆さま、コルレオーネ一座のミュージカル『永久の愛』に来場くださり厚く御礼申し上げます。」
座長が開演の挨拶を始めると舞台の袖でスタンバっていた役者たちが息をのんだ。
「只今より幕開けとなります。1世紀に1度の大作をとくとご覧あれ。」
座長は言うや否や、客席の前に陣取った楽団の前に行き、タクトを手にした。
会場が一瞬静まる。座長は頃合いを見てタクトを振ると演奏とともに幕が開いた。
*
リーランドが飛び出して最初のシーンが始まった。袖で見ていたバイロンは心臓の鼓動が速くなるのが分かった。
『大丈夫、きっと大丈夫、うまくやって、お金を稼ぐの……』
バイロンは深呼吸をしながらそう思った。だが薄暗い劇場の中で篝火に照らされて浮かび上がった観客の顔を見るとその思いも掻き消えた。
その様子を見たラッツがバイロンに声をかけた。
「セリフ忘れても、俺が台本見せるから……」
ラッツも緊張しているのだろう、歯をガタガタさせながらそう言った。バイロンは頷いたが内心『無理だろう』と思った―――すでに最初のセリフさえ飛んでいる。
『どうしよう、どうすれば……』
バイロンが蒼ざめた顔で震えていると、出演するのにスタンバっていたライラが声をかけた。
「あら緊張してるの?」
ライラは続けた。
「主演の私の前でトチんないでよ、笑われるのは御免だからね」
そう言った後、ライラは汚いものを見るような目でバイロンを見た。
「娼館で客を取ってたクセに、肝が小さいのね!!」
残虐とも思える笑みを残してライラは舞台に踊るように押し出て行った。
「ひどいな、あのいい方!!」
ラッツがそう言ってバイロンの顔を見た時である。
「バイロン……」
バイロンの眼は中で『何か』が湧き上がっていた。それは怒りや憎しみではなく別の感情であった。
『やってやるわよ!!!』
腹を据えたバイロンの顔を見たラッツは驚きを隠さなかった。
『すげぇ、女優の顔になってる……』
ラッツは気合の入ったバイロンの表情を見て思った、
『俺、一生、バイロンついていこう』
*
バイロンが初めて板の上に立ったのはリーランドとライラが仲睦まじく愛を語るところに割り込んで行くくだりである。この時、彼女はセリフだけでなく『罵倒の詩』も歌わなくてはならない。
座長にとっては一番に気になるところであった。
『ここでうまくいけば……他のシーンもなんとかなる、たのむぜ……』
座長はバイロンが歌唱に入るタイミングを探るべくタクトを取った。バイロンは一連のセリフを終えるとアイコンタクトした。座長がそれを受け取りタクト振るうとヘンプトンのアコーディオンが劇場にこだました。
『最初の一言が一番大事だ、ここを乗り越えろ』
コルレオーネ一座の劇団員たちはバイロンの歌唱に注目した。
*
≪うすら汚い町娘、お前に合うのは汚泥だよ。
身分にそぐわぬ、その思い、さっさと捨てて消えうせろ。
穴の開いたそのブーツ、みすぼらしいったりゃ、ありゃしない
私の愛しい人に近づくな、貧しい娘よ、消えなさい≫
『罵倒の詩』が終わり場面が変わる時であった、そでで見ていたラッツは膝から下が震えているのが分かった。
『すげぇよ、バイロン、すげぇよ……』
初舞台で彼女が見せた歌唱力は明らかに想像を超えていた。一方、タクトを振っていた座長も明らかな手ごたえを感じていた。
『いいぞ、これなら、最後まで……』
ヘンプトンも同じ思いを持っていた。
『バイロン、いけるぞ!!」
二人は顔を見合わせ頷いた。
*
演目の最後のシーンとなった。リーランド扮する主役の青年がライラ扮する町娘と結ばれる場面である。没落したバイロン扮する女貴族が夢遊病者のようにして街をふらつきながら、幸せになった二人の結婚式を外から覗く場面だ。
座長とヘンプトンはこの部分を芝居からミュージカル風に変えて演出していた。バイロンのアイコンタクトを受けた座長はタクトを振るった。パリスがそれに合わせてフルートを吹くとバイロンが歌いだした。
≪あなたの心は離れたわ、私の想いは届かない。
落ちぶれたてしまったこの姿、あなただけには見せたくない。
歪んだ心の持ち主は私だったと気付いたの
だけど今はもう……≫
ライラ扮する町娘を散々な目に合わせてきた女貴族が自分の行ってきたことを振り返り、間違いに気付くという『詩』だ。だが、時すでに遅く、主演の二人は幸せになり、自分の存在に気付くことさえないという場面になる。
バイロンはこの『詩』をしっとりと謳い上げた。傲慢だった女貴族が身をやつし、華やいだ二人を遠目から見る『詩』は観客の間に波紋を投げかけた。
散々、町娘を罵倒してきた女貴族に『ざまあみろ!』と思う客もいれば、あまりの代わり様に『情けなくて気の毒だ……』と思う客も現れた。
芝居の醍醐味は観客の心をつかむことにある、それには良かれ悪しかれ客の感情を揺り動かす必要がある。バイロンの演じた女貴族は客に憎しみを植え付け、最後のシーンで虚無感を与えた。
『詩』を歌い終えてバイロンが舞台から袖にはけると観客がため息をついた。その溜息は明らかに観客の心をつかんだ証であった。ラストで幸福になった主演の二人が歌と踊りで盛り上げると観客は拍手を送った。
初日の公演は大成功であった。
*
舞台のそでに戻ったバイロンを迎えたラッツは汗で輝くバイロンを見て震えていた。
『本物だ、初めてでこれだけやるなんて……すげぇや』
バイロンは初日の興業で疲れ切ったのだろう、倒れるようにしてラッツにもたれかかった。ラッツはバイロンをおぶるとその足ですぐに休憩所に運んだ。




