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第十話

 ベアーはヘトヘトになって生地玉を捏ねる作業を終えたが、すでに店では『戦争』が始まっていた。

10席ほどしかないカウンター席はすでに満席で、客は思い思いのパスタを注文している。


『人が一杯いる……外にも並んでる……』


ベアーは店舗のちょうど真裏にある洗い場で客の注文を聞いていたが、ほとんどみな同じものを注文していた。


「ペスカトーレ頂戴。」


「こっちもね」


「俺もペスカトーレ」


ベアーは聞いたことのない『ペスカトーレ』というパスタに興味津々になった。


 女店主は熱したフライパンにたっぷりのオリーブオイルをひき、そこにニンニクを入れて風味付けした後、手づかみで下処理した魚介をぶち込んだ。それを木べらで炒めて半分ほど火を通すとトマトソースを投入した。

 麺を茹でていたもう一人の女が湯切りをしてフライパンに平打ち麺をいれる。女店主はそれが終わると火力を上げてフライパンを煽った。不必要な水分を飛ばしうま味を凝縮させていく。ソースのとろみ具合を確認すると素早く塩コショウした。


「はいどうぞ」


魚介がたっぷり入ったトマトソースのパスタの出来上がりであった。


 ベアーは客の食べる様子を横目で見ていたが、みな沈黙してパスタを食べる姿は間違いなく美味いということを証明していた。


そんな時である、厨房から声が飛んできた。


「ほら、あんた、皿洗い、フライパンも!!」


女店主に指摘されたベアーは急いで木皿を洗った。


                                *


 どれくらい皿を洗っただろうか、ベアーはすでに数えるのをやめていた。洗った皿がペスカトーレを盛る皿となり、客が食べ終わるとその皿が洗い場に持ち込まれ、再びパスタを盛る皿となる。単純な回転作業だが100回を超えてくると嫌になる。


『何だ、このペスカトーレ地獄は……もう、駄目だ、このバイト、絶対無理だ……』


 チーズ作りも当初は大変だったが基本的に力仕事だけで要領の良さは求められなかった。手際よく皿とフライパンをあらうことがこれほどきついとは思わなかった。


『何なんだ、この皿の量は……』


ベアーが限界を迎えようとした時だった。


「あと10人で終わりだよ」


そんな声が聞こえ、外の扉に「CLOSE」という看板が下げられた。


どうやらあとすこしで終わりそうだ、ベアーはもう皿がたまらないと思いほっとした。


                              *


最後の客が店を出ると時計の針は14時半を差していた。


「昼にしようか」


そう言うと女店主は3人分の賄いを作るべく厨房に立った。


大きめのフライパンを熱するとみじん切りのにんにくをたっぷり入れ、そこにあさりと白ワイン入れて蓋をした。しばらく炊くとあさりの口が開き、そこからたっぷりのダシがあふれ白ワインとあいまった。

 頃合いを見計らうと、女店主は固めに茹でた平打ち麺をその中に入れた。フライパンの中で麺があさりの出汁を吸っていく。

ベアーはその様子を見ていたが、出汁を吸わせるためにわざと早く茹で上げたことに今更ながら気づいた。


『これがテクニックなんだな……』


大したことではないかもしれないが料理というのはこうした配慮や計算が味に多大な影響を与える。女店主はそのあたりを熟知していた。


女店主は3人分のパスタを作りあげると仕上げに浅葱とバターを加えた。


「さあ、出来上がりだ。取り皿と人数分のフォークを取っておくれ。」


ベアーにそう言うと女店主はフライパンを工房に持っていった。フライパンの中のからはえもいわれぬ香りが漂ってくる、ベアーは生唾を飲みこんだ。


ベアーは取皿に自分の分をよそうとものも言わずに食べた。


『貝の臭みが全然ない……すげぇダシが出てる』


アクセントの浅葱が口の中に入るとさわやかな風味が広がる。


『めっちゃうまい、これマジ美味いわ』


あさりのダシ、バターのコク、浅葱の清涼感、そしてそれらをまとった平打ち麺、想像以上のバランスの良さにベアーはただ沈黙した。


                                *


ベアーが夢中でパスタを掻き込んでいると、女店主が口を開いた。


「どうする、この仕事、続けるかい?」


ベアーはパスタを飲み込むと皿を置いて女店主を見た。


「住み込みで働けるんでしょうか?」


「ああ、家賃は給料から差っ引くけど」


「どのくらい引かれるんですか?」


「給料の3分の1」


ベアーは港町の物価と給料、そして引かれる家賃を計算した。


『家賃引かれると、ドリトスと同じくらいだな……でも物価があっちより高いし…』


 ポルカの物価はドリトスより全体的に5%ほど高くなっていた。経済力のある街は便利な反面、税金や諸費用が高くなる。


ベアーは難しい顔をした。


「休みはどうなってるんですか?」


「水曜の午後と日曜日。時化で魚が獲れないときは店を閉めることもある、うちは魚介が売りのパスタだから魚が手に入らないときは休むんだ。」


仕事はきついが水曜の午後が休みになるのは大きい、ベアーは迷った。


「あの、食事はどうなってるんですか?」


「3食付だよ。ただし日曜はブランチと夕食の2食」


ベアーは腹を決めた。


「よろしくお願いします。」


ボンゴレ(あさりのパスタ)はベアーの心をしっかりつかんでいた。


「よし、契約成立だ。」


女店主とベアーは握手を交わした。


                              *


食事を終えるとベアーは女店主に話しかけられた。


「今日は引っ越しもあるだろうから、夜は店には出なくていいよ。身支度を整えておいで」


「いいんですか?」


女主人は頷いた。


「ありがとうございます。」


ベアーは女店主の好意に甘えることにした。


そんな時、ベアーは一つ大事なことを聞き忘れているのに気付いた。


「あの、ロバがいるんですけど……厩はあるんでしょうか?」


女店主は難しい表情を浮かべた。


「うちは飲食だから動物は駄目だ、ロバは他の所に入れてもらわないと」


飲食という職業柄、動物を店舗の近くに置くのは衛生上の問題が生じる。


 ベアーは一瞬どうしようかと思ったがシェルターに寄付をすればロバを置いてもらえるということを思い出した。


『この手で行くか…』


こうしてベアーは海を臨むパスタの店『ロザンヌ』で身を置くこととなった。



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