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第九話

 ベアーは翌日、朝食をすますと昨日のパスタ屋の工房に向かった。朝日が照らす坂道は意外と気温が高くパスタ屋に着くころには汗かいていた。


ベアーが工房の入り口を覗くと昨日の店主ともう一人、痩せた女がせっせと働いていた。


「来たかい、外で埃を落としてから手を洗っておいで、そこに石鹸があるから爪の間まできれいにするんだよ」


ベアーは言われた通りに手を洗った。


「よし、じゃあ、さっそく手伝ってもらうよ。外にある袋を全部こっちに運ぶんだ。」


 ベアーは工房の外に積まれた紙袋を運んだ。20袋あったが一つ15kg近くありかなり重い。ベアーは四苦八苦しながら紙袋を工房の片隅に運んだ。


「よし、次だ、その袋を一つこの台に乗せておくれ」


ベアーは一番上に載せた紙袋を肩に乗せて運ぶと作業台の上に載せた。


「意外と力があるじゃないか」


そう言うと店主の女は紙袋の封を切った。隣に置いた升目(量を計る入れ物)を手に取ると紙袋の中に突っ込んだ。

 

升目の中には摺り切り一杯の黄色がかった粉が入っていた。


「これ小麦粉じゃないんですか?」


女店主はベアーをちらりと見た。


「セモリナ粉だよ」


ベアーは怪訝な表情を浮かべた・


「セモリナ粉と小麦粉は同じものさ、だがセモリナは小麦を粗く挽いてあるんだ。」


「そうすると黄色になるんですか?」


「これは特別なパスタ用の小麦なんだ、普通の小麦粉じゃないんだよ」


どうやら女店主にはこだわりがあるらしい。


「さあ、次だ、『生地づくり』だよ」


そう言うと女店主は次の工程に入った。


                                *


 パスタの生地作りは作業台の上に置かれた大理石の板にセモリナ粉をドーナツ状に広げるところから始まった。


「真ん中の窪んだところに溶き卵を流し込む、それからオリーブオイル、塩、を入れて混ぜるんだ。最初にやり方を見せるから、よく覚えるんだよ。」


そう言うと店主の女は太った体からは考えられない軽快な動きで生地を練り上げた。リズミカルでありながら無駄がない、熟練した者の見せる動きであった。


15分ほどその作業を繰り返すと艶のあるボール型になった生地ができあがった。


「とりあえずここまでやってみな。」


ベアーは女店主のやっていた動作をまねて生地をまとめた。


『まとめるのはそんなに難しくないな、これならいけるぞ』


ベアーは意気揚々と生地をこね始めた……だがそれほど甘くなかった。


『何だこれ、硬いぞ……』


ベアーは想像以上に生地が硬いことに驚きを隠さなかった。


「セモリナ粉はコシが強いから捏ねるときに力がいるんだ。だけどこの作業をきちんとしておかないと、美味いパスタにはならない。」


女主人に試されような目を向けられたベアーは腕に力をこめた。


                                *


結局30分ほどかかかり何とかそれなりの形のモノを練り上げた。


「見せてみな」


女主人はそう言うと丸くまとめた生地を半分にちぎった。


「断面を見てみな」


ベアーが断面を覗くと妙なムラがあった。


「捏ね方が均等じゃないとこうなる。これだと商品にならない、やり直しだ。」


ベアーは『マジか…』と内心思ったがここで音を上げてはどうにもならない。グッとこらえて練り直した。


 それからしばらくすると女店主が生地の状態を確認しに来た、先ほどと同じく生地を割って中を見た。


「よし、いいね。この按配なら問題ない。」


ベアーはホッとした……だが次に女店主の口から出た言葉は甘くなかった。


「さあ、あとはこの生地玉を10個作るんだ」


ベアーはたじろいだ、一瞬『辞めたい』という言葉が脳裏に浮かんだ。


『マジかよ……これ10玉も作んのかよ……』


だが一文無しの状況を考えるとそうはいかない。


『とにかくやりきるしかない』


