第十六話
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「どうやら、ネズミが動いているようですね」
燭台だけで照らされた暗い小部屋の中でパストールの娘、ソフィーは父親であるパストールと言葉を交わしていた。
「レナードの演出もなかなかだな……あの士官候補生を使って二ノ妃を落としにかかるとはこちらも思わなんだ。」
パストールは想定外の事態にその表情を歪めると、でっぷりとした腹をゆすってテーブルにある書類を見た。
「二ノ妃がレナードの方にたなびけば、こちらの条件も満たせなくなる……実入りが少なくなるな」
パストールにとって恐れているのは橋梁工事の談合の条件がレナードに有利になることであった。
「今まで、投下した工作資金が水の泡だ」
「ですが、お父様、レナード卿の側女……占い師が動いております。あの女はそうそう簡単ではありません。今から二ノ妃を懐柔するのは至難の業かと」
言われたパストールは鷹揚に頷いた。
「ソフィー、その通りだ。」
パストールはそう言うと商人とは異なる策士の眼を見せた。
「ソフィー、阻止しろ――この事案を破壊する手段を用いても構わん。」
パストールはそう言うと立ち上がった
「私は先に帰る、意味は分かるな……ソフィー?」
言われたパストールの娘ソフィーは父を見て乾いた笑いを見せた。
パストールはそれを見ると一瞬たじろいだが、すぐに席を立つと待たせている馬車へと肥満した体をゆすりながら向かった。
その後ろ姿を見たソフィーは実に人間味の薄い表情を見せた。それはまるでからくり人形の見せる仕組まれた動作のようであった。
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シャンデリアのキャンドルが灯りとなった会場は演出のために意図的に他の灯りが消されていた。薄暗い中でのチークダンスは独特の雰囲気がある。そこには謎めいた淫靡さがあり、踊る貴族たちもその雰囲気を認識していた。
パトリックはその様子を他人事のように感じながら二ノ妃と踊っていた。
「若いなぁ……お前は」
二ノ妃はパトリックの耳元に囁きかけるとその耳たぶをぺろりと舐めた。
「たまらんのう、汗のにおい……」
通常、香水をつけて舞踏会に臨むのがエチケットなのだがパトリックは軍人であること主張するためにそうした行為は慎んでいた。
だが、それが余計に二ノ妃の心に火をつけた。
「はやく『上』に行こう」
二ノ妃はそう言うと自ら若い士官候補生の腕を取った。
パトリックは欲情してメス顔を見せる二ノ妃に鉄拳を浴びせたい気持ちになったが、とりあえず二ノ妃の好きにさせる方針を取った。
*
部屋に入ると二ノ妃はパトリックの首筋に唇を重ねた。みずみずしくハリのある肌と若人の匂いが二ノ妃を襲う。嗅覚というのは本能に直接訴えかける器官なのだが、二ノ妃はパトリックの醸す匂いに形容しがたい魅力を感じていた。
『やっぱりいいわ、役者とは違う……』
異性経験の豊富な役者とは異なるパトリックの雰囲気は食べなれた青りんごとは異なる趣がある。どことなく無骨でたどたどしさのあるパトリックの振る舞いは二ノ妃にとってたまらぬものがあった。
「……パトリック……」
パトリックのシャツをむしるようにして脱がした二ノ妃は月光に輝く無骨な腹筋を見て鼻息を荒くした。
均質ではないため筋肉のつき方にムラがあるのだが、軍事教練により鍛えられたパトリックの体は青りんごのように見せるために造られた物とは異なっている。
それを見た二ノ妃は舌なめずりした。
その時である、パトリックは自ら一歩踏み出すと二ノ妃の腰を抱いて引き寄せた。そしてその耳元でささやいた。
「橋梁工事の一件……どうされるのですか?」
パトリックがいきなり本題に切り込むと二ノ妃は一瞬にしてその表情を変えた。
「ほう、その話か……」
その物言いは実に不快であったがパトリックはそれに構わず続けた。
「レナード卿はあなたの力添えが欲しいと言っております。パストールとの関係を有利なものにしたいとお考えなのでしょう」
パトリックはそう言うと香のたかれた淫靡な部屋で二ノ妃の脇に手を入れて体を密着させた。
「お前はレナードについたのか?」
言われたパトリックはフフッと笑った。
「僕は軍の士官候補生です。政治家の言動は重要だとは思っておりません。」
思わぬ言動に二ノ妃は不可思議な表情を見せた。
「ならばパストールについたのか?」
言われたパトリックは二ノ妃の耳元で『いいえ』と答えた。
「私はダリスの人間です。トネリアの豪商につくようなまねは致しません」
パトリックが気骨を見せると二ノ妃は権力者の表情を見せた。
「ほほっ、おもしろい……どちらでもないというのか」
二ノ妃はそう言うとパトリックのうなじに指を這わせた。
「では、どうするのだ、パトリックよ?」
二ノ妃が若き士官候補生を試すように言うとパトリックは不敵な笑いを見せた。
「あなた次第ですよ、二ノ妃様」
そう言ったパトリックの顔は実に不遜である。
