73.想贈詩と再逢
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
薄紅色の花弁と共に静かな春風が、青藍色の髪をそっと撫でる。その風を受けたリオンは、石碑の前でそっと立ち上がって言った。
「私ね、お義父さまに我儘を言って、三年だけ平民として生きる時間をもらったの。最初は二年って言ったんだけど、何故か『二年はダメだ、三年で必ず帰って来なさい』って言われちゃって、あと一年くらいは自由なんだ」
秘密の話をするようにやや楽しげに、彼女は一人で言葉を紡ぐ。
「とは言え私、神殿で学んだこと以外は全然だから……。お父様の紹介で、この近くの街の修道院でお手伝いしてるの。公爵家の援助で生活してるから、平民の真似事してるだけ、なんだけどね」
苦笑を見せながら、風に弄ばれる髪を抑え、彼女は静かに言った。
「エマやリックには、何も言わないで来ちゃった……」
紡ぐ言葉に対し、瑠璃の瞳に浮かぶのは悔恨。彼女は困ったように微かに笑みを浮かべて言った。
「忘却水を飲ませたから怒ったとか、そんなんじゃないよ? 二人がどうしてそれを選んだのかは、少し時間が経ったあとだったからこそ理解できたし。二人も団長さんも、他の人もみんなどことなく私に見せる笑顔が悲しげだったし」
そこで言葉を区切った彼女は、自身の影に視線を落とす。
「何度も話そうとは思ったんだけど、ね。二人にはいろいろ見透かされそうで、結局言えなかったの」
胸の前で両手をギュッと握りしめた彼女は、何かを振り払うように首を振り、顔を上げた。そこに浮かぶのは、悲しげな笑顔だった。
「ここのことは、お義父さまから聞いたんだ。お義父さまは団長さんから。いつか私に聞かれたときは伝えてほしいって頼まれてたんだって」
そう言って、彼女は数歩前に進み、石碑の隣に立って続けた。
「作られたのは、私が神殿を出る一年前、正確には騎士団の捜索が打ち切られた三年前。あの日のことを忘れないよう、騎士団の墓所とは別に、団長さんとリックが個人で設けたんだってさ」
さざめく波の音にしばし耳を傾けた後、彼女は目の前の崖下に広がる海を見つめながら言った。
「だけど、ここに来たら受け入れなきゃいけない気がしたから、今日までずっと避けてた。避けて、お義父さまからの連絡を待ってたの。……結局、見つかったっていう連絡は来なかったけど」
昏い光を宿し、彼女は腕の中に抱いた剣をギュッと握り締める。ややあって、詰めていた息を吐き出すと、彼女はくるりと石碑の方を振り返り言った。
「だから、約束の五年になる今日、ごめんと文句を言いに来たの」
貼り付けられた笑顔に、悲しみを色濃く浮かべたまま、彼女は懺悔をするように言った。
「私と関わったせいで、たくさん危険な目に合わせてごめんなさい。あなたを好きになってごめんなさい。だけど……」
そこで一度言葉を句切った彼女は、唇を噛みしめる。そして、眉根を寄せ、唇を震わせて続けた。
「それでも、約束破ったことは許さないから。許してなんて、あげないんだから……」
透明な雫がぽつりぽつりと乾いた大地を濡らし、染み込んで行く。顔を伏せた彼女は鞘を握る手に力を込め、震える声で絞り出すように言った。
「許してほしかったら、会いに来てよ。帰って来てよ。もう一度……」
涙で彼女の言葉が詰まる。唇を噛み締めた彼女は全身に力を入れ、振り絞るようにそれを口にした。
「私の名前、呼んでよ……!」
半ば叫ぶように紡がれたのは、護衛騎士となった彼に、彼女が最初に求めたわがままだった。
彼女の悲痛な願いは、空気を裂いて木々の中に響く。その声に慌てて飛び立つ鳥たちの羽音が、彼女の耳朶を打つ。それにハッとした様子で目を見開いた彼女は、顔を上げると、大きく深呼吸をして静かに言った。
「ごめん。いくら何でも望み薄だって、ちゃんとわかってるの」
そうして、抱えた細身の剣に視線を落とせば、徐に彼女は剣を抜いた。鞘を石碑に立てかければ、彼女は両手で持った剣先を空へ向ける。
「正直言えばね、いっそのことって何度も思ったよ。お守りとして渡してくれたリックたちの気持ちもわかってたけど、この剣ならルイスのいるところに導いてくれるかも、って……」
