第四話
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バイロンの稽古は白熱を帯びていた。講演までの3週間で役者としての立ち居振る舞いをおさえ、さらにはセリフや歌詞も覚えなくてはならない、自然と座長の指導も厳しいものになっていた。
「違う、間の取りかたがおかしい、もう一回だ!!!」
団長が台本を叩きつけた。
「それじゃあ、話にならん、容姿がいいだけじゃ客は納得しねぇんだよ!」
舞台を見に来る客は、大衆演劇と言えども目が肥えている。中途半端な素人を出せば『金を返せ!』と騒ぐのは間違いない。長く芝居をやってきているコルレオーネは『客』ほど恐ろしいものはないとわかっていた。
「まだだ、今のところ頭からやり直し!!」
座長はバイロンを怒鳴った。
*
一方、その姿を遠目で二人の男女が見ていた。
「3週間しかねぇけど、女優としては卵だろ、板に立つのはまだ無理だよな……」
「それに3曲は歌わないといけないから、時間的に無理よね……」
話をしているのはアコーディオン担当の禿げ上がった中年男と管楽器担当の色黒の中年女であった。二人ともコルレオーネ劇団の古株で10年以上、一座の裏方と音楽を担当している。
「あの娘は歌の方は、どうなんだろうな?」
「誰も聞いたことがないからね……」
演技だけでなく歌唱力も必要なミュージカルではバイロンの置かれた状況は厳しいどころではなかった。残り20日間で芝居だけでなく歌までもそれなりのレベルまでもっていかなくてはならない。いくら大衆演劇と言っても無理な話だ。二人は罵声を浴びせられるバイロンを見て何とも言えない表情を見せた。
「よし、休憩だ。ラッツ、バイロンの面倒を見ろ。食事がおわったら歌の稽古だ。」
座長がそう言って颯爽と稽古場を去ると、その声を聴いた二人はため息をついた。。
*
ラッツがバイロンを見ると脱水でフラフラになっていた。
「大丈夫かい、ちょっと待ってて……」
そう言うとラッツは砂糖を溶かしてレモンを絞った『力水』をもってきた。汗で出た塩分も補給できるように若干の塩も含んでいる。
「さあ、これ飲んで、疲れが和らぐから」
バイロンはそれを一気に飲み干した。
「あんまり無理しないようにね……」
ラッツは優しい言葉をかけた。
「ラッツ!」
急にバイロンは声を出した。
「何だい?」
座長に打ちのめされたところに優しい声をかければバイロンがうなだれてくるのではないかとラッツは密かに期待した。ラッツはここぞとばかりに『スキスキ光線』を出してバイロンの言葉に耳をかたむけた。
「社会の窓が……」
ラッツが確認するとそこは『全開』になっていた。
「さっきから……気になっちゃって……」
バイロンは恥ずかしそうに目を伏せた。
『マジかよ……』
ラッツは奇声をあげて稽古場を飛び出した。
時に、人間は思わぬミスを犯すものだがラッツのミスはあまりに情けないものであった。
*
歌劇の稽古はバイロンのオクターブを計るところから始まった。一般的に普通の人間がだせるオクターブは1オクターブ程度で、それを越えて2オクターブ、3オクターブと出せる人間は少ない。プロの歌手が訓練して出せる限界が3オクターブと言われている。
「じゃあ、どこまで行けるか計ってみるから」
アコーディオン奏者のヘンプトンはそう言うと基準になる『ド』の音を示した。
「この音を基準に弾くからそれに合わせて声を出してごらん」
バイロンは言われた通り、音階に合わせて声を出した。
「じゃあ、次はちょっと歌を歌ってもらう」
そう言うとヘンプトンはダリスのだれもが知っている子守唄をひき始めた。
バイロンは言われるがままに歌い始めた。
『そうきたか……』
ヘンプトンは難しい表情で顎髭に手をやった。
「ありがとう。座長がくるまでここでまっててくれ」
そう言うとヘンプトンは座長の所に向かった。
*
「どうだった、歌の方は?」
「芝居よりは全然いいですよ、2オクターブ近くは出てますね。稽古すれば2.5オクターブまでいけるでしょう。」
歌劇を長年やって来たヘンプトンにはバイロンの歌唱能力が透けて見えていた。
「声の質も悪くないし、将来性はあるね」
「そうか、音程はどうだ?」
「特に音痴ってわけじゃないんで、稽古すればそれなりには……でも20日間じゃ…」
「わかってる、3週間で『モノ』になるとは思ってないよ、だけど女優がいねぇから……」
