第九話
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その後すぐである、急転直下の事態がキャンプを襲った。
「おい、パトリックが!!」
1人の少年が食堂に駆け込んできた。
「パトリックが、やべぇぞ!!」
落ち込んでいたミッチもその言葉には色を変えた。そして食堂を飛び出すとパトリックの所に駆け寄ろうとした。
だが……
ミッチの眼に入ったのは考えられないものであった。
『……パトリック……』
担架にのせられたパトリックの姿は明らかに異常であった。頭部から出血し、その美しい顔は真っ赤に染まっている。うつろになったその眼は焦点さえ定まっていない……
ミッチは看守によって医務室に運ばれるパトリックに駆け寄ったが、その様子は想像以上に酷いものであった。
「何か、しゃべってくれよ……パトリック……なあ、おい!!」
ミッチが泣きそうな声をあげたがパトリックはそれに答えない。それどころかだらしなく開けた口からは涎がこぼれ、時折、痙攣と思われる動作が現れている……
「やべぇな……脳までいってんじゃねぇのか……この傷……」
「出血も止まってないしな……」
痙攣するパトリックを担架で運ぶ看守はポツリとこぼした。
それを聞いたミッチは呆然とした。
「……何でだよ、パトリック……どうしてこうなったんだよ……」
ミッチは考えられない状況にその場に崩れ落ちた。
*
ミッチが直訴状の提出を失敗し、さらにはパトリックを失ったことに絶望しているとその背中から追い打ちをかけるような声がかけられた。
「なあ、直訴状はどうなってんだ?」
食堂から出てきた少年たちがミッチの様子を見て不安げな声をあげた。
「まさかあれだけやって、失敗したなんてないよな……」
「もしかして提出できなかったなんて言わないだろうな……」
少年たちは既にミッチが直訴状を渡せなかったことを知っているようで明らかな不信感といら立ちを見せた。
「何だよ、使えねぇな。看守を告発するとか言ってたのに、駄目じゃねぇか!」
「期待させやがってよ!」
所詮は前科もちの少年たちである、品行方正なはずがない。直訴状の提出に手を貸したわけでもないのにミッチに対する糾弾を始めた。
「このペテン師野郎!」
「くそチビ!!」
暴力こそないがその罵声は甚だしく、中には唾を浴びせる少年もいた。精神的なリンチといって過言でない。さらにパトリックが担架で運ばれる姿を見ると、彼らは手のひらを返したような言動を見せた。
「何がパトリックだ、いなくなったらどうにもならねぇだろうがよ!!」
キャンプの帝王がいなくなったため、少年たちはミッチに対して容赦なかった。罵詈雑言を吐くだけでなく、中にはこつく連中もいてミッチは人間サンドバックさながらの状態に陥った。
一方、ガンツ派閥の少年たちもその姿を遠巻きに見ているだけで助けに入ることはなかった……パトリックがいなくなったことで次の行動をどうすべきか判断がつかなくなっていたのである。
『クソ……クソ……』
ミッチは四面楚歌の状況を、涙をこらえて耐える他なかった。
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一方、サルタンは苦しむミッチを見てニヤニヤしていた。
『俺の筋書き通りだ……これで刑期が短くなる……』
ミッチの直訴状が届かないことを知っていたサルタンは昼休みの食堂で、それとなく噂話を流して他の少年を煽っていた。自分が情報の発信源とはわからぬようにたち廻り、トイレの個室で声をあげたり、話している少年たちの死角で声色を変えて直訴状提出の失敗を喧伝した。
『パトリックもいなくなったしな……』
パトリックというカリスマが消えたことでキャンプの少年たちは統制を欠き、以前と同じように烏合の衆へと成り果てていた。
『想像以上に美味くいってる……』
サルタンはそう思うと自身の計画を駄目押しするべく知恵を回した。
『あとはもう一人……懐柔して、おさえておかないと』
サルタンは底意地の悪い笑みを見せるとその場を後にした。
*
サルタンが向かったのはアルの所であった。
サルタンは嬲られるミッチを遠目にして気の毒そうな表情を見せているアルに声をかけた。
「ああなったら、終わりだぜ、アル」
声をかけられたアルはサルタンを見た。
「看守の奴らは、俺たちより頭がいいんだよ。いくらパトリックが絵をかいても、向こうのお見通しさ……下手をうてばミッチのような目にあう。前科もんのガキなんて信用できるはずないんだよ」
サルタンは自分で煽っておきながら何食わぬ顔でそう言うと達観した僧侶のような口ぶりでアルに話しかけた。
「最初から俺たちに勝ち目はないんだ……」
サルタンはさらに続けた。
「それにもうパトリックももういない、あの傷じゃ無理だ……お前ももう義理立てする必要ないんじゃないか?」
アルはその言葉に動かされた。ベアーの友人であるパトリックには並々ならぬ思いもあったが、いなくなってしまえば別である。ガンツとミッチに義理立てするほど彼らに恩があるわけではない……
サルタンはアルの様子を見るとさらに続けた。
「下手に看守に敵対すれば危ない現場に送られる……テッドみたいになるかも……」
サルタンはアルの悩む様子を見ると取引を持ちかけた。その物言いは実に自然でアルを籠絡させようという意図は全く見えない。
