第三話
7
翌日、いつもの日常がブーツキャンプに訪れた。
パトリックはレベルの低い授業を横目に、忍ばせていた上級学校のテキストを盗み読みし始めた。
テキストのタイトルは『初級幾何学』
上級学校で習う数学のさわりの部分だが理数的な知識に飢えたパトリックにとっては実に有意義な教科書であった。平方根や直角三角形の概念、そして初歩的な三角関数の考え方などが記されている。
パトリックはそれらをむさぼるようにして読み漁った。理解できない部分もあったがむしろそこが新たな疑問となりパトリックの知的探究心を高めるという喜ばしい結果を導いていた。閉鎖された特殊な環境であるが故に生じた学習意欲はポルカにいた時よりもはるかに強いものになっていた。
一方、授業を行う講師はパトリックが一人だけ異なるテキストを独学していることに気付いていた。だが、ひと月前の事件で頭角を現したパトリックに注意する勇気はないようで見て見ぬふりをして授業を進めていた。リーダー格の少年を注意して他の少年たちから報復されることを恐れたためである。
だが、この状況はパトリックにとって好都合で、無駄な授業時間を興味のある学問に費やすことが可能になった。今までは授業外の自習時間を設ける必要があったが、その必要もなくなり昼休みに他の少年たちと交流することも回数が増えた。
*
授業が終わり、パトリックが食堂に姿を現すとガンツの派閥にいた少年たちが立ち上がって直立不動の姿勢を見せた。その態度には尊崇の念が浮かんでいる。かつての事件でパトリックの見せた活躍が彼らにとっては燦然と輝いているのである。
一方パトリックはそれをチラリと見ただけで席に着くと静かに木皿に盛られたキッシュを口に放り込んだ。
キッシュとは野菜や肉類を卵液にあわせてパイ生地やタルト生地に流し込んで焼き上げたものである。イチジクや苺のタルトはスイーツになるがキッシュは惣菜型タルトといっていいだろう……
だがブーツキャンプのそれは非常にまずく……咀嚼する事、飲み込む事が罰ゲームのような味付けになっていた。
『相変わらず、マズイな……』
ベーコンを闘争の中で勝ち取り、ブーツキャンプの食事の質があがったことは喜ばしいことであったが、裏を返せばベーコン抜きの食事の不味さも身に染みて感じるようになっていた。
*
食事が終わるとパトリックはミッチとガンツとともに午前中の出来事を情報交換する。3人はフットボールに興じる少年たちに混じると、それとなく看守の動向、性格、クセといったものを確認しあった。
フラウ一派が白金盗掘の一件で左遷されてから新たな看守が送り込まれてきていたが、その質は低くお世辞にも『良い』とは言えなかった。少年たちに対する矯正教育はなおざりでやる気もなく、適当かついい加減というのが現在の看守たちの共通項であった。
白金の盗掘に手を貸すような悪人はいなかったものの、ストレスを少年たちにぶつける暴君型の看守もおり、反抗した少年の一部が名誉の勲章(看守の警棒により殴られたことによる怪我)をもらうことも毎日のようにあった。
「大した奴は今のところいない。現状はこのまま様子を見る。だが、落盤と鉄砲水は別だ……あれは死ぬ……」
パトリックはそう言うと二人を見た。
「殴る奴より作業の監督を怠る奴に気をつけろ、そういう看守の下で働くことは死に直結する」
パトリックはそう言うとガンツを見た。
「それから、ガンツ、あれは止めさせろ。こっちの気が散る」
パトリックはガンツ派閥の少年たちの脳筋スタイルの敬意の示しかた(パトリックが食事を終えるまで直立不動で立ち尽くす)にケチをつけた。
それに対し、ガンツはニヤリと嗤った。
「お前が俺たちの上に立てばあいつらに直接命令ができる。そうしない限りは止めないだろうな」
かつて100%の脳筋であったガンツであるがパトリックと時間を過ごすことで知恵のようなものが芽生え、現在は脳筋からジョブチェンジしていた。ガンツはパトリックをリーダーにするべく敬意を込めた嫌がらせを展開していたのだ
パトリックはガンツをチラリとみるとその場を離れようとした。
「一本取られたね、パトリック!」
そう言ったのはミッチである、その顔にはガンツと同じくパトリックをリーダーに担ぎたいという思いがくっきりと浮かんでいる。
「俺はそういうことは興味がない」
パトリックは涼しげな口調でそう言うとその場を速足で出て行った。
8
午後になると、パトリックは『内勤』を行うために作業棟へと向かった。
パトリックは研磨を行うための紙やすりを手にすると車輪を万力に固定して作業を始めた。慣れた手つきでいつもの単調な研磨作業進めるとそれとなくその合間をぬぐって看守の様子を探った。
