8章 第一話
1
あれだけの大きな事件があったにもかかわらずダリスの都では何事もなかったかのように日々が流れていた。シドニーというすべてのメイドと執事を束ねる執事長が失踪したにもかかわらずである……
『ナターシャは転落死、アリーさんは懲戒解雇、そしてサリーさんは変死……これだけの事件が起こったのに……』
バイロンは日々の業務を行いながら、状況の推移を見守っていたが大きな混乱もなく業務は淡々と進んでいた。その様は止ったオルゴールが部品を交換するや否や再び音楽を奏で出すようであった……
『メイドは権力を維持するため装置の歯車……交換してしまえば再び組織は動き出す……たとえ執事長であっても……』
バイロンはメイド組織の動きをそれとなく観察していたが、宮中での自分の存在も小さな歯車の一つでしかないと悟ることになった。
そんなこと風に思った時である、背中からいつものごとく声が飛んできた。
「どうしたの、バイロン????」
好奇心いっぱいの眼でバイロンを見つめるのはリンジーであった。
「変な顔しちゃって、便秘にでもなったの?」
丸い顔、そばかす、そして憎めない笑顔、決して美人とは言い難いが、裏のない人の良さが全身からあふれている。
それに対してバイロンはすかさず切り返した。
「大丈夫、快便よ!!」
バイロンがそう言うとリンジーはニヤリと笑い、例のごとくマシンガントークを始めた。
*
いつものごとく意味のないマシンガントークは5分にわたり集中砲火をバイロンに浴びせた。
相も変わらず中身のない話はバイロンを辟易させたが、老舗宿の昇降機から『しっとりスコーン』をリンジーが投げなければ、間違いなくバイロンは屋上から突き落されていた。無駄話とはいえ命の恩人を無下にすることはできない……
バイロンは8割ほどリンジーの話を聞き流していたが、その途中で素朴な疑問をリンジーにぶつけた。
「ねぇ、リンジー、あの時の事、思い出したりしない?」
バイロンが屋上での出来事を真顔で問うとリンジーはそばかすだらけの表情で答えた。
「そうね、思い出さないって言えば嘘になるね……あれだけの事件だもんね」
リンジーはナターシャが転落死したことを記憶の引き出しから取り出すと、その表情をこわばらせた。だが、それも一瞬でその後あっけらかんとした顔で言い放った。
「スコーン、もったいなかったよね~」
バイロンはあの命を懸けた現場で九死に一生を得たにもかかわらず、スコーンに思いを寄せるリンジーの思考に閉口した。
『そっちかよ……リンジー……』
バイロンはそう思ったがリンジーはそれにかまわずいつものニコニコ顔を見せた。バイロンはリンジーの裏のない天真爛漫な態度に鼻汁を垂れそうになった。
この後、リンジーはマシンガントークの第二波をバイロンに浴びせたがその中身は先ほどと同じくあまり意味のないものであった。
以下がその要約である、
『私は便秘気味です……』
以上がリンジーのマシンガントークの趣旨であった。
2
一方、その頃、ダリスの第四宮には一台の馬車が停まっていた。
「ひと月ぶりですね、レイドル侯爵」
そう言って馬車に乗り込んだのは一ノ妃である。相も変らぬ権力者として君臨する女帝の顔は朗らかでありながら、その中に禍々しさを秘めていた。
レイドル侯爵はそれを見て深く首を垂れた。
「どうぞ、お乗りください」
レイドルはそう言うと自らドアを開けて一ノ妃をエスコートした。
2人が座席に着くのを確認すると御者であるマーベリックが鞭を振るった。馬はいななくことなく静かにその足を進め始めた。
*
「いかがですか?」
一ノ妃がそう言うとレイドル侯爵が懐から便箋を取りだした。
「シドニーがいなくなってから、水面下ではかなりの動きがあります。次の執事長のポストを巡ってそれぞれの宮長が動いています。」
『宮長』とは第一宮から第四宮の責任者のことをさす、第四宮の場合はマイラの事になる。女性の場合はメイド長と呼ばれるのが慣例だが、宮長と呼ぶのが正式な役職名である。
「そう、彼らも大変ね……」
マルス暗殺の指示役、シドニーが消えたことで宮中の日常は平穏を取り戻していた。いまだに謎が多く黒幕はわからなかったが宮中の『掃除』を終わったことで、一ノ妃には余裕があった。
「粗相を行った連中が排除され、後はその席を巡っての権力闘争……いつものことね」
一ノ妃が宮中で新たに生じた権力闘争を飽き飽きしたような口調で言うとレイドル侯爵は手にしていた便箋を渡した。
「ここに現在の状況を記してあります。」
レイドルはそう言うと執事長のポストを巡っての勢力争いを記したメモを見せた。
『第一宮:ロナウド宮長(53歳) 温厚な実務家、人望は悪くない
第二宮:サマンサ宮長(46歳) 人身把握能力の高い野心家
第三宮:ポーラ宮長(43歳) 人の弱みに付け込む策士家
第四宮:マイラ宮長(28歳) 実務をこなすことで精一杯』
「この四人が次の執事長のポストに資格を持つ者です。ロナウドなら人物、経験からポストに丸く収まるでしょう。ですが失踪したシドニーが第一宮出身のため、今回のレースでロナウドは除外だと思います。」