座長にとってもバイロンを仕込むのは無理だとわかっていた。だが開けた穴を無理にでも埋めなくてはならない。
「とにかくやれるだけやってくれ、歌の方はそっちに任すから」
座長はそう言うと他の役者の演出のために稽古場に戻っていった。
「ヤレヤレだな……」
ヘンプトンは重荷を押し付けられたわけだが……その顔はまんざらでもなかった。
*
歌劇は芝居を中心として要所、要所に歌を入れるものと、全編を歌唱中心に展開し、普通の演劇部分を最小限にするものがある。コルレオーネ一座は前者のスタイルで芝居を行う劇団だが、演技派の女優が抜けたことで芝居部分が軽くなることは間違いなかった。
『曲を増やしてバイロンに歌わせれば、何とか誤魔化せるか……』
コルレオーネはどうするか思案したが、バイロンの歌手の適性を見てきめようとおもった。
「よし、バイロン、このシーンの頭の部分をやってみろ!』
コルレオーネがそう言うとバイロンは台本を片手に舞台の中央に立った。そしてヘンプトンがアコーディオンを奏でるとそれに合わせて主演のライラ扮する町娘を貶めるシーンのセリフを歌にして表現した。
『意外に、音感はいいな……』
座長は40年という芸能経験の中で様々な役者を見てきたがバイロンの歌唱能力が『悪くない』というのは一瞬で看破できた。
『問題は、どう演出するかだな……』
小さな一座の座長は演出家を兼ねることが多いが、コルレオーネもまさにそうであった。役者の適性や性格を見抜いて役に配置して演出しなくてはならない。
『芝居全体を動かして歌劇部分を増やすしかないか……』
座長にとって頭の痛い部分である。
『そうなると、早めに『通し稽古』をした方がいいかもな……』
座長は公演日から逆算した稽古のスケジュールを頭に描き始めた。
*
バイロンは楽譜が読めるのでアコーディオン奏者のヘンプトンは指示を出すのに苦労がなかった。
「すごいじゃないか、初等学校卒業じゃ楽譜は読めないんだけど」
「小さな頃に母が教えてくれたんです」
「そうか」
ヘンプトンの顔が明るくなった。バイロンに『音楽』ではなく『音学』の知識があることがうれしくなったのだ。
「こう見えても俺は上級学校で『ピアノ学』を専攻してたんだ。……色々あって今はこうなっちまったけど……」
含みのある物言いであったがバイロンは深く詮索しなかった。小さな劇団に身を置く人間に『ワケ』があるのは世の常である。沈黙して受け流すのがベターだと思った。
ヘンプトンはそれ察したのだろう、顔色を変えるとすぐさまレッスンへと移った。
「じゃあ、次は声の出し方だ。」
そう言うとヘンプトンは喉のことについて話し出した。
「いいかい、人の声帯は楽器に似ているんだ。だから使い方をおさえないと適切な声は出せない。」
ヘンプトンの言葉にバイロンは首をかしげた。
「声帯の位置を自分で知覚するんだ、そしてその位置を維持する努力をしないといけない。」
「声帯の位置ですか?」
ヘンプトンは深く頷いた。
「自分の声帯がどうやって動いているか確認してごらん」
そう言うとヘンプトンはアコーディオンを弾き出した。
「歌いながら、のどに意識を集中するんだ」
バイロンは伴奏に合わせて歌いだした。
だが、感覚がつかめない……
「喉仏の下に手を当てて歌うんだ。」
バイロンは言われた通りにしてみた。
「響いているのがわかるかい?」
バイロンは歌いながら頷いた。
「うん、声帯を振動させて音を出すということわかってほしいんだよ。」
そう言うとヘンプトンは『喉を開く』という概念に触れだした。
「声って言うのは声帯を震わせて出すんだけど、その音を適切に出すためには『喉を開く』必要があるんだ。」
『喉をひらく』という行為は声楽の最初の難所になる。自然とできる者には関係ないが、できない者は一生できない可能性さえある。
「これができると声が安定するんだ、じゃあ、弱い音から徐々に強い音にしていくからそれに合わせてごらん」
バイロンは伴奏に合わせて声を出した。
「うん……できてないね。今日はこの訓練を中心にしよう」
「あの……」
「何だい?」
「『喉が開ける』とどうなるんですか?」
バイロンが素朴な疑問をぶつけるとヘンプトンがそれに答えた。
「君の場合は低い音が弱いんだ、だけどそこが安定すると思うね。それに全体として1音から2音、幅が広がると思う。」
ヘンプトンは確信に満ちた表情で話した。
「さあ、やってみようか」
こうしてバイロンはヘンプトンの指示のもとに『喉をひらく』練習を行った。




