第二十話
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ロバの背に乗った老婆は実に快活にしていた、ロバの耳を触りながら語りかける。
「あなた、とっても不細工ね。」
老婆は少女のような口調でロバに話しかけた。
「どこから見ても……完璧な不細工、フフフ」
老婆がロバに向かってそう言うと後ろにいた少女がププッと漏らした。爆笑するのをこらえている様子である。
一方、不細工といわれたロバは『われ関せず』といった表情で、向かい側から歩いてくる子連れの人妻に熱い視線を送っている。すれ違いざまにウインクすると人妻の臀部を神妙な表情で吟味していた。
不細工なロバが≪マズマズ≫といった表情みせると老婆が声をかけた。
「あなた、おしりが好きなのね」
ロバが素直にコクリと頷くと老婆は飼い主の少年のほうを見た。
「あなたも、おしりが好きなんでしょ……動物は飼い主に似るって言うし」
言われた少年は呆けた老婆の発言に驚きを隠さなかった……だが図星だったらしく何とも言えない表情を見せた……微妙な苦笑いといった感じである……
「やっぱり、男の子はおしりが好きなのね」
後ろにいた少女は老婆の見解を耳にすると手綱を引く少年に対して怒りのこもった視線を浴びせた。少年はその視線をごまかすようにして自分の顔をあさっての方向にむけた。
一方、そのやり取りを見ていたマルチンは母の言動に感情を揺り動かされていた。
『こんな母を観るのは何年振りだろう……』
呆けた母を3年にわたり介護していたマルチンは病院でさえ見せたことのない母の屈託のない表情に驚きを隠さなかった。
『まともに話すことさえできないのに……』
その後もマルチンの母は少年たちに向けて楽しげに語りかけた。顔色こそ青いものの快活にふるまう様子は一見すると健常人にさえ見える……マルチンはその様子を見るといかんともしがたい感情に襲われた。
*
少年の一行により自宅まで送り届けられたマルチン親子は粗末なあばら家の二階にある部屋へと入っていった。お世辞にも富裕層が済むような建造物ではない……貴族の片鱗さえ見せないその住居は没落の象徴とも見える……
少年はそれを察するとマルチンが差し出したいくばくかのお礼を受け取らずにいとまごいした。
それに対して少女が若干不愉快な表情を見せた。
「お礼ぐらい貰っとけばいのに」
少女の言動に対して少年は熟慮する表情を見せた。そこには貿易商の見習いとは異なる表情がある。
「あの人は貴族だね……だけど経済的には厳しいみたいだ」
それに対して鼻の穴をほじりながら少女が答えた。
「病人がいりゃ、没落もするでしょ。」
少年は神妙な顔を見せて二階を見上げた、そこにはマルチン親子の入っていた部屋の窓がある
「何年にもわたって呆けた母親を見ている……普通の人じゃできないことだ」
少年はそう言うと深く沈思した。そこには介護者を慈しむ思いが滲んでいる……
「呆けた人を見ることは大変なんだ……特に家族は想像を絶する苦しみを味わうことになる……自分を育ててくれた人の壊れていく姿を見ることになるからね……」
少年は物憂げな物言いで続けた。
「とてもつらいことなんだ……とても」
少女はいつになく深刻な様相をかもした少年に怪訝な表情を見せた。
少年は息の詰まるような口調で続けた、
「じいちゃんと一緒に人を看取る様子を何度も見てきたんだ……だけど……あの病だけは……どうにもならない……」
少年はそう言い切ると確信した表情を見せた。
「いやな予感がする……僧侶の勘がささやくんだ」
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マルチンは母親を寝室に連れて行くと……休ませようとした。
「さあ母さん、今日は疲れただろ……ゆっくり休むんだ」
マルチンがそう言うと母はそれを無視した。どうやらまだ休みたくないらしい。
「母さん、まだ仕事があるんだ。生徒の答案を精査しなくちゃならない。」
マルチンがそう言うと邪険にされたと思った母が憤った。
「自分のことばっかり!!」
そう言った母は近くにあったコップをマルチンに投げた。コップはマルチンに当たらなかったもののドアにあたると嫌な音を立てて割れた。散乱したガラスの破片が沈みゆく陽光を受けて妙な角度で反射する。
マルチンはその破片を見るといかんともしがたい感情に襲われた。
と、そのときである、老婆が怪訝な表情を見せて発言した。
「さっきから……うるさいわね!」
言われたマルチンは体を震わせた、その眼には涙が浮かんでいる……急激に感情が高ぶっていた……
「もう……3年だぞ……」
「もう、3年になるんだぞ」
マルチンの脳裏にこの3年にわたる介護の日々が走馬灯のようにかけまわった。そしてその思いはマルチンの怒りを生み落とした。
「誰が、おしめを変えていると思ってるんだ!」
「誰が毎日、食事を作っているんだ!!」
「誰が病院の入院費を払っているんだ、もう実家の屋敷も売り払ったんだぞ!!!」
マルチンは母を怒鳴りつけた。
「なんで、こんなことをするんだ!」
「どうしてこんなことをするんだ!」
マルチンの中でどす黒い感情が沸き起こる……
「俺が……わからないなんて……」
だが、母はそれを無視した……われ関せずといった表情である……それどころか赤の他人を見るような目でマルチンを見た。
「あなたはいったい誰なの、あなたなんか知らないわ!!」
母の思わぬ一言にマルチンは何かがプツンと切れるのを感じた。
そして、気付くと……
マルチンの両手は母の首にかかっていた……
だが、その手は緩まることはなかった。むしろその指には力がこもっている……
『もういやだ、こんな生活……もう嫌だ』
『楽になりたい……』
『普通の生活がしたいんだ!!』
そうおもったマルチンの脳裏に何かが現れた……そしてその何かは優しい声でささやいた
≪マルチン、楽になるんだ……少し手に力を込めればいい……さあ、マルチン≫
何かのささやきは実に小気味いい……マルチンは善意の失われた忘我の際に立たされていた。それはパトリックを不快に思ったときに現れた囁きと同じ声である……
≪そうだ、それでいい、それでいいんだ≫
マルチンの手にはさらなる力が加わった。
『これで、楽になれるんだ……解放されるんだ……この苦役の日々から……』
痴呆に襲われた母をマルチンは一人で介護し続けてきた。その労苦の日々は筆舌に尽くす……
治ることのない母の病は徐々に進行し、息子のマルチンの顔さえ認識できなくなっていた……教師の職務と介護に追われるだけの地獄がもたらしたのは耐え難い不幸であった……
そしてマルチンには限界が訪れていた。
マルチンが涙を流して力を込めた。
「もう無理なんだ、かあさん、許してよ…」
か細い声を震わせて指に力を込める、蒼白い母の顔に若干ながら赤みが差した。
と、そのときである、突然に、寝室のドアがバタンと開いた。そして一人の少年と少女がなだれ込んできた。
マルチンはハッとなって我に返った……己の所業が目撃されたことに息が詰まる……
少年はマルチンに足早に近づくと母親の首にかけたマルチンの手を強く握りしめた。
そして厳しくも真摯な表情でマルチンを見つめた後、慈愛のこもった微笑みを投げかけた。
介護の日々にさいなまれたマルチンはその精神を病み、とうとう母親を手にかけようとしました……
ですが、その時、少年と少女が彼の前に現れます……はたして、この後どうなるのしょうか?




