第二十六話
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ベアーは町で評判の焼き菓子を買って帰ることにした。以前売り切れで買えなかった店である。買えるかどうか半信半疑だったが幸運にも行列はさほどなく、あまり待つことなく買うことができた。
帰り際に店の奥をチラリと覘くと初老の男がイスに座っていた。一仕事終えた職人であろう、たばこを吸う姿は何ともいえない哀愁があった。
*
ベアーが焼き菓子を持って帰ってくると今まで経験もしたことのない香りが漂ってきた。
「ベアー、今日はビーフシチューだよ。」
社会奉仕活動を終えて帰ってきていたルナが小声でささやいた。チキンシチューは定番だが、本格的なビーフシチューはベアーも初めてだ。二人とも目を爛々とさせた。
ビーフシチューはかなり手の込んだ一品である。牛のバラ肉をたまねぎ、セロリ、にんにくと一緒に炒めた後、2時間くらい赤ワインで煮込む。その間は丁寧に灰汁と余分な脂をすくい、えぐみが出ないようにする。それを終えるとトマトピューレを入れてさらに煮込む。すでに老婆はトマトピューレを入れて煮込むところまで終えていた。
老婆はガラス瓶に入った香草を鍋の中にいれた。
「それ、何ですか?」
ルナが尋ねた。
「ローリエだよ、風味付けと肉の臭みをおさえるためにいれるんだ。」
ルナは感心して見ていた。
香草はそれ自体では意味がないが料理にアクセントをつける上ではこれほどパンチの効いたものはない。臭みを抑えたり、風味をつけたり、複数混ぜて深みを出す方法もある。肉料理には欠くことのできないものだ。
老婆は肉を煮込んだ鍋にゆでたジャガイモとニンジンを入れた。
「じゃがいもは崩れやすいから火は弱くするんだ。」
ルナは興味津々に観ている。
しばらくすると老婆は味見をした。塩コショウで味をととのえるとベアーに木皿を取るように言った。木皿に盛られたビーフシチューは何とも言えない匂いを辺りに振りまいた。
老婆は仕上げに生クリームをかけた、出来上がりである。
*
ルナもベアーも目を輝かせた。目の前にあるシチューは二人の心を完全に奪っていた。煮込んだばら肉はスプーンで繊維が切れるほどに柔らかく、口に入れるとホロホロと崩れた。じゃがいものホクホク感、ニンジンの適度な硬さ、どちらもコクのあるルーとは絶妙の相性だった。これほどうまいシチューなら商売としても成り立つとベアーは思った。
二人は一言も話さずシチューを平らげた。
その後はベアーの買った焼き菓子が出てきた。薄いクッキー生地にクリームチーズとブルーベリージャムが塗られたものである。チーズは老婆の造るほうが上だと思ったがクッキー生地とジャムは抜群であった。特にジャムの酸味が絶妙で甘めの生地と淡白なチーズにアクセントを与えていた、
老婆はベアーとルナにカフェラテを出すとおもむろに口を開いた。
「ルナ、どうするのこの後?」
「……」
ルナは口に頬張っていたお菓子を飲み込み、難しい表情を見せた。老婆はゆっくりした口調で話しかけた。
「我慢して1,2年シェルターに行きなさい、そうすればその後、好きなようにできるでしょ。」
老婆は諭すように言った。
ベアーも老婆の意見に賛成だった、今の状態でルナがまともな生活を送れるとは思えない。人間社会の常識を身に着けたほうが後々、困らないだろう。
ルナは立ち上がると部屋に戻っていった。老婆とベアーはルナが機嫌を損ねたと思ったが、すぐに戻ってきた。そしてその手には本のようなものを持っている。
「今から、まだ言ってないことをいいます。」
ルナは今迄で見せたことのないまじめな表情を見せた。
「私、本当は58歳なんです」
老婆は口からカフェラテを噴出し、ベアーは鼻から噴出した。
「ルナ、そういう冗談はどうかと思うよ…」
ベアーは微妙なギャグだと思った。
「そう言うと思ってこれをもってきたの」
ルナは本を開いた、それは日記であった。日記の最初のページに羊皮紙が挟まれていた。そこにはルナの生まれた日付が書かれていた。最初は手の込んだ嘘かと思ったが、羊皮紙を見た老婆が驚いた。
「出生証明……これ本物だね」
出生証明は正式なものだった。
驚いたのはベアーのほうである。
「魔女の一年は人間の5,6年に相当します。だから見た目はこうかもしれないけど、実際は58歳なんです。」
老婆は難しい顔をしていた、こんな顔をする老婆を見るのは初めてだった。
「ルナ、あんたは魔女の社会でどのくらいのことを学んでいるんだい?」
「いろいろです、でも人間社会の学問や魔法に関してはほぼ一通り。」
老婆は深いため息をついた。
「あんたが妙に知恵があるのはそういうことかい…」
言葉の端々や考え方、物事の処理の仕方、どれを見ても10歳の子には見えない。少なくとも15歳前後といった感じである。
「でも、人間の法律とか政治のことはさっぱり…」
「それだけ知恵があって人間や亜人の子供と同じ扱いを受けるのはしんどいだろうね…」
老婆はどうしようかと思案し始めた。見た目は10歳でも相当の知的能力があるとなれば、普通の子供と一緒に過ごしたところで意味がない。ある程度、ここで社会常識を教えて、それから社会に出したほうがいいかもしれない。
老婆は急に声を上げた。
「明日からあなたを大人と思ってしつけをします、私の手伝いをしながらおぼえなさい。」
老婆はそう言うと自室に戻っていった。
残されたベアーはルナを見た。
『どうやっても10歳くらいだよな……魔女ってやっぱり人と違うんだ。でもエルフも長生きだからな、エルフに近いのかな』
ベアーが怪しげな表情を浮かべるとルナが口を開いた
「何よ、58歳だからびびってんの?」
「いや、どうやっても10歳にしかみえないから」
「しょうがないでしょ、魔女は人間とは違うんだから」
「君の口の利き方が生意気なのはしつけの問題じゃなかったんだね」
「当たり前でしょ、魔女は馬鹿じゃないんだから」
ベアーはため息をついた。




