第十一話
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ベアーはその日の夜、シェルターに戻るとメガネの中年女に厩とロバのことを相談した。
「寄付さえいただければ、面倒を見るのは結構ですよ」
守銭奴という言葉はこの人間のためにあるのではないかと思うほどのがめつさにベアーは舌を巻いたが、他の厩を探しに行く余裕もないので寄付をすることを了承した。
「では、給料を頂いたらすぐに寄付してくださいね」
メガネ女は実にいやらしい顔つきでベアーを見た。
『この人……きついな』
ベアーはメガネ女の底意地の悪さをその言動から感じた。
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その後、ベアーは厩に行ってロバの様子を見た。
「俺、パスタ屋でバイトすることになったんだ」
ベアーはそう言うとロバの背中を叩いた。
「週一で様子を見に戻ってくるからな」
話しかけられたロバは干し草を食みながらいつものようにしていた。
「子供たちもいるし、けっこうにぎやかでいいんじゃない、他の動物もいないし」
シェルターの厩はロバだけしかおらず、広い範囲を好きなだけ使えた。
「じゃあ、俺、行くから」
ベアーがそう言うとロバがちらりとベアーと視線を合わせた。相変わらず不細工な顔だがその目には『了解した』という含みがあった。
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ベアーが『ロザンヌ』に戻ると女店主が部屋のことを話し出した。
「そこに見える木造の小屋があるだろう、あそこは寝泊まりができるようになってるんだ。」
女主人はそう言うと小屋にベアーを案内した。中はおもったより広く作業机とベッドが置かれ、いつでもつかえるようになっていた。
「明日は朝7時から作業だよ、寝坊しないように、何か質問はあるかい?』
ベアーはかぶりをふった。
「じゃあ、おやすみ」
そういうと女店主小屋を出た。
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こうしてベアーは新しい生活を始めることになった。これからどうなるかまだ分からないがとにかく金を貯めるしかない。一文無しの状態から這い上がるにはかなりの日数が必要になる。
『まあ、何とかなるよな。きっと…』
ベアーはそう思ってベッドに身を投げた。
『しかし、1ギルダーもないのはちょっとまずいよな……』
金のことを考え出した途端に一日の疲れがどっとあらわれた。
『そう言えば、給料っていつもらえるんだ?』
ベアーは肝心なことを聞くのを忘れているのに気付いた。
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翌日、朝起きて顔を洗うと工房に向かった。工房では女店主が湯を沸かしていた。
「朝はコーヒーとパンだよ、適当に取って食べておくれ。」
言われたベアーはバゲットを適当にナイフで切ってオリーブオイルにつけてから塩をふった。
「あの、もう一人の女の人は誰なんですか?」
「妹だよ、マーサって言うんだ。」
女店主が言うや否やマーサが工房に入ってきた。マーサは女店主とは違いやせ形で背が高い。とがった顎とあばたがあるため見た目はあまり良くない。
「おはようございます。」
ベアーがあいさつすると小さく会釈した。無口であまり愛想がよくない、ベアーには存在感の薄い女性といったふうに映った。
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朝食の後の生地づくりは昨日と同じく悪戦苦闘の連続であった。
「あんた、体重がね……」
女店主と違いベアーはやせ形で背も高くない、おまけに食べても太らないタイプである。体重をかけて楽に捏ねられる女店主とは違っていた。
「まあ、しょうがないね……」
女店主は苦笑した。
一方、マーサはペスカトーレ用の魚介類を下処理していた。『ロゼッタ』のペスカトーレはイカ、アサリ、エビの3種が主軸となる。ここにその日の仕入れで安かったムール貝やホタテを加えて調整する。今日はどうやらホタテのようだ。
ベアーは生地を捏ねながらマーサが貝を捌くところを見ていたが手際よく殻をむく姿は見ていて小気味が良かった。
