第十八話
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バルコニーに通じる部屋にたどり着いた4人は扉を閉めてようとしたが、その視野には虚ろな瞳で迫りくる貴族たちの姿が映っていた。みな赤紫色の靄を吸ったようでその様はノブレスオブリージュの面影など微塵もない。
「お下がりください!!」
パトリックは危機的状況だと素早く判断すると部屋の内側から鍵をかけ、その場にあった椅子や机などで扉を開かないように試みた。
『多少は時間が稼げるはずだ……』
20人近い男女が迫りくる様子は悪い意味で圧巻である、パトリックはドンドンと叩かれる扉をおさえて踏ん張ろうとした。
一方、バイロンとリンジーは退路を確保しようとしていた。
「バルコニーから飛び降りるのは無理よ。高すぎる!!」
バイロンがそう言うとリンジーが続いた。
「梯子もないわ……これじゃあ、降りられない」
バルコニーの高さは地表まで15mを超える――この状況で飛び降りれば怪我ではすまないだろう。
『さて、どうするか……』
バイロンがそう思った時である、その眼に窓にかかったカーテンが入った。
『レースのカーテン……あれでいけるかしら』
バイロンはそう思うとすぐさまカーテンを引きちぎった。そしてそれを綱のように束ねるとバルコニーの欄干にくくりつけようとした。
『うまくいかない!!』
バイロンが困った表情をみせるとリンジーが気を利かせてカーテンの端をおさえた。二人のチームワークが混然一致となる
「これでいける!!」
2人が危機的状況を回避できると思った瞬間である、欄干に結んだレースのカーテンの刺繍部分が音を立てて裂けた。
『……あっ……』
バイロンがカーテンを引きちぎった時に、その一部にほころびが生じていたのである。無残にもカーテンは単なる布へと変貌した。
『……ヤバイ……』
さらに不幸なことに……
それとほぼ同時にパトリックのおさえていた扉が音を立ててやぶられた。一気呵成に虚ろな表情の人々が部屋になだれ込んでくる。
『……マズイ……』
タイミングというのは運という要素が実に重要になるが、今回はそれがギリギリのところで悪い方へと転がっていた。4人の置かれた状況は最悪を迎えていた。
「クソッ!!!」
パトリックは後退しながら応戦するが、複数の人間が雪崩式に追い込んでくるために防戦する事さえままならない……状況は極めて不利な状態へと展開する
『これ、もう駄目だわ!!』
誰もがそう思った。
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その時である、館の裏庭から黒い影が颯爽と現れて追い詰められたバイロンたちに声をかけた。
「こっちだ、バイロン!!!」
そう言ったのはマーベリックである。その表情は修羅場にも関わらず余裕がある。
「飛び降りろ、受け止める」
マーベリックがそう言うや否やであった、ゴンザレスを中心としたマーベリックの手下が帆布を広げて四方に散った。
それを見たバイロンは二ノ妃に駆け寄った。
「お妃様、こちらへ!!」
だが二ノ妃はそれを無視した。その表情はなんとブルブルと震えていではないか……
「お妃様、さあ速く!!」
バイロンが二ノ妃を叱咤すると二ノ妃は尻餅をついた。
「わらわは高所恐怖症じゃ……」
虚ろな人々が迫りくるにも関わらず二ノ妃は梃子でも動かない体勢を取った。
『マジかよ、こんな時に!!!』
バイロンが『万事休す』とおもった時である、二ノ妃の体が宙に浮いた。
「お妃様、わがままはいけませんよ」
そう言ったのはパトリックである、月明かりに照らされた横顔は神秘的とさえいえる、
「しっかり、つかまってください!」
パトリックはそう言うと抱きかかえた二ノ妃とともに張られた帆布に向かって跳躍した。
それを見たバイロンはリンジーに目配せした。
リンジーは小さく頷くとスカートをおさえて跳躍した。
『よしこれで、OKだわ』
そう思ったバイロンはリンジーに続いて欄干に足をかけた。
*
そのときである、バイロンはその肩を後ろから掴まれた。
「お前だけは逃がさない!!」
そう言ったのは先ほど昏倒していたキャンベル卿である、どうやら目を覚ましたらしく全裸のままバイロンに襲い掛かろうとした。
バルコニーの欄干に足をかけていたバイロンは身をよじって抵抗したがキャンベル卿は欄干の内側へとバイロンを引きずりこんだ。体勢を崩したバイロンはひざをつくかたちとなる。