錆びもなく、手入れが行き届いた刀身に、悲しげな彼女の笑みが映り込む。そんな写し身と目を合わせたあと、彼女はそっと目を伏せて言った。
「だけど月巫女じゃなく、平民として生きて、修道院でいろんな人の想いに触れて、ようやく少しだけわかった気がするの。ルイスがどうして、五年は生きろって言ったのか……」
剣を地に向けて下ろし、流れる雲を見上げながら彼女は言った。
「みんな大切な人を失っても、それでもまだある大切なもののために頑張って生きてる。悲しみや痛みを抱えてるのは、何も私だけじゃないんだって……。わかってたつもりだったけど、わかってなかったんだって、よくわかったよ」
そうして、再び石碑に視線を戻し、彼女は続けた。
「それでね、少しだけ考えてみたの。私がこの世界から居なくなったら、みんなどう思うんだろうって」
目を伏せた彼女の瞼の裏に、彼女が出会ってきた人々の顔が次から次へと過る。
「きっとお義父さまも、エマもリックも団長さんも、それにサラも悲しむと思う。今お世話になってる人も、未だに自分を責め続けてる『彼』のことも、きっと傷付けると思う。そう考えたら、それは嫌だなって思ったの」
そこまで言って、彼女は悲しげに微笑んで言った。
「やっぱり大切だもん。だから、そっちにはまだ行けない。精一杯生きて、それから会いに行く。それがきっと、あのときルイスが私に望んだことだと思うから」
次いで彼女は、一度抜いた剣を鞘に納めれば、石碑の前にしゃがみ込んで言った。
「ここに来るまでの間もずっと迷ってた。でも、話をして決心ついたよ。だから、剣は返すね」
石碑の前に彼の剣を置けば、今度は自身の髪の左右に飾られた髪飾りを外す。三日月と彼女の石でもある瑠璃がはめ込まれた髪飾りを、剣に添えるように置いて続ける。
「これは私の代わり。ここの景色は綺麗だけど、一人じゃ少し寂しいから」
そう言って笑いかけたあと、彼女は周辺に咲いている色とりどりの花を摘み、両手一杯に集めて石碑の前に座る。そうして、集めた花を編みながら、彼女は静かに詩を紡ぐ。
「途切れ途切れに この胸に響くは
翼をくれたあなたの言葉
諦めそうになるとき 奮い立たせるは
今はいないあなたの言葉
あなたの言葉が力をくれた
あなたの笑顔が勇気をくれた
哀しみはまだこの胸を焦がすけれど
あの頃に戻りたいと望むこともあるけれど
あなたがいた証は心の中にあるから
それを糧にまだ歩いていける
あなたがくれた優しさも愛情も
あなたを失った痛みも悲しみも
全て受け入れて歩いていく
あなたに会いたいと願うけれど
今はまだあなたの元へは行けないから
いつかあなたの傍には行くけれど
そのときあなたの笑顔が見たいから
今はただ祈ろう
あなたの心が安らかであることを
今はただ願おう
あなたが笑顔でいられることを――……」
彼への想いを込めた別れの詩と共に、彼女が摘んだ花は綺麗な花輪を象る。できあがったそれを手に立ち上がった彼女は、静かに目を閉じると、今度は死者へと捧げる鎮魂の詩を静かな祈りと共に紡ぎ始めた。
***
一方その頃。リオンがいる丘の麓に、一人の騎士がいた。軍服の左胸にある三日月と剣を象った軍章が、太陽の光を受けて輝く。碧い紐に括られた、ウェーブがかった長い金糸が風に揺れる。その風と共に、リオンの紡ぐ詩が微かな音となり、彼の耳朶を打つ。
彼は鹿毛の馬の手綱を引きながら、届く鎮魂歌に耳を傾けながら、キョロキョロと辺りを見回し呟いた。
「アイツは来てない、か……」
彼の声に滲むのは落胆と悲しみ。だがそんな彼の耳に、鎮魂歌とは別に、僅かながら馬を駆る音が届く。
真っ直ぐ近付いてくる蹄の音に振り返れば、彼は碧眼を大きく見開いた。距離を詰めてくるのは一頭の黒馬。それに跨がる人物の顔が徐々に明らかになると、彼は顔をくしゃくしゃにして言った。
「肝心なときに遅刻するのやめてよね。心臓に悪いんだよ、バカ」
文句とは裏腹に、彼の声には確かな喜びと安堵の色が浮かび、その目から一筋の涙が頬を伝い、それは風に攫われていった。
***
鎮魂の祈りを唄い終えたリオンは、目を開けると手にした花輪をそっと海に投げ入れ、広がる青空を見上げて呟いた。
「私の祈り、届いたかな? 届いてるといいな……」