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生地玉を半分ほど作ると昨日と同じくパスタを茹でてオリーブオイルとバターを合わせた一品を女店主が出してきた。
ベアーは腹が空いているのでがっついて食べたが、女主人は微妙な顔をした。
「どうかしたんですか?」
「イマイチだね……もう少し寝かせないと」
「おいしいですけど…」
「そりゃ、そうさ、うちのパスタは……だけど、今日の出来はよくないんだよ」
ベアーは女店主の言っていることが今一つ理解できなかった。
「毎日こうやって味見をしているとその日の出来がわかるようになるんだ、湿度の違いや、生地の捏ね方、寝かせる時間、同じように作っても意外と違うんだよ」
ベアーは驚いた。
「さあ、食ったら、さっさと生地捏ねちまいな」
こうしてベアーは地獄の作業、二日目後半に入った。
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その日のランチタイムも凄まじい忙しさでベアーは泣きそうになった。
『めっちゃきついよ……皿洗い』
客はランチでさっさと食べて出ていくので皿の回転は想像以上に速い。ベアーの洗う速度は明らかに追いついていなかった。
「遅いよ、皿、何やってんの??」
何度かベアーは怒鳴られたが歯を食いしばり『戦争』をなんとか耐えた。魔のランチタイムが終わった時にはベアーは放心していた。
そんな時である、ベアーに女店主から朗報が届いた。
「今日の賄はホタテのクレープだよ」
ベアーは甘いスイーツ系クレープしか見たことがなかったので貝柱を挟んでトマトソースをかけた惣菜系クレープは目からうろこであった。椅子に座るとフォークを使わず手づかみで口に運んだ。
「うめぇ!!」
猿なみの感想だったがそれを聞いた女店主は満足げな顔をのぞかせた。
「ポルカは海が近いから魚介の鮮度は抜群なんだ、特にうちは仕入れにはうるさいからね」
でっぷりとした体で自慢する女店主の顔は朗らかであった。若いベアーががっつく姿が微笑ましく思えたのである。
「夕方は昼ほど忙しくないから、大丈夫だよ。17時から店を開けるから洗いものがおわったら好きにしな」
女店主にそう言われたベアーはうなずくと『とにかく体を休めよう』と思った。シンクに残ったフライパンと皿を洗うと小屋に戻ってベットに入った。食後ということもあるだろうが瞬く間に睡魔がベアーを襲った。
*
気づくと17時であった、すでに店にはマーサが立っていた。夜の店はマーサが切り盛りするらしい。
「ベアー、あんたには明日の『仕込み』の手伝いをしてもらう。」
そう言うと女店主は大きな寸胴にオリーブオイルとニンニクそしてあらみじんにした玉ねぎを入れた。
「倉庫からトマトを取ってきておくれ。」
言われたベアーは籠に入った細長いトマトを倉庫から出してきた。
「あたしがタネを取るから、あんたは潰しながら炒めるんだ」
ベアーは渡された大きな木べらを使っていわれた通りにした。
「変わった形のトマトですね」
「煮込み用のトマトはこのトマトじゃないと駄目なんだ」
トマトというのは種類が多い。そのまま食べるフレッシュトマトやフルーツトマトもあれば煮込むのに適したトマトもある。『ロゼッタ』で使うトマトは煮込んでトマトソースにする細長い円筒形のものだ。
「このまま食べると酸っぱくてどうにもなんないんだけど、うま味があるのはこのトマトが一番なんだ。
煮込んで酸味を飛ばすとびっくりするほど変わるんだ。」
女店主の指摘にベアーは驚いた。
「料理と人間は似てるんだよ、そのままでは駄目でも手を加えることで変化する、扱いひとつで変わるんだけど……」
女店主はなぜか悲しそうな顔をした。ベアーは何かあるのかとおもったが、それ以上は尋ねなかった。
「さあ、次の作業だ」
そう言うと女店主はベアーにモップを持たせた。
「掃除だよ」
一日の終わりは掃除になる。飲食店には欠くことのできない作業だ。ベアーは木のバケツに水を張って粉せっけんを溶かした。
「掃除は一番大事だからね、とくに作業台の周りは念入りにやるんだ。清潔に保てないと奴らが出てくるからね」
「奴らって?」
ニヤリとわらって女店主は答えた。
「きまってんだろ、Gだよ」
ベアーは『G』という言葉に戦慄が走った。




