第二話
5
午前の授業は幾何学、語学(公用語であるトネリア語)そして基礎工学が行われた。パトリックがブーツキャンプにおいて独学で学んでいた内容とはことなりいずれも高度な内容が展開している。
『……難しい……』
美しい青年は教科書に書かれた数式とチャートに沈黙した。
軍事教育は理科系的な科目が多い。建築、土木、地学、そして数学、それらは野営地の造成や砦を作る上での図面作成、そして塀の組み方の理論的な裏付けとなっている。さらには兵器開発やそれに付随する技術開発も理科系的な発想が必須となる。
だが、現在のパトリックの学力はそれらを理解するには程遠いものがあった……
『マズイな……次のテストは……』
基礎学力の底上げが必要なパトリックにとって中間試験はいかんともしがたいものである。だが、この試験で成績を残さなければ、パトリックは学園を追放されることになる。
『あの、くそ野郎……』
パトリックは入学段階ですでにラインハルトから指令を受けていたがその内容を思い出して腹を立てた。
≪士官学校における学業において成績を残さなければ、再びブーツキャンプで収監することになる。お前がキャンプで引き起こした事象をゆめゆめ忘れるな、テストで結果を残せ。 以上≫
短文ではあるが有無を言わせぬその文体は軍人らしい。だが、その内容はパトリックにとっては芳しいものではない……
『何とか乗り切らねば……』
パトリックがそんな風に思ったときである、板書していた教師が声を上げた。
「何をよそ見している、新入生!!」
そう言ったのは丸メガネをかけた、いかにもインテリといった男である。中肉中背だがどことなく影のある講師はパトリックを怒鳴った。
「よそ見をする余裕があるならこの数式を理解しているということだな」
栗毛色のかみを七三に分けた数学教師マルチンは意地悪くパトリックを詰めると、黒板に書いた数式を証明するようにパトリックに命じた。
『わかるわけねぇだろ、このクソが…』
パトリックは内心そう思ったが、その思いを微塵も顔に出さずに答えた。
「申し訳ありません、先生、わかりません」
軍人らしい口調でパトリックが述べるとマルチンは丸メガネをクイクイと人差し指で動かした。
「ほう、わからないにもかかわらず、よそ見していたのか……」
マルチンはいやらしい言い方で述べた
「これだから士官学校の候補生は……」
その揶揄する口調は普通の上級学校の生徒とは異なる意味がある。
「貴族の出来損ないと巷では言われていますが、それを払しょくできそうにもありませんね!」
マルチンは嫌味たっぷりに言うとパトリックに座るように指示した。
「君は中途から入った候補生だ……どうせ問題を起こして上級学校からいられなくなったんだろ。ここはそう言う連中が集まるところだからね」
マルチンが揶揄するように言うとパトリックは何も言わずに沈黙した。ブーツキャンプにいた過去は学校長以外には伏せられている。パトリックは余計な勘繰りを避けるために無駄な会話を割愛したほうが身のためだと瞬間的に判断した。
マルチンは沈黙するパトリックに舌打ちすると再び板書を始めた。
*
授業が終わると、パトリックのところに食堂で言葉を交わした候補生がやってきた。
「ネチネチ言われたな」
ローズ家の子息フレッドはパトリックの反応を見ずに続けた。
「マルチンはああいうタイプの教師なんだよ……ほかの生徒もやられてる……」
マルチンのやり方を熟知しているようでローズ家の子息は不快な表情を浮かべた。
「ローズ家出身の俺にも、ああだからな……あいつは」
ローズ家は御三家といわれる誉れある家柄である。貴族の世界では『貴族の中の貴族』といわれ、皇位継承権が代々にわたり受け継がれている名家だ。
つまりローズ家の関係者であるフレッドは多少の配慮があってしかるべきだと考えていた。
「この前の小テストなんか、容赦なかったからな!」
フレッドが『配慮』がないことに対して不快な表情を見せるとパトリックが正論を述べた。
「ローズ家が高貴な家でも軍人には貴族の家柄が関係ないという見解でしょ。この学校の方針でしょうからね」
軍属というのは命がけのミッションがあるため貴族の階級よりも能力が優先される。言い換えれば侯爵や公爵という大貴族でも十分な軍事的な素養がなければ重要なポストにはつけないのだ。
パトリックがその点を指摘するとフレッドは口をとがらせた
「そりゃ、そうだけどさぁ……」
フレッドはいささか不満な様子を見せたがパトリックの見解を受け入れた。
「ところで、お前はなんで中途入学なんだ。やっぱりワケアリか?」
フレッドに尋ねられたパトリックは適当にあしらう見解を見せた。
「ポルカでは学校をさぼってましたので」