そう言って、彼女は両手を後ろで組んで続ける。
「期限が来たら公女としていろんな責任を負うことになるし、その中には政略結婚とかもきっとあるんだと思う。だけどね、それでもきっと……今もこれからも、私が愛するのはル……」
「リオン!」
リオンの言葉を遮るように、切羽詰まったテノールの声が、彼女の名を呼ぶ。
懐かしい響きの呼び声に目を見開き、言葉を失った彼女がゆっくり振り返った先で目にしたもの。それは風に揺れるポニーテールの長い鳶色の髪と、翠緑色のマフラーだった。
息を切らしながら肩を弾ませ、膝に両手をついた男性が、伏せていた顔をあげる。彼の瞳の色はマフラーと同じ翠緑色。彼女が五年間、記憶を失っていた間ですら無意識で探し、ずっと待ち望んでいた色だ。
それを見て、信じられないとばかりに両手を口元にあて、息を呑んだ彼女に、彼は息を切らしながら言った。
「遅く、なって、悪い……」
「う、そ……」
「本物、だ」
そう言って、彼が懐から取り出し掲げたのは不恰好なペンダントだ。金の台座はひしゃげ、中心の瑠璃は金属のようなものがめり込み、ひび割れている。そんな歪な形をしたそれは、かつてリオンが肌身離さず身に付けていた神具。五年前の今日、彼と共に失ったはずのものだった。
そして、それを掲げる左手首には、青と緑と黒の糸で編まれたボロボロの組紐が揺れる。不意に彼女の目の前で組紐がぷつりと切れ、風に浚われ飛んでいく。
それを目にしたリオンの足が、ふらりと彼へと向かう。覚束ない足取りは徐々に速度をあげ、やがて駆け足に変わる。そして、腕にまとわりつくストールを放り出した彼女は、歩み寄る彼に向かって地を蹴った。
「ルイスっ!」
五年間ずっと待ち望んだ人の名を呼んで、彼女は抱き付き、彼――ルイスもまた、それをしっかりと抱き締め返した。
「会いたかった、リオン……」
彼の首に抱き付いた彼女の目から、涙が溢れていく。
「ホントのホントにルイスなんだよね? 幽霊や幻じゃないんだよね?」
「幻じゃない、ちゃんと生きてる」
抱きしめる腕に力を込めた彼の言葉に、涙の勢いは増し、ポロポロ止めどなく零れ落ちていく。
「無事で、よかった……ホントに、よかった……!」
嗚咽混じりにそう告げたリオンだったが、『けど』と首に回していた手をほどき、僅かに距離を置くと涙目で彼を見上げ、眉尻をつり上げて言った。
「生きてたならっ、なんでもっと早くっ……!」
「……すまない」
静かな謝罪に、彼女は涙ながらに、唇を噛みしめる。そうして、握った拳で彼の胸を力なく叩き、しゃくりをあげながら言った。
「信じたくても、不安で怖くて仕方なくてっ……!」
「うん」
「私一人じゃ、立ってるのがやっとでっ……!」
「……うん」
「いつだって、ルイスに会いたかった。傍に、居てほしかったよ……」
そこまで言ったリオンの手が、ギュッと彼の服を握り締める。体を震わせ、泣きじゃくる彼女を抱き寄せ、彼は言った。
「一人にして悪かった……」
そんな彼の言葉に、彼女は何も言わないものの、離すまいとばかりにその背にしっかりと腕を回す。そんな彼女の頭をそっと撫でながら、ルイスは言った。
「オレも早く会いに来たかったんだが、できなかったんだ」
「なんで……?」
涙に濡れた瑠璃が翠緑玉をまっすぐ見上げる。そんな彼女の目を真っ直ぐ見つめ、彼はやや困り顔を浮かべ告げた。
「出血と毒の影響で数ヶ月、生死の淵を彷徨ってたらしい。そのせいか、目が覚めてからも半年以上寝たきりで、な。何度かどうにか戻ろうともしたんだが、海を越える体力も旅をする体力もなくて。必要な体力を取り戻すのに必死で、気付いたらあの別れから約三年経ってたんだ」
「三年……」
彼の告げた言葉を反芻する。それは、ちょうどリオンが月巫女の役目を終え、神殿を出て姿を眩ました頃でもあった。
「三年経ってることとお前が姿を消したこと。それらを噂で知ったのは、お前の生誕祭から一月後、聖都に着いた矢先だった」
「え……」
すれ違いが起こっていたことに、瑠璃の双眸が驚きで固まる。そんな彼女にルイスは続けて語った。
「事情を聞きに騎士団に行くことも、公爵さまに聞きに行くことも考えたんだが。指名手配のような張り紙を見かけてな。万が一、お前を連れ出した件で重罪人扱いになってたら厄介だと思って、慌てて聖都から離れたんだ。それからは、人目を避けつつ国中を探してた」
