第三話
7
午後の授業が終わるとパトリックは宿舎にもどった。宿舎は石造りのコの字型になった3階建ての建造物で新入生は3階に居住することになっている。
パトリックの部屋は角部屋で入口からは一番遠い所に位置していた。中途入学のために開いている部屋をあてがわれただけなのでルームメイトは現在いない……
パトリックは制服のフロントホックをはずすと息を吐いた。
『飯まで時間があるな……図書室にでも行くか……』
夕食は6時からなのだが、それまで2時間近くある、
『……数学だけは追いついておかないと……』
そう思ったパトリックはそそくさと図書室に向かうと本棚に収められた参考書をあさって席に着いた。
*
参考書の表紙には
≪これからの数学≫
と、銘打たれている。
勢いよくパトリックはテキストを開いたが…その内容を眺めるとため息が漏れた。
『……暗号かこれは……』
数列の単元で出てくる記号のような文字を見たパトリックは、その文字が単なるアルファベットではなく≪意味≫があることに驚いた。
『和算の記号……こんなものもあるのか……』
ポルカで学校をさぼっていたツケが顕在化したパトリックは自分の知識の少なさに唸った。
『200ページは遅れているな……』
マルチンの授業と自分の知識を比べたパトリックはテキストに書かれた目次を見てその眼を細めた。
『……中間テストまでに追いつくのは…無理だな』
パトリックがそんなふうに思ったときである、その耳にほかの候補生の話す内容が聞こえてきた。
*
「マルチンの授業はやばいぞ……先輩の留年が確定したらしい……」
「マジか……」
話しているのは一学年上の候補生である、襟についた赤の組章がそれを示している……
「……追試でダメだったらしい……」
「うわ……留年て……どうすんの、それ……」
「実質、退学だよ……」
二人の会話は重苦しい雰囲気である……
「どうすんだよ……俺たちもあぶねぇジャン……」
数学に苦手意識のあることがわかる二人の様子はかなり切羽詰っている……だが、そこに別の候補生が現れると二人の様子はうって変わった。
「ホフマン!!」
ホフマンといわれた候補生は軍人の卵らしからぬ風貌である、でっぷりとしていて二重あごであり、そして唇が熱い。肌も浅黒くお世辞にも美男子とは言えない……醜いとはいわないまでも平均以下の容姿である。
「ホフマン……頼む、ノートを貸してくれ!!」
候補生の一人がホフマンを拝み倒すと、ホフマンはそれを無視した。
「この前の合コンで俺をハブっただろ……ダメだ!」
ホフマンの物言いはきっぱりとしているが二の句を告げさせない厳しさがある。
「今度埋め合わせするから、なあ、頼むよ!!」
もう一人が泣きそうな声を上げるとホフマンはそれを無視した。
「合コンの恨みは恐ろしいのだよ!」
ホフマンはそう言うとその場を離れた。
「くそっ……クビなし野郎……」
ノートを断られた候補生が捨て台詞を吐いた。
ホフマンは太っているため一見すると首がないように見える、詰襟で二重あごが盛り上がるために全く首が見えない……
『クビなしホフマンか……』
パトリックは今のやり取りを見ると、何とも言えない表情をみせた。
8
図書室での絶望的な自習を終えたパトリックは夕食をとるべく食堂へと向かった。心地よいにおいが鼻を抜ける……
『うまそうだな……』
給仕が配膳しているのは豚肉がたっぷり入ったポトフとリンゴをスライスして乗せたサラダ、そして胚芽パンである。
品数こそ少ないが盛り付けが優美であり、どことなく貴族の気品のようなものが滲んでいる。
パトリックは順番を待って夕食を受け取ると、朝と同じ席に着いた。
『やはり、うまいな……』
塩コショウという極めてシンプルな味付けだが、豚肉には下処理(余計な脂肪をトリミングして香草に漬け込んである)がされているため臭みや脂っこさを感じることはない。むしろ豚のうま味がしっかりと残っている。
同じくポトフに入ったじゃがいもは芯までしっかり火が通っているものの型崩れするようなことがない……つるりとした表面がランタン灯に照らされると実に美しい。また、盛り付けにも立体感があって、彩りを添えるにんじんが高さを演出している。
『サラダもいける』
リンゴのサラダには清涼感のあふれるドレッシングがかかっていたが、適度な酸味がじつにいい……シャキシャキとしたレタスとの相性は抜群である。さらにはこまかくきざまれた茹で卵がちらばっているため、目を楽しませる効果が発揮されている。
『レタスの鮮度がいいんだな……ブーツキャンプとは大違いだな』
パトリックがそんなことを思ったときである、前の席にローズ家の子息フレッドが座った。
「よう!」
フレッドには友人といえる存在がいないらしく、新しく入ってきたパトリックは気になる人物のようであった。