レイドル侯爵がそう言うと一ノ妃は静かに頷いた。
「マイラは経験という観点から除外、実質はサマンサとポーラの一騎打ちでしょうね」
レイドルはさらに続けた。
「執事長はすべてのメイドとバトラーを統括いたします。したがって様々な貴族が働きかけをしてまいります。サマンサもポーラも付け届けに清廉潔白だといいのですが……」
そう言ったものレイドルの眼は『そうではない』と示している。
それを見た一ノ妃は渋い表情を見せた。
「ところで、レナード公爵はどうなっていますか?」
尋ねられたレイドルはレナードについて触れた。
「トネリアのパストール商会と懇意にしているようです。金銭面の応援も受けていると思われます。まだ裏は取れていませんが、その仲立ちは占い師のルーザという女が一枚かんでいると思っております。ですが、まったくルーザの情報が……」
レイドルが言葉を濁らすと一ノ妃がレイドルをねめつけた。
「マルスがいなくなった今、皇位継承者はレナードが筆頭です。ですがトネリアとの癒着があるとなれば……芳しいことではありません」
一ノ妃は未来のダリスがトネリアに飲み込まれるのではいかという危惧を胸に抱いていた。国力の違い、特に経済力は甚だしい差がある、規模の大きさでトネリアが津波のようにダリスを飲み込むことは十分にあり得る……
「市井では金融面の発達が著しいと聞き及んでおりますが、あまり金融面が強くなりすぎるのも困りものです」
一ノ妃の表情には金融面をおさえられ、トネリアの属国にされるのではないかという思いが浮かんでいる。レイドルはその意見をくんでいるようで一ノ妃に対して深く頷いた
「執事長のポスト争いも気になりますが、レナードの動きはおさえておかねばなりません」
一ノ妃はそう言うとレイドルに馬車を下りると目で合図した。
*
一ノ妃を下ろした後、レイドルが馬車に戻ると御者であるマーベリックが声をかけた。
「第一宮は別として第二宮と第三宮の権力闘争は既に顕在化しております。レナード公爵がどちらを推すか、その点がこれからの大きな展開を生むと思います。」
「レナード公爵はどちらを推すつもりだ?」
問われたマーベリックは首を横に振った。
「まだ、そこまでは……」
マーベリックの報告を聞いたレイドル侯爵は包帯を巻いたその顔を歪めた。
「執事長は能力の高さだけでなく人望が必要になる、だがサマンサもポーラもその点においては芳しくない……」
レイドルは腕を組むとマーベリックを見た。
「レナード公爵の人間関係、特にルーザに関して洗っておけ。」
そう言ったレイドルの瞳を覗いたマーベリックは再び『何か』が起こると確信した。
3
レナード公爵はシドニーがいなくなったことにそのほおを緩ませていた。
『あの女が消えればこちらの思い通りだな……』
レナードはシドニーの介在のためにメイドやバトラーたちに直接働かけることを控えていた。シドニーの監視が厳しく『付け届け』をしてもそのほとんどをシドニーが懐にいれていたためだ。
『これからは直接コンタクトできる、そうすれば宮の情報はすべて私の耳に入る』
レナードはほくそ笑んだ。
そんな時である、レナードの背中から声がかかった。
「レナード様」
呼びかけたのは紫色のフードをかぶった女であった。
「お前か……」
レナードはそう言うと占い師の女を引き寄せた。
「どうだ、占いのほうは?」
言われた占い師、ルーザはそれに対して淡々と答えた。
「前途は開けておりますが、気になる点もいくつか……」
『気になる点』と言われたレナードはその眼を細めた。
「具体的には?」
「邪魔になるであろう存在が現れると……小さな曇りではございますが……」
言われたレナードはその顔を歪ませた。
「それはパストールの事か、それともローズ家のことか?」
レナードはトネリアの豪商パストールに一目置いてはいたが信用はしていなかった。金銭面でのつながりと交易の利益を鑑みて打算的に手を組んでいるだけである。レナードはルーザの言った予言がパストール商会の会長の事かと想起した。
「パストールは違うと思います。もし彼ならもっと大きな曇りとして映るはずです」
ルーザがそう言うとレナードはその手を顎にやった。
「ではローズの方か……ローズ家の当主は私と同じく亡き陛下の遠縁にあたる。皇位継承者としての資格がないわけではない」
ダリスの皇位は血統主義によって紡がれる。現在、亡き陛下の血を分けた人間はマルスがいなくなったためレナードとローズ家のどちらかが皇位を継ぐことになる。
「血という点では亡き陛下に近いのはレナード様でございます。現時点でローズ家のローズ様を恐れる必要はありません。それにローズ家の御当主は高齢です、壮年のレナード様と御比べになれば一ノ妃様もレナード様をお選びになるでしょう」
ルーザはそう言ったがレナードの表情は渋い。
「では、なぜおまえの占いの中にくもりがあったのだ?」
素朴な疑問をレナードが呈するとルーザは押し黙った。
「曇りはいらない、私は晴れ晴れとした青空の下を歩きたい。」
レナードはそう言うとその場を去った。
残されたルーザはその背中を見て何とも言えない表情を見せた。




