69.大地の巫女
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
ヴォラスの巫女との邂逅から、およそ半年ほど過ぎたある日。シンシンと雪が降る中、リオンは自室で大量の羊皮紙を広げ、それらを真剣な表情で読み込んでいた。
しばらくして、読んでいた最後の一枚から顔を上げると、彼女はソファーに寄りかかり、天井を見上げて呟いた。
「『責は全て自身にあり』、か……」
そう呟いた彼女に、ソーサーに乗せられたティーカップが差し出される。湯気と共に彼女の鼻腔をくすぐるのは、バラのような茶葉の香りとミルクの甘い香りだ。お礼と共にミルクティーを受け取ると、彼女はそれを一口飲む。程よいコクと渋みを伴った甘みと温もりに、ホッと息をついた彼女は、差し出してきた人物を見上げて問いかけた。
「団長さんはどうお考えですか? 神官長さま……いえ、元神官長であるモルガン卿の証言について」
問いかけられた騎士団長――グレンは顎に手を当て、思案顔で告げた。
「証拠が見つからない現状、法廷での宣誓どおり真実を告白していると信じる他、如何ともしがたいですね」
「私には、あの方が一連の事件を企てた、とはどうしても思えません……」
テーブルに広げられた羊皮紙を見つめる彼女の表情は険しい。彼女の視線を追うように、グレンもまた難しい顔で書類――法廷記録を見つめる。しばしの間、暖炉で燃える薪の音を除き、二人の間に沈黙が漂う。そんな中、リオンは別の羊皮紙を手に取り、再度問いかけた。
「資料はこれで全てですか?」
「お見せできる資料はこれで全てです」
「……そう」
彼の言葉の意味に、彼女は小さく息をつきつつも、頭を切り替えるように深呼吸をして言った。
「サンチェス卿の『モルガン卿は今回の件に無関係だ』という主張は棄却されたようですが、彼はどうなるのですか?」
「彼の場合、暗殺幇助と暗殺実行犯の殺害の罪に問われていますが。十五歳という年齢や彼の置かれた環境に関して情状酌量の余地あり、と判断されたと聞いています。ですので、懲役は免れないでしょうが、通常よりは軽く済む可能性が高いですね」
「そう、ですか」
彼の返答に、彼女は何とも言い難い表情で、羊皮紙に描かれた騎士の顔をなぞりながら言った。
「できれば、彼ともモルガン卿とも、直接会ってお話を聞きたいのですが、今回も会ってはくださらないのでしょうか……?」
「それは……、難しいかもしれませんね」
その言葉に、彼女の口から大きなため息が零れ落ちる。そして、曇った窓の外を見つめ、ポツリと言った。
「もう一つの件と合わせて、エマとリックがいい返事を持ち帰ってくれれば良いのですが……」
憂い顔でティーカップを傾ける彼女のソーサーに、グレンは懐から取り出したものをそっと置いた。紅白の金平糖に目を瞬かせた彼女が見上げれば、彼は穏やかに微笑む。そんな彼の気遣いを口に運びながら、彼女は言った。
「それにしても、団長さんまで巻き込む形になって申し訳ありません。まさかこんな大事になるとは思わなくて……」
「いいえ。テオが外出のため不在でしたし、私はこうして頼まれていた書類をお見せすることができましたから、お気になさらず」
グレンが微笑みかければ、リオンの顔にも笑みが浮かぶ。そうして、珍しい組み合わせの二人の時間は、ゆったりと過ぎていった。
***
ちょうどその頃、エマは神殿敷地内の端にある丸屋根の白い塔――通称、夕顔の塔と呼ばれる場所へやってきていた。リックが斜め後ろに寄りそい立つ中、彼女は緊張した面持ちで、やや固めのソファーに腰かけている。
「『月巫女に対し、月巫女の力に関する話をしないでほしい』ねぇ……」
