第十五話
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時間が立つのは速いもので『ロゼッタ』に来てからひと月がたとうしていた。ベアーは仕事にも慣れ、安定した毎日を送れるようになっていた。生地玉づくりも苦にならず、その質も安定してムラのある生地玉を捏ねることもなくなった。ランチのラッシュはいまだにきついが、それ以外のことはかなり進歩したといえるだろう。
ロバの様子を見に行くことと、パトリックの祖父に回復魔法を施しに行くという新しいイベントも生じたが、今ではそれもルーティーンワークとなりドリトスとは異なる生活リズムも完全に体得していた。
『マズマズいけてるな、このまま金をためていけばなんとかなるな……そう言えば最近、単語覚えていないな』
貿易商になるためには公用語の学習が必須である、そろそろ単語を覚え始める必要があるだろう。ベアーは再び単語帳を作り始めた。
*
だが、翌月に入ると大きな変化が起こった。
「どうかしたんですか?」
顔が厳しい顔つきの女店主にベアーは声をかけた。
「あんた気付いていないかい?」
「いいえ」
ベアーはのほほんとした表情で答えた。
「最近、ランチの皿を洗う枚数が減ったと思わないかい?」
女店主は『地獄の皿洗い』が『小地獄の皿洗い』に変化したこと仄めかした。
ベアーにとっては両方『地獄』でしかないのでさほど意識しなかったが、指摘されてみるとその通りで皿を洗う枚数が減っていることに気付いた。
「いつもなら100人は超えるんだけど、最近は80人弱、明らかに減ってる。」
金にうるさい女店主だけにこの事態はゆゆしきことであった。
その時、ベアーは公衆浴場で亜人と肌の黒い男が話しているのを思い出した。
「おかみさん、たぶん、新しい店ができたからですよ」
「えっ?」
「今月、新しいパスタ屋ができるって大衆浴場で聞きました。」
女店主の顔つきが変わった。
「ベアーその情報もっと詳しく!!」
女店主の顔が鬼気迫るものに変化した。ベアーは余りの剣幕に驚いたが、浴場で聞いた亜人と肌の黒い男の会話をそのまま話した。
「なるほど……これは偵察しないとね」
女店主はハイエナのような顔を見せた。
*
その週の水曜であった、店が終わると女店主はベアーを連れて新しくできた店へと足を運んだ。
「ここだね」
二人の前にはこぎれいにしたロッジ風の店があった。しゃれた看板にメニューが書かれているが嫌みのない字体はセンスを感じた。
二人が店内に入ると広いスペースがとられたテーブル席に案内された、客がひしめき合う『ロゼッタ』とは対照的だった。
「いいかいよく見るんだよ、メニュー、味、サービス、値段みんな把握するんだ。いいね!」
いつになく厳しい口調だが売り上げが落ちたことは死活問題である。ランチを中心として店を回している『ロゼッタ』としては相手を知る必要があった。
「よし、まずはパスタからだ」
渡されたメニューを見ると8種類のパスタがあった。トマトベースが3種類、クリーム系統が3種類、そして季節のパスタ2種類が用意されていた。
「あたしはペスカトーレだ、あんたはクリーム系と季節のパスタから選ぶんだ」
言われたベアーはカルボナーラと夏野菜のパスタを頼んだ。
*
給仕の若い女は笑顔を絶やさず女店主のオーダーにテキパキと応対した。美人ではないが好感がもてる。
「応対はしっかりしているね」
女店主はオーダーが終わるとメニューの値段をベアーにメモさせた。そしてその間に給仕やコックの動向を目ざとくチェックした。
「なかなかやるね、値段も悪くない。」
「ペスカトーレはうちより高いですね」
「ああ、でもボンゴレはこっちの方が安いね」
女店主がそう言った時であった、先ほどの3品が運ばれてきた。
「よし、味見をするから」
そう言うとそれぞれのパスタを小皿に分けて取った。
「あんたも食べな、感想を聞かせておくれ」
こうして二人の吟味が始まった。
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ペスカトーレに関しては明らかにロゼッタの方が上だった。だが、カルボナーラと季節のパスタはおもった以上に味がよく、客が流れる理由が分かった。
「メニューが多い割にはどれも出来がいいね、それに量も質も悪くない……なるほど、こりゃやられるね。」
女店主は再びメニューを開いた。
「ラザニアを食ってみよう、それからデザートだ。」
女店主はラザニア、ティラミス、そしてプリンを頼んだ。
ベアーは久々に甘いものが食べられるのがうれしくなったが女店主の顔はそうではなかった。商売人としての厳しさが浮き出ている。
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程なくしてグラタン皿に乗ったラザニアが運ばれてきた、上にかけられたチーズがグツグツとして湯気を上げている。
「ラザニアって何ですか?」
「ミートソースと薄い板状のパスタを何層か重ねて焼いたもんだよ、最後にチーズをかけるんだけど」
そう言うと女店主は取皿に取ったラザニアを口に運んだ。
その顔は一瞬で厳しいものへと変わった。ベアーはその様子を見てからラザニアを食べた。
「う、うまい……」
肉類が久しぶりということもあったがラザニアのミートソースは絶品であった。必要以上の油脂分が感じられず、後味がさっぱりしていた。魚介に食べなれているポルカの人にとってもこの味は間違いなく受ける。
その後、プリンとティラミスがやってきた。両方とも専門店の味には及ばないものの自家製スイーツとしては群を抜いていた、おまけに値段もリーズナブルで良心的だ。
食事が終わると女店主が一言発した。
「完敗だ……」
女店主の顔は青ざめていた。
*
翌週の売り上げはさらに落ちた。カウンター席はかろうじて埋まっていたが外に並ぶ客は一人もいなかった。新しくできた店に客の足が向いているのは間違いない。
ベアーは洗い場で皿を洗っていたが明らかに洗う枚数が減り、状況が悪化しているのを感じた。当初はランチタイムの『戦争』から解放されることを喜んでいたが、客数が減って捏ねた生地やトマトソースが余ってロス(作りすぎた材料を捨てること)になるとベアーも嫌な感じがした。
ペスカトーレとボンゴレで乗り切ろうとしていた女主人の顔には明らかに焦りの色が浮かんでいた。