彼の言葉に固まっていた彼女は、瞳を揺らしながら震える声で問いかけた。
「私のこと、探してくれてたの? 街じゃ死亡説まで流れてるのに……?」
「オレの知るリオン=レスターシャは、そう簡単に約束を破るような人間じゃない。……だろ?」
「……買いかぶり過ぎだよ……」
眉尻を下げて苦笑を浮かべた彼女の頭を撫でながら、彼は続けて言った。
「まぁ、心配ではあったから、何度かリックや義父さんを頼ろうともしたんだが、直に捕まえられなくてな」
「イーサン様や侯爵家を通じて連絡したってよかったんじゃ……?」
「……侯爵家は実家だからこそ、連絡しにくかったんだ」
歯切れの悪い彼の返事に、リオンは訝しむように見つめる。『どういうことだ』と言わんばかりの表情で見つめる彼女に、彼は気まずげに視線を逸らしながら言った。
「大罪人扱いになっているなら、オレが接触することで侯爵家まであらぬ疑いが向くんじゃないかと考えたら頼るに頼れなくて、な」
そんな彼の言葉に瑠璃色の眦が、非難混じりに釣り上がる。
「団長さんもリックもすごく辛そうだった、心配してたんだよ?」
「それはわかってる。だけどそれ以上に、お前にもしものことがあったらと思うと、気が気じゃなかったんだ」
真顔で告げられた内容に、彼女は毒気を抜かれた様子で唖然としたあと、怒りと申し訳なさがない混ぜになった瞳を彷徨わせる。それを誤魔化すかのように、彼女はややぶっきらぼうな口調で問いかけた。
「それなら、どうして今日ここに来たの? 当てずっぽう、じゃないよね?」
「半月ほど前に、ダメ元でエマに会うためにカラーナ家の屋敷に忍び込んで、教えてもらった」
「忍び込……え?」
彼の口から飛び出した名前と行動に、瑠璃色の瞳が瞬く。それからややあって、彼女は気まずげに問いかけた。
「エマ、元気だった?」
「元気だ。予想外のことも起きてたが、お前のことすごく心配してた」
「そっか……」
その言葉に彼女は切なさを滲ませながらも、嬉しそうに微笑む。その余韻に浸ったあと、彼女は真顔で問いかけた。
「エマを訪ねたってことは、何か私に関すること視てたの?」
「ああ、ずっと前からな。まぁ、それは何とか回避されたようで安心した」
そう言った彼の翠緑色の瞳が向けられた先にあるのは、石碑の前に横たえられた彼の剣。彼の言わんとする可能性に気付いた彼女は、ギクリと身体を強張らせ目を瞠る。そんな彼女を安心させるように微笑み、涙に濡れた頬を撫でて彼は言った。
「ここのことを聞いてからは、例の秘密基地から毎日通ってたんだ。誰かが来た痕跡を探しつつ、生きて自分の墓と対面っていうのは、正直変な気分だったけどな」
「そんな近くに、いたんだね……」
そう言って、彼女はルイスの胸に身体を預けるように抱きしめる。トクトクと鳴るのは、彼が生きている証の音だ。落ち着くどころか、やや速度を増すそれに耳を傾けながら、彼女はポツリと言った。
「ねぇ、ルイス」
「なんだ?」
「待ちぼうけさせた分、名前たくさん呼んで、今度こそ私の傍にいてくれる……?」
彼女のその言葉に、翠緑色の双眸が瞠目する。次いで、彼女の想いに答えるように、華奢な身体をしっかりと抱きしめ、彼は言った。
「リオンの傍にいる。リオンが望むなら、オレの命が尽きるその時までずっと」
いつかの誓いのように告げられた言葉に、止まっていた彼女の涙が再び溢れる。悲しみではなく、喜びと希望で溢れる涙が、彼の上着に滲んでいく。
ルイスの大きな手が、そっと彼女の背中を撫でる。そうして静かに時が過ぎ、涙が落ち着いた彼女は、僅かに身体を離し、彼の目を真っ直ぐ見上げて言った。
「生きててくれて、ありがとう。あと、お帰りなさい、ルイス」
満面の笑顔と共に告げられた言葉に、軽く目を瞠ったルイスだったが、涙を滲ませ微笑むと、彼女の額に自身の額を当てて言った。
「……ただいま、リオン」
二人の再会を祝うように、柔らかな風に運ばれ、桜の花びらが舞い散る。そんな中、再び逢えた喜びを噛みしめるように、リオンとルイスは涙と共に微笑み合ったのだった。
次で本編最終回となります。




