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第二十六話

59

さて、それより少し前――すなわちパトリックが食堂で胚芽パンを手に取っているとき……


 マルチンは校長室にその身を置いていた、査問会の結審について話すためである。だが校長はマルチンを見るとそれには触れず、別の事案について触れた。



「最初に……お母様が亡くなったと聞き及びました、お悔みを」



 マルチンは近親者にさえ知らせずに葬儀を秘密裏に終わらせていたため、学校の関係者にも話はしていない……校長の早耳には若干ながらも驚いた。


「……はい……」


校長はうなだれるマルチン見ると話し出した。


「大変だったとは思いますが……査問会の結審をせねばなりません……こんな時に申し訳ありませんが……」


校長がそう言うとマルチンは重たい息を吐いた。


「実は、そのことで報告せねばならないことがあるのです」


マルチンはそう言うと、査問会で知らしめたホフマンの署名入りの書類に関してふれた。



「じつは……あの書類を紛失しまして……」



さすが校長も唖然とした、



「パトリックを放校するための資料を紛失したと……」



校長がそう言うとマルチンは頷いた。


「……申し訳ありません……」


マルチンが誤ると校長は禿げ上がった頭部に手をやった。


「証拠となる書類がなければ、パトリックは放校できない……査問会は茶番になりますぞ」


 校長はそう言うとマルチンを軍人らしき相貌でねめつけた。明らかにマルチンを疑う視線が放射されている。



「何があったか話してくれませんか?」



マルチンは中途半端な言い訳に意味がないと判断すると、大きく息を吐いてから素直に話し出した。


                                   *


「私の母は重度の認知症でした、3年にわたる介護も意味がなく……記憶が薄れ……昨年からは、ほぼ廃人と思しき状態でした。糞尿を垂れ流し、町を徘徊するといった具合です……」


 マルチンがそう言うと校長の表情は硬くなった……そこにはどうにもならない病人を抱えるマルチンを察する思いがある……


「先日、私は魔が差しました……日頃の疲れもあったのでしょうが、母の失踪による心労……そして母の心無い一言により激烈な感情に襲われました。」


マルチンはそう言うと核心に触れた、



「私は母の首に手をかけていました……殺めようとしたのです」



さしもの校長もマルチンに対して厳しい目を向けた。


「その時です、少年と小さな女子が寝室のドアを開けて入ってきたんです」


マルチンは青白い顔で下を向いた。



「その少年は母の首を絞める私の手をほどいて、思いとどまらせると……その後、私の肩を抱きしめてくれました……」



マルチンの肩は小刻みに震えていた



「少年は私を治安維持官に突き出すどころか、『よく頑張った!!』とねぎらってくれたんです。」



マルチンを見た校長はその様に驚きを隠さなかった


「そのあと、落ち着きを取り戻すと……彼はお茶を入れてくれました。一緒にいた魔女の娘は気をきかせて土産に買った焼き菓子を出してくれました……」


マルチンは続けた、


「痴呆の母はとても楽しそうで……屈託のない笑顔を見せていました。もちろん話はかみ合いません……ですが少年はニコニコ笑って母の脈絡のない話を聞いていました。」


思わぬ展開に校長は言葉を亡くしている……


「その後、私たちは母を入れてしばし団らんを楽しみました。とても和やかな時間でした……母は青白い顔で焼き菓子をうまそうに頬張っていました……」


マルチンはそう言うとポツリとこぼした、



「ですが別れ際に少年は私にこう言ったんです……『もう苦しむことは長くないと』……」



校長はマルチンの言葉に訝しむ表情を見せた。



「どういう意味ですか……マルチン先生?」



猜疑心を含んだ校長の問いかけに対してマルチンは応えた、



「少年は母の様態から既に寿命が尽きかけていることを示唆したんです」



校長は怪訝な表情を見せた。


「彼は小さな村の僧侶の家に生まれたと言いました。幼いころから病人やその家族、病院から見放さされた人々……そうした人たちと今まで接してきたそうです。」


マルチンは続けた、


「少年は祖父からそうした人々との付き合いを学び、亡くなる前の人の死相を読めるようになったと言っていました……顔色やしぐさ、そして息遣い、病気の兆候…そうしたものから悟れるそうです。」


マルチンは落ち着いた声を出した、



「そして、少年の言うとおり……その翌々日の未明、母は亡くなりました……医者は感染症だと言いました。」



校長は納得した表情を見せた。


「なるほど……僧侶の家柄ですか……それなら理解できる」


校長はそう言うと真顔に戻ってマルチンに対して確信的な問いかけをした。



「マルチン先生、あなたの母君のことと僧侶の少年のことはわかりました……ですが、パトリックを追放するための書類を紛失したことの説明にはなっていませんよ。」



それに対してマルチンは答えた、



「ええ、そうですね……でも、また続きがあるんです」



 マルチンはそう言うと母の葬儀を少年に託したことを述べた。そして式が終わった後に少年に対して礼をいうくだりのなかで彼の素性を尋ねたことを述べた。



「彼はライドル家の末裔だそうです……そして今はポルカにある貿易商のところで見習いをしていると」



マルチンはそう言うと核心に触れた。



「その貿易商の名はフォーレ ロイド……」



校長はその名字を耳にすると一瞬でその内容を理解した。



「……パトリックの実家か……」



マルチンはさらに続けた、


「……私はパトリックのことをいっさい彼に伝えていません。もちろん、私が士官学校の教官であることも……」


マルチンは唇を震わせた、


「その少年はパトリックを助けるために私を救ったわけではありません。彼は痴呆の母を抱えて困窮していた私を僧侶として導いたのです……」


マルチンは涙を流していた、


「彼は打算で人助けをしたのではありません。ただただ、困っていた私に手を差し伸べてくれたんです。」


マルチンは続けた、



「貴族の身でありながら葬式をする費用もありませんでした。ですが彼は何も言わず僧侶としての務めを果たしてくれました。彼は私の心づけも受け取らず……そして何も言わぬまま、少女とロバとともに去っていきました……」



 マルチンの話を聞いた校長は言葉を亡くした。壮絶な状況を経験したマルチンに対する同情もあったが、僥倖ともいうべき事態の変化に息を詰まらせたのである。


マルチンは懐に手をいれた、



「書類を紛失した責任を取らせていただきます」



マルチンはそう言って辞職願を出した。


それに対して校長は大きなため息をついた。



「今回の事案はこちらにも落ち度がある……候補生の個人情報の漏えいは芳しいものではない。まして教官から候補生に対して漏れるなど……監督責任を問われかねない事態だからね……」



 校長はすでに職員がクレイに情報を流したスキームをすべて押さえて秘密裏に処理する算段をとっていた。


だがマルチンの吐露は校長の心を揺り動かした。



「ことを公にするのも……アレですから……」



校長はそう言うと手にしていたマルチンの辞職願を破り捨てた。



次回でこの章は終わりとなります。


作者の『痔』はよくなりましたが、巷ではコロナが流行り始めました。読者の皆様、くれぐれもお体にはお気を付けください!


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