第八話
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ライラがカギを開けてくれたおかげで従業員の通用口を通ったバイロンは衣裳部屋に忍び込んだ。
『この隣だな……トイレは、でも壁が厚くて音が拾えないな……』
VIPのトイレは衣裳部屋の隣になるのだが、思った以上に壁が厚く集音器で音が拾える状態にはなかった。漆喰が音を遮るようになっていたのだ。
『忍び込むか……トイレに』
バイロンはそう思うと衣裳部屋の窓外を確認した。
『外壁のヘリをつたえば行けるわね……命綱をつければ問題ないわ。』
幸運にも衣裳部屋に小道具のフックとローブがある。
『これを使えば行けるでしょ』
バイロンはそう思うと支給されたドレスを脱いで衣裳部屋にある適当な町娘の服に着替えた。
『よし、いっちょやるか!!』
バイロンはそう思うと衣裳部屋の窓をゆっくりと開けた。
*
『今回の舞台はさほど面白くないわね……』
女がそう言うと別の女の声が聞こえてきた。
『はい、ですが劇が終わった後の余興は楽しみにして頂いていいと思います。』
別の女がそう言うと最初に言を発した女が『ホホッ』と嗤った。
『もう役者は飽きたわ。あの子たちは作り物でしょ。私は本物が食べたいの』
*
何やら不遜な会話がバイロンの集音器から漏れてくる……バイロンは呼吸さえ止めて会話に集中した。
『まちがいないわ、この声……今回のターゲット』
会話の声の持ち主が間違いなく『二ノ妃』であるとバイロンは確信した。
*
『二ノ妃様、その辺りの事は心得ております、とりあえず休憩中は『青りんご』で我慢ください。』
≪二ノ妃≫と呼んだ女はそう言うと、その手を叩いた。パンパンという音がするとすぐさ足音が聞こえてきた。
そしてトイレのドアが開くと健やかな声が飛んだ。
『私、昨年この歌劇団に入学しましたホメロスと申します。』
『同じく、ルーカスと申します』
溌剌とした若々しい声が響くと二ノ妃が声をかけた。
『近う寄れ、顔を見たい』
二ノ妃がそう言うとふたりの若者の足音がバイロンの耳元に聞こえた。
『なかなかの顔じゃ、ルーカス……ホメロスは今度にしよう』
二ノ妃はそう言うとルーカスに声をかけた。
『愉しませてくれれば『こづかい』か『役』のどちらかを褒美としてとらせるぞ』
二ノ妃がそう言うとルーカスはハキハキとした口調で答えた。
『何なりとお申し付けください!!』
その言葉の直後であった、バイロンの隠れている用具入れの扉にドスンという音が響いた。バイロンが驚愕してその眼を白黒させたが、すぐさま服を脱がす音がその耳に入った。
『やっべ~、おっ始めやがった~、ニャンニャンはじめやがった~』
バイロンは想定外の物音に困った表情を始めた。
『青りんご、お妃さまに喰われるの巻――じゃねぇかよ……』
バイロンは若干、鼻息を荒くしたが『事が終わる』までじっとしていることにした。
*
バイロンが顔を赤くしながら集音気で音を拾っていると『事』の途中で二ノ妃は突然、行為を止めてルーカスに出ていくようにいった。急に機嫌が変わったようである……
バイロンは不可思議に思ったがルーカスがトイレから出ていくと入れ替わりに先ほどの女が現れた。
『お味見、いかがでしたか?』
言われた二ノ妃はのほほんとした口調で答えた。
『ピチピチしているけどやっぱり役者は役者……見栄えはいいけど『味』がしない。途中で興ざめたわ……これでは例の件……慮ることはできない』
二ノ妃はどうやら満足していないらしくその口調は『イマイチだ』と示していた。そして二ノ妃はすぐさま『例の件』に対する配慮を断った。
その会話を拾ったバイロンは思った。
『青りんごを食い散らかして、まだ足りないって……どんな神経してんだこの人……』
バイロンは二ノ妃のもつ昏い欲望に顔をしかめた。
そんな時である、女の声が聞こえた。
『次回は本物をご用意いたしますので……』
妙に落ち着いた声で女がそう言うと少し間をおいてから二ノ妃の声がした。
『パストールに伝えておきなさい。次のマスカレードでの成功が工事事案を占う試金石になると』
二ノ妃はそう言うと何事もなかったかのようにトイレから出て行った。
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『やっと終わった……』
バイロンがそうおもってホッとした。
『しかし、二ノ妃はとんでもないな……』
二ノ妃の言動にあきれたバイロンであったが――その時……思わぬ事態が発生した。
*
『いるんだろ、そこに?』
妙に低い声とともにバイロンが身を隠した用具入れの扉が突然ドンと叩かれたのである。バイロンはまさかの事態に体が氷の彫像のようになっていた。
『……ヤバイ……バレテルんじゃ…』
逃げ道のない状況下でこの展開は甚だマズイ……
『……どうすんだ……これ』
用具入れで固まった状態でバイロンがいると表の扉がガチャガチャと音をたてた。
『素直に出てくれば……許してやってもいいぞ』
無機質な女の声がバイロンの耳に届く――バイロンはその声を聞いて確信した。
『絶対に許してくれないだろうな……』
バイロンはそう思うと一つの方針を思いついた。
『扉の鍵を外すや否や、思い切り扉を開く。目の前にいる女と扉の距離はほとんどないはず……いきなり扉を開けば扉が上手く女に当たれかも、そうすれば向こうは怯むはず……』
バイロンはそう思った。
