第十九話
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アナベルは茫洋とした表情を見せる二ノ妃を見て何とも言えない感慨をもった。二ノ妃が自室から窓の外を眺める様は健常者とは決して思えない。
『すでにこの女は我が手に落ちた』
アナベルがダリスの宮中に入り、最初に籠絡したのは他ならぬ二ノ妃であった。
『媚薬を用いて若人とのアバンチュールを楽しむだけでは飽き足らず、同性にさえも手を出すようになった……快楽を追い求める姿勢は貪欲……だが、それが命取りになった』
アナベルは二ノ妃がすでに健全な精神を保てなくなりつつあると考えていた。
『競馬会まではまともでいてもらわねば困る……あとはどうでもいいが……』
アナベルは不遜な忍び笑いをもらした。
『まあいい、トネリアの宝石商と競馬会、そして貴族たちの談合……我々の計画に抜かりはない』
アナベルは自信を滲ませた、
『バイロンもリンジーも所詮は小娘……修羅場をくぐった私からすれば赤子も同然……あとはマイラを落としてしまえば……』
アナベルの計画には重要な要素があった、
『競馬会で飛び交う裏金……そのコントロールは簡単ではない……』
アナベルは実に不遜な表情をみせた。
『だけど、それをなさしめるためにはあの書類が必要となる……』
アナベルは計画の本質を脳裏に描いた。
『アレには執事長であるマイラのサインが必要となる……』
アナベルは計画を貫徹するために必要な要素を深く理解していた。
『執事長のサインなければ……金は動かない』
アナベルはすでに執事長としてマイラの持つ権限の大きさに気付いていた。
『金の管理は第四宮で行う。もちろんトネリアから持ち込まれる金も一時的には第四宮の管理下に置かれる……そしてその移動許可はマイラの采配……マイラをおさえなくては……すすまない』
アナベルはそう判断すると再び不遜な表情を見せた。
『問題ないわ、これがあれば……』
アナベルは懐から実に小さな小瓶を取り出した。ガラス製の小瓶には紫色の液体が揺蕩っている……
『……これをうまく仕込めば……』
アナベルはそう思うと計画を完遂するべく一人のメイドを呼びつけた。
「お前には働いてもらいますよ、その代わり……」
アナベルはそう言うとそのメイドの手に小さな皮袋をわたした。
「開けてみなさい」
言われたメイドはくくられた紐をほどいてその中身を手の平に載せた。
「……美しい……」
赤光を放つその石は実に神々しい。透明度、大きさ、そしてブリリアントカットされているため自然物とは異なる美しさがある。
「競馬会が終われば、さらに追加の『石』を渡しましょう……」
言われた女はうっとりとした表情を見せた。だが、その視線は宝石には向けられていない……明らかに異なるものを求めている。
「明日の会議はとても重要です。レースの本番よりもね」
アナベルがそう言うとジュエルを手にした女がうるんだ瞳でアナベルを見た。その表情は明らかに尋常ではない。
アナベルはそれを見るとほくそ笑んだ。
「しょうがない娘ね……」
そう言ったアナベルは呼びつけたメイドに怪しげな微笑みを見せてから自室に引き入れた。
33
官能とは何か……そのメイドはその甘露な味わいを今まで知ることがなかった……
『……あれは素晴らしい……』
アナベルが女にもたらしたものはこの世のものとは思えぬ法悦であった。
『……男では無理だった……』
第四宮で働くようになって、それなりに異性との付き合いを持ってきた。俗にいう『いい男』と呼ばれる連中とも関係を持った。第四宮のメイドという立場は普通の平民とは異なる『男』たちとの接点をもたらしていた。
一般女性としては十分すぎるくらいの遍歴といえよう……
だが……アナベルのもたらすような超然とした快楽は彼らが与えることはなかった。
『……まさかアナベルが……』
そのメイドは自分の持っていた観念が覆されるのを感じていた。
『私の心のひだをアナベルはまさぐった……それも、とても上手に……』
当初、そのメイドのアナベルにたいする印象はすこぶる悪かった……トネリア出身の王室付のメイドということもあり鼻持ちならないと感じていた。
メイドとしての優れた業務遂行能力、立ち居振る舞い、適切な言動、そして豊富な知識を兼ね備えて知的さ……どれをとっても不愉快であった。
『不快の極みといっていい存在……』
そのメイドはそう思っていた……
だが、しかしである、あの晩、彼女から与えられた快楽は彼女の中で埋もれていた新たな感覚を引き出していた。
『私は……もう……ダメ……』
薬物とアナベルの持つ技術は女をすでに虜にしていた、逆らうことなど不可能である。
そのメイドはアナベルから渡された小瓶を見た。
『これを……会議の時に……お茶に入れて……』
女の脳裏に残った倫理観が訴えかける、ダリスの第四宮に仕える『誉れあるメイド』としての最後の意地がほのかに浮かび上がった。
『そんなことは、してはいけない……許されない……』
そのメイドは第四宮において安定した成績を残していた。長年にわたる経験は彼女を信頼のできる人物として宮長や執事長の眼に映しているはずだ。
『……だけど……あれはやめられない……』
女は渡された赤い宝石よりも、快楽の原資をむさぼりたかった。
『フフッ……アナベル……愛してる……』
女はマイラ、リンジー、バイロンを打ち砕き、アナベルの計画を貫徹するべくその一歩を踏み出していた。
アナベルが籠絡したのは二ノ妃だけでなく、第四宮のメイドもでした。このメイドはすでにアナベルの手に落ちてしまったようです……
バイロン達はアナベルの策略に応対できるのでしょうか……それとも…