パトリックがそう言うとフレッドがその表情をきらめかせた。
「いや、実は俺もそうなんだよね~」
士官学校への中途入学はワケアリ貴族の子弟が多いのだがフレッドもその例に漏れぬ存在のようだ。
「士官学校は人気がないから、まともな貴族は入らんからな……金がないか、素行不良のどっちかだしな……」
フレッドはパトリックに親近感を覚えたようで、にこやかな表情を見せた。
「俺も、最近ここに来たばかりだから、知り合いもいねぇし……よろしくな!」
デキのよさそうに見えないフレッドであるが高級貴族の子弟であることは否めない……パトリックは手を指し述べたフレッドの手を軽く握った。
6
数学教師マルチンは職員室に戻ると悪態をついた。
『腐った学生ばかりだ……』
マルチンはデキの悪い士官候補生に対して辟易した思いを持っていた。
『貴族という立場に胡坐をかき、学問さえまともにしない。代々与えられる土地と資産を継承するだけの愚か者め……』
太平の世が長く続いたことで能力のある貴族たちは軍人という職業を選ばずに政治家の道を目指すことが当たり前になっていた。すなわち遺族の中の3等品が士官学校に入学するのである……
『こんな学校の教師になるとは……不愉快極まりない』
マルチンはダリスの最高学府である大学校を卒業しているため、強いエリートとしての自負心を持っていた。実際、朋輩である同級生たちは学者、高級官吏、研究者などになっている。
だがマルチンの現実はそうではなかった、
『クズを教える教師に成り下がるとは……』
マルチンは子爵という下級貴族の家に生まれたために指導教授からの推薦書がもらえず上級職ともいうべき学者や研究者の道が絶たれていた。本人の能力とは異なる貴族の社会制度に阻まれ、能力があっても重職につけなかったのだ。
本人としてはいかんともしがたい状態にあった。
『こんなところにしか身をおけないとは……』
エリート意識の高いマルチンはその高すぎるプライドが災いして、その能力を生かせる民間業者の就職をすべて蹴っ飛ばしていた。官職にこだわり、ほかの下級貴族がうらやむような業者からの誘いを拒絶していたのである。
その結果……マルチンは給金の安い教職という道を選んでいた。己のプライドをだけが満たせる職種である……
だがマルチンは士官学校で教員として授業するようになると、思わぬ事実に気付かされた。士官候補生たちの学ぶ意識が想像以上に低かったのである。マルチンは貴族という階級に胡坐をかいて勉学に撃ち込まない彼らの姿勢に不愉快を通り越した思いを持っていた。
『学力だけでなく学ぼうとする姿勢がない……学べるありがたみを知らん奴らだな。まともな奴は5%もいない』
マルチンは程度の低い候補生たちの答案を見て反吐が出そうになった。
『このような屑どもではいずれ平民に寝首をかかれることになるな……』
マルチンがそんなことを思っていると、その後ろから声をかけられた。
「先生、いかがですかな?」
声をかけてきたのは学校長である、ローズ家の親戚にあたる人物で高貴な家柄だ。
「君はエリートだから素行の悪い学生や精神面に問題のある高級貴族の子弟を教えるのは面白くないと思うが……」
校長が見透かしたように言うとマルチンはフレッドのことを尋ねていると気をまわした。
「お身内のフレッド君は学業においては努力がまだまだ足りません……将来は現段階では明るくありませんな……」
マルチンがはっきりそう言うと校長は笑った。
「ビシビシ鍛えてくれてかまわんよ、むしろほかの候補生たちと同じように扱って欲しい。家柄など気にせずにね」
学校長の言動にマルチンは若干ながら驚いた。
「…よろしいのですか…」
それに対して校長が答えた。
「もちろんだよ、軍人は家柄よりも能力を重要視する。ローズ家はそう言う哲学だ。気にせずやりたまえ」
高級貴族の子弟はどこに行っても配慮されるものだが、校長はそれを厭う見解を見せた。
『公、侯、伯、子、男』という爵位の序列は貴族の世界では大きく幅を利かせている……多少の能力の差があっても爵位が優先される厳然たる事実がダリスには存在している。
マルチンはその事実をいやというほど思い知らされていた。彼が研究者になれなかったのも、位階の高い貴族の子弟が教授の推薦書を奪っていったからである……
『……どうせ冗談だろ……ローズ家は御三家と呼ばれる家柄だ……親戚のフレッドの成績が悪ければ最後には泣きついていくるはずだ……』
マルチンはそう思うと学校長の見解を受け入れる姿勢を見せた。そこには嫌らしい大人の打算が見え隠れしていた。
数学教師マルチン登場 以上です
* 寒くなってきたので読者の皆様、風邪にはお気を付けください!