ベアーは自分にそう言い聞かせた。


                                *


 単純な行為だが力の入れ具合が分からないベアーにとって『捏ねる』という作業は難儀であった。想像以上にこなれない生地に心が折れそうになった。


『何なんだ、この生地は……』


ベアーは時々、八つ当たりのごとく生地を叩いたり、強くねじったりしたが『捏ねる』という作業とは程遠く四苦八苦するだけだった。


女店主はそんなベアー姿を見ていた。


『やりきれるかね、この子……』


 それとなく見ているだけだがその眼には明らかに雇用者として眼力が働いている。生地作りで挫折する人間を何人も見ていた女店主にはベアーを採用するか否かまだ判断がつかなかった。


『ただ見ること』


女店主の雇用に関する哲学だが、彼女はそれに徹することにした。


                                *


まだノルマの半分にも至っていなかったがベアーの腕はパンパンになっていた。


「このバイト、無理だ、辞めようかな……」


ベアーが小声でそうひとりごちた時だった、女店主が声をあげた。


「10時だ、一休みしよう」


 女店主は生地玉の一つを工房に隣接した倉庫からとってくると4分の1ほど包丁で切った。打ち粉を振った大理石の板にその生地を置くと麺棒でかなり薄くなるまで伸ばした。その後、適当な厚さになるように折りたたむとハンドルのついた鉄製の器具に入れた。


女店主がハンドルを回すと下の部分から平たい麺が出てきた。


ベアーは見たことのない麺を見ると驚いた。


「この麺はフィットチーネって言うんだ。」


女店主は麺についた打ち粉を落としすと茹で釜に入れた。


                                *


5分ほどであろうか、ゆであがった麺を皿に盛ると、塩、オリーブオイル、バターを加えた。


「さあ、食ってみな」


女店主は皿とフォークをベアーに渡した。


ベアーは麺をフォークに絡めて口に運んだ。トマトやバジルといったソースもなければ、隠し味の調味料もない。正直、期待できるものではない。


だが……


「美味い、美味い、何だこれ……」


ベアーは思わず声が出た。麺はモチモチしているだけでなくコシがある。かみごたえもあるがのど越もいい、実にバランスが良かった。だがベアーがそれ以上に驚いたのは麺自体の持つ味であった。


「麺が……セモリナ粉がうまいんだ」


間違いない、粉自体に味があるのだ。


その様子を見て女主人が声をかけた。


「一日置くことで生地にコシが出るだけじゃなくて、うま味が出てくるんだよ、セモリナ粉のもつ本来のうまみが――」


女主人は講釈を垂れる伝道師のような表情で話した。だがそこにはセモリナ粉のもつ『味』に気づいたベアーをほめるような含みもあった。


                                *


 食べ終わると再び地獄の生地づくりが始まった。すでに腕の筋肉が張り、かなりきつい、ベアーは必死になるほかなかった。

 

見かねた女店主は助け舟を出した。


「あんたねぇ、腕を動かしてもダメなんだ。膝と腰、この二つを使うんだよ」


見かねた女主人がもう一度、手本を見せた。


「腕は曲げた状態で固定するんだ。膝で柔軟性をもたせて腰に力を入れるんだ。」


女主人がやると面白いように生地がこなれていく。


「さあ、やってみな」


ベアーはいわれたとおりしてみた。ぎこちない動きだが腕を固定したことで、腕にかかる負担が減った。


「さっきよりはマシだね、まだ怪しいけど……」


女主人はそう言うと店の方に向かった。


「そろそろ、お客さんが来るから、昼までに終わらせるんだよ、昼はかなり客が来るから洗いもんのほうを手伝ってもらうから。」


 ベアーは人使いの荒さに絶望したが、ここまでくれば『毒を食らわば皿まで』といった心境になっていた。


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