「あなたと踊ることでメリットが得られるならば、望みのものを提示いたしましょう」
パトリックはそう言うと突然その表情を変えた――その瞳には黒い焔が浮かんでいる。
「ですが中途半端な言質では私は動きませんよ」
それに対して二ノ妃は不道徳な表情を見せた。
「下級貴族が生意気な口をききおる、私が一言かければそなたの実家など砂塵になるだろう。条件を付けて私と交渉しようなど片腹痛い」
二ノ妃はパトリックの事をすでに調べているようで実家であるフォーレ商会とキャンベル海運との関係も探知していた。
だが二ノ妃の物言いに対してパトリックはひるまなかった。
「士官候補生と乱痴気騒ぎを試みるあなたの方が問題なのではありませぬか。この痴態が世間に知らしめられれば恥をかくのは二ノ妃様――あなたです。仮にここで起こっていることが市井の者に知られれば瓦版で煽り立てられるでしょう。」
「お前、私を脅す気か?」
そう言った二ノ妃の表情は夜叉のように厳しい、常人がこの場に居合わせれば蛇に睨まれた蛙のようになるであろう。だがパトリックはそれに動じるどころからそれ以上のものを見せた。
「私はブーツキャンプにおりました。そこでたちの悪い官憲や素行の悪い者達と過ごしてまいりました。」
「もとい、何が言いたいのだ、パトリック!!」
二ノ妃が夜叉の表情を変えずにそう言うとパトリックは相も変らぬ美しい表情で答えた。
「身を守るためには時に厳しい態度を取らねばならぬこともありました、そしてその結果、人が死んだことも御座います。」
パトリックがそう言うと二ノ妃は端正な顔立ちの士官候補生を正面から見据えた。月明りに照らされた少年の表情は息をのむほどに凛々しく美しい。だが、その眼には明らかに死神が映っている、
「……お前、まさか……人を殺したのか……」
二ノ妃がその顔を一瞬強張らせるとパトリックは優しく答えた。
「正当防衛です」
その言葉を耳にした瞬間である、二ノ妃は実に不快な表情を浮かべた。そこには明らかに恐れが内包されている。
『……この士官候補生は一体、何者なのだ……』
そら美しい士官候補生の持つ独特の不遜なオーラは二ノ妃にとって経験したことのないものであった。
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さて、パトリックが淫靡な部屋で二ノ妃と絡んでいる頃……バイロンはレナード卿の側女の後をつけていた。
側女ルーザは舞踏会の会場には戻らずに一階の衛兵が立っている先を通り抜けて行った。
『あそこは地下に下りる階段がある所だわ、地下でよからぬ企みを話し合うつもりなのね』
バイロンはそう思ったが2人の衛兵が槍を持って通らせないようにしているためこれ以上は追えなくなっていた。
『ここまでか……』
バイロンがそう思って歯噛みすると、その後ろから突然声がかけられた。
「何やってんの、バイロン??」
声をかけてきたのはリンジーである。
「お手洗いから帰ってこないから心配したんだよ。それに二ノ妃様もどこかに行っちゃうし……」
リンジーが口をとがらせるとバイロンはひと息ついてパトリックのことを話した。リンジーに隠し事をしないほうがいいと考えたためである。
「実はさっき……廊下の角であの士官候補生の男子とぶつかったんだよね。」
バイロンがそう言うとリンジーの目が一瞬で変わった。
「……もしかして、パトリック様??」
「そう」
バイロンが頷くとリンジーが真顔になった。
「会いに行きましょう!!」
リンジーはそう言うとバイロンの袖を引いた。
「会いに行くって……そんなの無理よ、二ノ妃様とダンスを踊って二階の小部屋に……」
バイロンが続けようとするとリンジーが硬直した。
「えっ、マジで……」
状況を一瞬で理解したリンジーは鳩が豆鉄砲を喰らったような表情をみせた。
「……パックンチョされちゃう、パトリック様が……」
リンジーがそう言って取り乱した時である、バイロンはリンジーの後方から妙な靄が流れ出していることに気付いた。
「何この赤紫色の……煙」
バイロンがそう思った時である、会場でダンスを踊っていた貴族たちその動きを止めた。みなフラフラとしだすと虚ろな表情を浮かべた。そして近くにいたパートナーを抱き寄せると何やら怪しげな『行為』に勤しみ始めたのである。
『おいおい、ニャンニャン……おっぱじめやがったぞ……』
そう思ったバイロンだがその足元には先ほどの赤紫色の煙が近寄っている。
「これヤバいやつだな……」
そう思ったバイロンはリンジーの腕をつかむと2階へと駆け上がった。
実家を助けるべくパトリックは二ノ妃と小部屋に入りましたが、そう簡単には二ノ妃と踊りません。むしろ条件闘争を見せる気概を見せます。
一方、レナード卿とルーザの考えた奸計(パトリックを二ノ妃にあてがって談合を有利に進める)に気づいたパストールは娘のソフィーを使って状況を変転させようと企みます。はたしてソフィーはいかなる手段を用いるのでしょうか……
*
仮面舞踏会のくだりは次回がクライマックスになる予定です。




