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第六話

 バイロンにとって『喉を開ける』という行為はなかなか理解しづらく、それが体感できるようになったのは一週間たってからであった。


「結構時間がかかったけど、やっとできるようになってきたね」


ヘンプトンはほっとした表情を浮かべた。


「ここで挫折する人間もいるから……正直かなり心配だったんだよ……」


そう言われたバイロンはマジマジとヘンプトンの顔を見た。


「実は昨日、果物を食べた時にお腹を壊したんです。それで気持ち悪くなって……」


ヘンプトンはバイロンの話の意図を計りかね怪訝な表情を浮かべた。


「それで吐いたんですけど……その時に気付いたんです。『喉をひらく』ってこういうことだって」


「えっ?」


ヘンプトンは驚いた表情を浮かべた。まさかと思いヘンプトンは実際、自分で試してみた。


「………ほんとだ…」


まさかえづくときに『喉が開く』とは想定外であった。


「『怪我の功名』とはいったが、バイロンの場合、まさにその通りであった。


 余談だが、後にヘンプトンは『えづく』ことと『喉を開く』ことの共通点を分析し、それを歌唱の指導に取り入れる。これが都の歌劇団で採用され『ヘンプトン式呼吸法』としてダリス全土にひろがるのだが、それはこの時のバイロンとの経験が元になっている。


さて、話はもどる、


 『喉をひらく』というスキルは歌唱に際してかなり重要になる。この行為をマスターすることで低音から高音にかけての声の伸びがスムースになる。換言すれば旋律を滑らかに歌うことが可能になるのである。


「よし、低い方から段々と高くしていくから」


そう言うとヘンプトンは鍵盤をおさえた。


 バイロンは音に合わせて声を出した。一週間前に比べると明らかに違う声質にバイロンは自分でも変化を感じていた。


「うん、いいね。この練習は自分でもできるから、稽古の前にやっておくんだよ。芝居の本番まで時間がないから自分でやれることはやっておくんだ。」


そう言うとヘンプトンは芝居で使う楽譜を取り出した。


「よし、今日からは本番さながらの練習をするから、厳しくなるけど我慢してついてきてくれ」


ヘンプトンはそう言うと冒頭場面の楽譜を開くように言った。


「この芝居は7割が普通の芝居で3割が歌と演奏で構成されてるんだ。最初は普通の芝居に見えるけど、盛り上がったところと谷間の所で効果的に歌唱が入るんだよ。最初に君が歌うのがここだ。」


 そう言うとヘンプトンはバイロン扮する貴族の女が主役のリーランドに恋い焦がれる部分を指した。


「普通に歌うだけじゃダメでセリフに音を乗せる感じがいるから、けっこう難しいよ。この辺はリーランドやライラの芝居を見て勉強したほうがいい。」


バイロンは歌唱の練習をしてきたがセリフと歌唱が合わさったものはまだ経験がない。どうすればよいかわからず、困った顔を見せた。


「感情をこめて歌えばいいんですか?」


「うん……みんなそう思うんだけど……違うんだな…」


ヘンプトンは音楽の教師のような顔で答えた。


「セリフはお客さんに聞こえるように話さないといけない。歌に集中して滑らかな音で表現すると、何を言っているのか聞き取りづらいんだ。むしろ意図して歌わなきゃいけないから感情はコントロールする必要があるんだよ」


バイロンは表情をゆがめた。


「この辺りは役者としての部分と歌手としての部分が重なるから、勘だけではできないんだよ。まあ、取りあえず練習してみよう」


こうしてバイロンは『喉を開ける』という技を体得した後、セリフを歌で表現するレッスンに入った。


 座長のコルレオーネはその様子を影からのぞいていたが、変化していくバイロンの姿を見て自分の目利きに間違いがないことを確信した。


『よし、そろそろ、いい頃合いだな。』


コルレーオーネは『通し稽古』(最初からラストまでを一貫して行う稽古)を敢行することにした。


                             *


 通し稽古は役者だけでなく、裏方も全員集まって行われる。この稽古を通して芝居全体の流れや、場面転換の間の取りかた、休憩に入るときの幕引きなどを全員が把握する。実演と同じ環境に身を置くことでそれぞれが自分の役割を認識するのが通し稽古の重要なポイントになる。


 一方、演奏を行う楽団員は曲に入るタイミングやテンポ、そして役者との息の合わせ方を通し稽古で確認する。立ち稽古と違い場面転換が生じるので次のシーンに移るときの『間』の認識ができないと途中で流れが切れる恐れがある。この点は楽団員にとって一番留意する点である。


「諸君、早速だが通し稽古を行う。」


コルレオーネがそう言うと役者だけでなく裏方の劇団員も驚いた顔を見せた。


「もうやるんですか?」


声を上げたのは古株の管楽器奏者のパリスであった。


「そうだ」


 通常は公演の5日前から始め、最後の3日間で舞台を仕上げるのだが、今回は10日前から通し稽古を始めるという気合の入れようであった。


「お前たちも、立ち稽古はもう終わっているだろう、今回は早めに通し稽古を行って公演の準備に入る。」


 『立ち稽古』とは役者がそれぞれの出演する場面の立ち回りや、その場面のセリフを確認する稽古である。これが落ち着くと通し稽古に入るのだが、今回はそれを待たずに本番さながらの稽古に入る。


「どうしてですか?」


座長の意見に声を上げたのは主演女優のライラであった。


「どうしていつもと違うんですか、こちらも準備があるんですが!!」


 ライラの意見にも正当性があった、通常、衣装や小道具、大道具、そして舞台の準備が必要となる。今回はそれが中途半端な状態での敢行となる。


「お前の言うことはわかるが、今回は早めに全体をおさえたい。マチルダの開けた穴がどうなるか見極める必要があるんだ。」


座長は正直に言ったがライラは不服な顔を見せた。


「新人のためにスケジュールを調整するんですか?」


ライラは座長に噛みついた。


 通常、芝居の稽古は主演を中心として展開する。主演は他の役者よりも台詞が多く、立ち回りも大変なため、その仕上がりを見て『通し稽古』の日程が組まれるのだ。だが今回は新人のためにスケジュールが調整されている。


ライラは主演を差し置いてバイロンを特別扱いする座長の姿勢に不満を感じざるをえなかった。


そんな時である、リーランドがライラに声をかけた。


「いいじゃないか、今回は特別なんだし、それに俺たちは同じ演目を3回はやってるんだ。新人に合わせる度量もみせないと」


 ライラにはリーランドの指摘がわかっていた、素人に毛が生えただけの新人女優に目くじら立てるのがみっともないと……だが主演女優としてぞんざいに扱われたことは彼女の癪に障った。


それを感じたコルレーオーネはライラが発言する前に先手を打った。


「ライラ、たまにはお父さんの言うことも聞きなさい」


コルレオーネが諭すように言うとライラはブチ切れた。


「稽古場で父娘おやこは関係ないわ、それに、その言い方やめてくれる!!!」


そう言うや否やライラは稽古場を飛び出した。


ヘンプトンとパリスはその姿をみて『ヤレヤレ』と顔を見合わせた。


 一方、そのやり取りを聞いていたバイロンは自分のせいで人間関係にひびが入ったと思い複雑な心境になっていた。これから演目をこなすうえで、人間関係が濃密になるのは間違いない。バイロンはライラとの間に微妙な距離できたと感じた。


『大丈夫かな……これから先……』


バイロンの中で一抹の不安がよぎった。



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