『ヘボばかりだな』
看守たちは少年たちを監視はしているが技術を教えるようなことはなかった。ノルマさえ終わればいいと思っているらしく、少年たちの向上心をかきたてるような指導や現場で役立ちそうな知識を伝授するような人間はいなかった。
『あの指導じゃ、ここを出た後も職にはつけない……はなからやる気さえないんだな……』
閉鎖された環境の中で安い給金で宮仕えする連中は実に程度が低く、かつての事件で体を張った看守長のような人物は皆無であった。少年たちの更生など内心どうでもいいと思っているのだろう……パトリックはそう思った。
そんな時である、不器用な少年が研磨し終えた車輪を運び損ねて音を立てて落した。手を滑らせただけの事であるが、看守の1人はその落した時の物音におどろいたらしく一瞬にしてその機嫌を悪くした。
パトリックはその様子を観察したが、烈火のごとく怒った看守はその少年に近づくと太ももを警棒で打ちつけた。1度ではなく3度も……
『理不尽な暴力と怠慢な監督、クソな奴らだな……』
パトリックは暴行を受けた少年がその場に座り込む姿を見て何とも言えない思いを持った。
9
こうした日々がブーツキャンプの日常として展開するのだが、その週末パトリックの恐れる事態が起きた。
けたたましいハンドベルの音と看守たちの怒号が響く、
『落盤だ!!』
パトリックは内勤作業の手を止めるとスクッと立ち上がり、その足を鉱区に向けた。少年たちは落盤や鉄砲水が起きると事故の被害を最小にするため救出に向かうことになっている。
パトリックは素早く作業棟と飛び出すと事故現場へと走った。
*
現場近くには複数の少年が茫然としていた。かなり大きな崩落があったらしく入り口付近にある支えの木柱が歪んでいると口々に言い放った。
パトリックが状況を確認して少年たちの話に耳を傾けているとガンツとミッチがやって来た。その表情は実に渋い……
「中に3人が取り残されているらしい……一人はアルだ」
言われたパトリックは苦虫を潰したような表情を見せた。
「水がちょろちょろ流れ出した時に撤収しなかったみたいだ」
「鉄砲水か?」
「その辺りは……わからない……」
ミッチがそう言うとパトリックは新しく看守長になった髪を短く刈り上げた40過ぎの男を見た。
『なぜ指示をしないんだ……』
看守長は現場を俯瞰する姿勢を見せているが、ただ見ているだけで何もしていないように見えた。
その姿を見たパトリックは看守長にツツッと近寄ると声を上げた。
「意見具申いたします。まず、状況確認を迅速に行う必要があります。何人かを現場に行かせるべきです!」
まごまごしている看守たちに指示を与えない看守長に対し業を煮やしたパトリックがそう言うと看守長は腕を組んだ。
「現状は極めて危険でありますが、中の状況を確認しない限りは救出作業もできません」
パトリックが続けると看守長は部下たちに命令する事を厭う表情を見せた。
「危険すぎて無理だ」
見捨てる気満々の口調である、看守長の物言いは罪を犯した少年のことなど歯牙にもかけぬものであった。
パトリックはそれを見ると看守長を睨み付けた。
「あの少年たちも罪を犯さなければこうした事故に巻き込まれることはなかったはずだ、不幸な出来事だと思ってあきらめろ」
看守長はそう言うとパトリックを睨み返した。
「それにお前のような罪人にいちいち指図されるいわれはない!」
にべもない反応を看守長は見せた。
『このクズ……』
パトリックはそう思ったが看守長は救出活動に難色を示し、ただ状況を傍観するという態度をとった。
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そんな時である、避難活動を指示していた看守の1人が声を上げた。
「看守長、看守の1人があの中から出てきません……事故に巻き込まれている可能性が……」
看守長は報告を受けると『チッ』と舌打ちした。少年は見捨てるが看守は見捨てないという不文律があるようで看守長は不愉快な表情を見せた。
そして一呼吸置くとパトリックを見た。
「どうやら動かねばならんようだな」
看守長は顎髭に手をやると看守の1人に声をかけた。
「救出活動を行う、まずは状況確認だ。」
看守長はそう言うと再びパトリックを見た。
「仲間を助けたいんだろ、お前、いって来い」
その言いようは実に淡々として感情がこもっていない『死んでも構わない』という意味だろう。
パトリックはそう言われると『望むところだ』と言わんばかり表情を見せて現場へと向かった。