「刑期短縮って知ってるか?」
アルはその言葉に目を大きく見開いた、サルタンの企みが全くわかっていない……アルの表情を見たサルタンは一瞬で判断した。
『かかったな……こいつ』と、
『こいつをおさえておけば、あの事故現場の真実を知る人間はもういない。』
サルタンは策謀を完遂させたと自負した。
『これで俺の刑期短縮は間違いない』
サルタンは心中そう思ったが、その思いを微塵も感じさせない表情を見せるとクリクリした愛らしい眼でアルを懐柔した。サルタンという少年は人間の悪意が凝縮したような人物であった。
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バラクは負傷したパトリックの状況を見に医務室に行くと医官が神妙な表情をしていた。
「命にかかわることはないでしょうが……頭をぶつけていて、記憶がはっきりしませんね。失語症の症状も……」
それを聞いたバラクはポーカーフェイスを装ったが、その口角は上がっている。
『これで目の上のたんこぶがなくなった……不安な要素はもうないな……』
バラクはパトリックの呆けた表情を見ると遅れた掘削作業を邪魔する人間がいなくなったことにほくそ笑んだ。
『こいつがいなければ他のガキはゴミと変わりない。奴らをこき使って作業を急がせれば遅延している分も挽回できる。そうすれば視察の時に私の査定が上がる』
バラクは出世欲丸出しの表情を浮かべると医官のネイトを見た。
「ネイト先生、パトリックは『大丈夫』なんですね?」
『大丈夫』という言葉の裏にはパトリックの体調をおもんばかる意味はない。ネイトもその『大丈夫』という裏の意図を読み取り反応した。
「館長、この傷ではしばらくは安静にするしかない……記憶の混同はいつ回復するかは定かではないよ。それに脳に障害が残れば以前と同じようには振る舞えないだろう……」
額の傷を縫いながらネイトがそう言うとバラクは館長らしい威厳のある態度を見せた。
『どうやら風は私の方に向いてきたようだな』
バラクは口元に手を当てて表情を隠したが、その口元は明らかににやけていた。
*
バラクが出ていくとネイトは辺りの様子を慎重に確かめた。そしてカギをかけると診療室のカーテンを閉めた。異様なほどに周りに様子を窺うとその後、パトリックを見た。
『……美しい……』
ネイトの眼は明らかに医官とは異なる光を発した。そこには不道徳で人にはあるまじき狂態が覗いている。
『この仕事をしていると時折、ご褒美が天から落ちてくる……今回は最高のギフトだ』
ネイトはそう思うとパトリックの隣に腰かけ、囚人服に手をかけた。
『素晴らしい腹筋だ……』
6つに割れたパトリックの腹筋は役者のような見せかけのものではなく、労働によって培ったモノである。ごつごつと隆起したそれは美しさよりも力強さを秘めていた。
ネイトはそれをみると舌なめずりした。
『楽しませてもらうよ……パトリック……』
ネイトはそう思うとパトリックの下半身に顔をうずめた。
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忍んでいたミッチは医官のネイトが出ていくと医務室に忍び込みパトリックに声をかけた。
「大丈夫かパトリック!」
ミッチはパトリックの様子を確認しようとしたが想定外の体調の悪さに絶句した。
『……駄目だ……』
パトリックの表情は呆けているだけでなく、焦点さえあっていない……
『何でこんなことに……』
ついこの前まで見せていた威厳と雅な雰囲気はそこにはない。美しい顔は相変わらずであったがパトリックの眼に邪悪な光は灯っていなかった……
『……駄目なのか……』
ミッチはパトリックのあまりの代わり様に下唇を噛んだ。その強さに唇が切れると滲んだ血が口角から顎へと流れた。
「……パトリック……」
ミッチは如何ともしがたい気持ちを持った。
「終わりなのか……これで……」
ミッチは苦しい状況下を潜り抜けたかつての事を思い起こした。看守たちの奸計を見抜いてフラウ一派と細目の少年の企みを打ち砕いたパトリックの雄々しい姿が思い浮かぶ……
「なあ、パトリック……なんか言ってくれよ……」
だがパトリックは答えない……半ば廃人と化したパトリックは無言のまま虚空を見ている。
ミッチはその姿を目にすると涙をポロポロと流した。
「俺、こんな終わり方、嫌だよ……」
ミッチはパトリックの手を握って続けた。
「腐ったキャンプで……初めて信用できる奴ができたのに……仲間ができたのに……」
ミッチはそう言うと肩を落とした。その表情は自殺するのではないかと思うくらいに沈んでいる……
「……『おっぱい同盟』どうするんだよ……」
ミッチが昏い表情でポツリとこぼした。
その時である、
パトリックの指が微かに動いた。その動きは意図的なのかそうでないのか判断はつかない、震えただけの事だけかもしれない……だが右手の小指がわずかに動いたのである。
ミッチはそれを見ると大きく深呼吸した。
『……もしかしたら、良くなるかもしれない……』
ミッチはそう思うと『パトリックの回復』にかけることにした。一縷の望みを持ったミッチは懲罰室を出るとパトリックの言った企みを実行するべく鉱山へと走った。