『クソッ……股間が近すぐる……』
目の前に迫った全裸のキャンベルにいらだったバイロンは容赦のない判断をした
「オラッ!!!」
バイロンは裂帛の気合を込めると立ち上がりざまに必殺の頭突きをかました。小気味いい音が闇夜にこだまする、キャンベル卿はあまりの痛みに顎をおさえた。
『やったはず!!』
だが、キャンベル卿の妄執は甚だしい……頭突き女子の一撃をくらってもその手を放さなかった。赤紫の靄の効力なのだろう……
「お前だけは逃がさない」
壊れた蓄音機のような声でキャンベル卿は絶叫した。バイロンは何とか逃れようとその身をさらによじった。
だが、これが悪かった……バランスを崩したバイロンは欄干から滑り落ちる体勢になった。
「ヤバイ!!」
バイロンの着ていたドレスの肩布がちぎれる――キャンベル卿の手は離れたが……それが災いして彼女は頭から落下する破目に陥った。
『………』
人生は思わぬことで命を落とすことが多々あるが、バイロンもその例に漏れない結末がもたらされようとしていた。
*
『これで終わりなの、私の人生は……』
バイロンは直感的にそう思った――バイロンの落下は頸椎を粉砕する軌跡を描いている。
『……もう駄目だ……』
視覚が白黒になると時の流れがスローモーションになる。自由落下の物理的法則からは逃れる術はない……バイロンの意識は混濁し思考は停止した。
『死ぬってこういうことなの……』
バイロンは絶望という感覚さえ失った――すべての感覚が消失し虚無が訪れる。
『……終わりなんだ……』
バイロンがそうおもった刹那である、
闇夜を黒い影が跳躍した。そしてその影は中空でバイロンを受けとめると館の壁面を蹴って帆布に向けて降り立った。
何が起こったかわからないバイロンはしばし呆然としたが、その視野に1人の男の姿が映った。
「……マーベリック……」
バイロンは抱きかかえられた状態から地面におろされた。
「……ありがとう、助かったわ……」
バイロンがそう言うとマーベリックはそれに構わずバイロンを叱咤した。
「馬車を待たせてある、二ノ妃様の避難を!!」
マーベリックはそう言うとバイロンの額にかかった髪を丁寧に払った
「あまり、無茶をするものではない」
マーベリックがそう言うとバイロンが館を指した。
「地下から赤い靄が……アレが貴族を人心腐乱にした元凶だとおもう」
言われたマーベリックは小さく頷くとハンカチのような布を顔に押し当て館に向かって走った。
*
状況を確認するべく館に入ったマーベリックは犯人がいないことに臍を噛んだ。
『逃げ足が速いな……』
館を覆っていた赤い靄は既に消えつつあり、証拠となるようなものも失われようととしている。
『このままでは……意味がない』
マーベリックは赤い靄の発生源を突き止めるべく館を闊歩したが、その痕跡さえ見つからない。バイロンの指摘した地下にも足を運んだが赤い靄は既に掻き消えていた。
『……何か証を見つけなければ』
マーベリックは赤い靄の証拠を見つけようと躍起になったが霧は薄れて収束していく。
『まるで吸い込まれていくように消えていく……』
マーベリックは薄れていく靄の流れを読むと推測をたてた。
『この赤い靄の発生源には仕掛けがあるのではないか……』
マーベリックはそう思うと再びバイロンの指摘した地下に目を向けた。そして先ほどは無視した地下に続く階段に視線を移した。
『なるほど、これか……』
地下に続く階段の踊り場にある燭台に近づいたマーベリックはその燭台をくわしく調べた。
『燭台ではなく、台座の方か……』
マーベリックはニヤリと嗤うとふところからハンカチを取り出し、台座の内側にあった半透明の結晶をのせた。
『燭台の炎で気化しているのか……いづれにせよ、これが何らかの証拠に……なるはず』
マーベリックはそう思うとある男の顔をその脳裏に呼び起こした。
『あの方であれば、これを分析することも可能なはず……それも秘密裏に』
そう思ったマーベリックは乱痴気騒ぎに勤しむ貴族たちを捨て置き、館の外に待たせてある馬へと走った。
なんとか館から逃げることに成功したバイロンたちでしたが、赤い靄の原因を造った犯人は取り逃がします。
マーベリックは証拠となるものを見つけたようですが……はたしてそれは役立つのでしょうか?
次回から物語は後半に入ります。