だが、その思いを打ち砕く足音が聞こえた。
『お前の考えていることなどお見通しだ。』
そう言うや否や女は扉からササッと後ずさった。
『ヤバイ……よまれてる……』
バイロンが思考している一瞬のうちに女は回避行動をとったのである。女は余裕のある声で呼びかけた。
『出てこないなら人を呼ぶぞ!』
警備の人間を呼ばれれば一巻の終わりである、バイロンは絶体絶命のピンチに陥った。
*
その時である、想定外の事態が生じた。なんとバイロンが入ってきたトイレの天窓に何かがブツかるバリンという音がして割れたのだ。割れた破片は四方八方に飛び散った。
『チッ、破片が……』
どうやら飛び散った破片が女に当たったらしい……女の小さな悲鳴がバイロンの耳に届く
バイロンはチャンスと思うとここぞとばかりに飛び出した。破片が当たってうずくまる女に顔を見せないように背中を向けるとバイロンは入ってきた窓からその身を乗り出した。
*
バイロンは衣裳部屋に戻り素早く着替えると何事もなかったかのようにふるまった。かつてポルカで女優をしていた時の演技力を見せるとバクバクした心臓の鼓動とは裏腹に堂々とした表情で衣裳部屋から出た。
『落ち着いた足取りで座席に戻ればいい……』
バイロンはそう思うと2階に続く階段付近を通った。そこでは警備の人間が上官の指示を聞きながら緊張した面持ちで動き回っている。
『捜査が始まってるんだわ……』
バイロンは確信すると沈思した。
『すました表情だとばれるかもしれない……』
バイロンは警備の状態を考慮すると意図的に不思議そうな表情を見せた。何食わぬ顔で通り過ぎるよりも野次馬根性を丸出しにした表情の方が怪しまれないと感じたからである。
そしてそれは功を奏した、
不愉快そうに警備の人間がバイロンに近づくなと合図したのである、バイロンはその様子を悟ると鼻の下を伸ばして様子を窺いつつ、階段の前を通り過ぎた。
こうしてバイロンは無事に特等席に戻ることに成功したのである。
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幕が下りてカーテンコールが起こると劇場に揺れるような響きが生じた。バイロンは先ほどのやり取りのことを頭の隅に追いやると劇場を覆う雰囲気に身を任せた。
『最後しか見れなかったけど、いいお芝居だったわ……』
バイロンは天井桟敷からかけられる声を聞くと何とも言えない高揚感を感じた。
一流の役者の見せる動きは無駄がなく、蛇足的なアドリブもない。計算された様式美とそれを崩さぬ演出がなされた彼らの動きは街の劇団では考えられないものであった。
『さすがだわ……これが一流なのね……』
歌姫の歌唱力、それに伴う伴奏、そして演出、バイロンがポルカで女優として経験したことをはるかに凌駕するパフォーマンスは彼女の心を深く揺さぶった。
『国立歌劇団のプロはやっぱり違うわ……』
マーベリックは余韻に浸るバイロンを横目に見ていたが水を差すのも野暮だと思い、バイロンが正気に戻るのを待った。
それからしばし、カーテンコールが落ち着きを見せて客が席を立ち始めるとバイロンが立ちあがった。マーベリックはそれに合わせると再び腕をスッと差し込んでエスコートした。
*
帰る道すがらバイロンは先ほどの出来事を報告した。
マーベリックは別段表情を変えずにその報告を聞いていた。
「二ノ妃様が若い役者を食べたんだよ、驚かないの?」
言われたマーベリックは平然とした表情で答えた。
「10年以上前からのことだ、大した話ではない。公務は真面目にこなされているし、独身の身だ。我々がどうこう言うことではない。」
それに対してバイロンが憤った。
「そんな、若い役者をつまみ食いしてるなんて庶民が知ったらブチ切れるんじゃないの」
「二ノ妃様は帝位につくことはできない。それゆえ権力闘争とは関係がない。多少の粗相があっても我々は感知せんよ。それに何かあればトネリアに帰ればいいだけだしな……」
マーベリックはそう言うとバイロンに話を促した。
「マスカレードがどうとか言ってたわ、パストールの秘書だともう、言ってたのは」
バイロンがそう言うとマーベリックが顎に手をやった。
「仮面舞踏会か……密談にはもってこいだな……場所はわかるか?」
バイロンは首を横に振った。
「わかんない……」
バイロンはそう言うとマーベリックを見た、その表情は今ほどとは違う真摯なものである。
「さっきは助かったわ、危うくばれる所だったから。」
バイロンがそう言うとマーベリックが怪訝な表情を見せた。
「何の話だ?」
言われたバイロンはトイレの天窓がタイミングよく割れたこと、そしてその隙に逃げ出したことについて触れた。それに対してマーベリックは妙な表情を見せた。
「それは、俺じゃない……確かに何かあった時はゴンザレスをつかってバックアップする計画はあった。だがそれは……違う」
マーベリックはそう言うとバイロンの顔を見た。そして顎に手をやると物思いにふけった、そして突然、何か思い出したように声を上げた。
「先に帰れ、用事ができた。」
マーベリックはそう言うとバイロンを乗合馬車に乗せた。
「また、来週な」
マーベリックはそう言うと瞬く間に雑踏の中に消えていった。
劇場でのスニークミッションを成功させたバイロンは、橋梁工事の談合にかかわる情報が仮面舞踏会でかわされることをつかみます。
ところで、トイレで窓を割ってバイロンを助けたのは一体、誰だったのでしょうか…