「ここの飯、まあまあってところだろ……」
フレッドがそう言うとパトリックはそれに異議を挟んだ。
「なかなか、うまいですよ。特にこの胚芽パンは焼き立てですし」
パトリックがそう言うとフレッドが口を開いた。
「お前ポルカにいたんだろ、あそこの魚介を喰ってれば、ここの飯なんて大したことないだろ。あそこの魚に比べれば、ここの飯なんて……」
ポルカの魚介に触れたフレッドはパトリックの口ぶりを気にかけた。
「学年も同じなんだから、もう少し砕けた言い方でいいよ、なんか話しづらい」
上級貴族であるローズ家は下級貴族であるパトリックの実家とは格が違う。そのためパトリックはあくまでフレッドを立てる姿勢を見せていた。
「もう少し……楽な言い方で……構わないから」
フレッドがそう言った時である、その後ろから突然声がかかった。
*
声をかけてきたのは二つ学年が上の上級生であった。その首元についた襟章が紺色であるため容易に判断できる。さらには袖口についた腕章から候補生の中でも選ばれた者であることも推察された。
『委員会の奴らか』
委員会とは候補生の中で優秀な人物で構成される生徒会のようなものである。その筆頭は総代と呼ばれ候補生の中で一番優秀な人物が選ばれる。
パトリックは食事をやめて立ち上がると敬礼した、上級生に対する挨拶である。
それに対して上級生は何も反応せずにフレッドのほうを見た。
「都の上級学校を放校になったときいたぞ、フレッド、どういうことだ?」
上級生の詰問する口調は実に厳しい、明らかに軍人のそれである。言われたフレッドは不快な表情を浮かべた。
「コネでこの学校に入学できたと耳にはさんだ」
上級生はフレッドをねめつけた。
「ローズ家の面汚しといわれんようにしろよ」
その物言いには有無を言わせぬものがある、フレッドは小さくなって俯いた。
上級生はそれを見ると直立不動の姿勢を見せるパトリックを見た。
「中途入学か……お前もワケアリか?」
尋ねられたパトリックは何も言わずに敬礼を続けた。
「挨拶の仕方だけは知っているようだな……」
そう言うと上級生はにらみを利かせた。
「どんな、経歴なんだろうな?」
上級生はパトリックの過去を知っているようなそぶりを見せた。
「ここは軍人になるための場所だ、お前がいたところとは違うぞ。行動には気をつけろ!」
上級生はそう言うとパトリックとフレッドのもとを去った。
*
上級生が去ると俯いていたフレッドが悪態を垂れた、
「あの、くそ兄貴!!」
その様は明らかに二人の間に軋轢があるように見える。
「気にするな、あいつは昔からああいうやつなんだよ」
フレッドは兄のクレスに対して不快な思いを持っているようで、同じ兄弟でも協力し合う様子は見えなかった、むしろ反目しているかのようである……
その一方、パトリックには気がかりが生まれていた。
『あの、クレスという人物は俺の経歴を知っている……ブーツキャンプにいたことを……ばれているのか』
思わぬ事態にパトリックはその表情を歪めたが、その事実が明るみになるのも時間の問題だと思った。
だが、その一方で、深く考えたところで現状が好転するようには思えなかった……
『なるようになるだろう……出たとこ勝負だな』
パトリックはそう思いなおすととふたたびポトフを口に運んだ。
*
食事が終わるといまだ気分が晴れないフレッドがパトリックに話しかけてきた。
「明日の午後、付き合えよ。遊びに行こうぜ!」
パトリックは断ろうかと思ったが、あまりに邪険に扱ってフレッドの気分を害するのも悪いと思うとその内容を確認した。
「午後の訓練が終わるのが4時だろ、そのあと町に繰り出す。門限は21時だ、十分すぎるくらいに遊べる」
フレッドはそう言うとニヤリと笑った。
「酒が飲める場所もあるし……女もいるぞ」
パトリックは『女』といった単語にこれといった反応を示さなかったが『町』という響きには感じるものがあった。
『……街の明かりか……』
士官学校のある近隣には小さな村や町があるのだが、パトリックはその中の一つ、ツーリという町が小さいながらもシェリー酒に定評があることを思い出した。
『おじい様がツーリのシェリー酒はうまいと言っていた……久々に外を見るのも悪くないかもしれん……気分転換も必要だな』
そう思ったパトリックはフレッドの誘いに乗ることにした。
「よし、じゃあ、訓練が終わったら校門のところで待ち合わせだ」
フレッドはそう言うとその場を離れた。
フレッドの兄であるクレイは士官学校の総代(生徒会長のようなもの)でした。ですがクレイとフレッドの中はあまりいいようではありません。
一方、クレイはパトリックの経歴を知っているかのようなそぶりを見せました、はたしてクレイはどのような人物なのでしょうか?