気のない調子で口を開いたのは、エマの真正面に座る白髪の女性。ヴォラスの地の巫女を名乗る、セレーナ=デル=サルトだ。
「ならば、私を近づけなければいい話だと思うのだけれど。そうは思わない? 先見の巫女」
『バカバカしい』と言わんばかりの紅玉の瞳に、エマの両手が握り締められる。その様子にリックが後ろから肩を叩けば、彼女はハッとした様子で詰めていた息を吐く。そうして落ち着きを取り戻した彼女は、毅然とした態度で言った。
「私は先ほど名乗ったとおり、エマ=カラーナという名があります。そして、先見の力を知る者は一部を除いていませんので、名前、または月巫女の侍女でお願いします」
「わかったわ、カラーナ伯爵令嬢。これでいいかしら?」
肩を小さく竦めながらも、言い分に応じたセレーナに対し、琥珀の瞳が意外そうに瞠目する。口調こそ険があれど、相手に聞く耳があることを把握した彼女は、紅玉の瞳を真っ直ぐ見据えて言った。
「サルト伯爵令嬢の言い分は最もですし、私も同意です。しかし、私の主はあなたとの交流を強く望んでいます。だから、こうして私が名代を兼ねてここに来たのです」
「……公女で国王同等の地位を与えられた巫女、か……。全く厄介な子ね」
ぼそりと告げられた言葉に、エマとリックの纏う空気が、ややピリッとしたものに変わる。そんな彼らの変化に、セレーナはため息をついて言った。
「いいわ、その招待、受けてあげる。ついでにあなた達の言うこともね」
返ってきた快諾に対し、二人が驚きを隠せないまま目を見開く。そんな彼らの反応など気にした素振りもなく、彼女は淡々と続けた。
「ただし。私個人ではなく、地の巫女として答える必要があると判断した場合、その要求は聞き入れられないわ」
やや不明瞭な宣言に、エマはリックと顔を見合わせる。彼もまた真意を掴めていないことを把握した彼女は、眉を寄せて問いかけた。
「それは月巫女が敵だから、ですか?」
「そんな感情論の話じゃないわ。あなたの力の発動条件が基本的には夢であるように、地の巫女は力に由来する言葉を発する際、真実を告げることが条件なのよ」
そう告げた彼女に対し、疑わしげな二対の眼差しが探るように見つめる。
「もし嘘をついたら?」
「大地神を穢すことになる。そして、かの神の力で生きている私の魂にもそれは影響する。実際、あなたは知ってるいるはずよ。夢以外で力を発動させれば、それに見合うだけの返りがあることを」
セレーナの言葉を聞いた二人の脳裏を過ったのは、エマが昏睡状態に陥った際の記憶だ。それとは別に、リックの脳裏を彼女と初遭遇した際の記憶が過る。
――現実から目を背けさせることが、本当にその子と月神のためになるかどうかは、よく考えることね。
知り得ないはずの情報を有する彼女に対し、彼の目に警戒の色が浮かぶ。そんな中、やや逡巡した後、エマは意を決した様子で口を開いた。
「何故それを……?」
「地の巫女の恩恵は、神の知識の継承と閲覧。大地神の知識は大きく二つに分類される。一つは文字通り天上の知識。もう一つは大地の記憶。つまりこの大陸で起きた全てよ」
彼女の言葉に、二人は息を呑む。そんな二人に彼女は続けた。
「だから、私は知ろうとさえすれば、大陸で起きた事象全てを知ることができる。最近だと、そう……例の戦いで夢以外の先見を発動したことで半日目が覚めなかったのね」
一瞬だけ、瞳の色が紅から黒へと転じる。リックがその変化を見るのは、彼女が彼を『月神の使者』と呼んで以来二度目だ。それに対し、初めてそれに遭遇したエマは、目を白黒させながら問いかけた。
「偽りを語れば、私に起きたそれと同様のことがあなたの身に起こる、と?」
「そういうこと。私の場合は、あなたと違って自分の意志で選べる分、眠るどころでは済まないわ。内容にもよるけれど、数日起き上がれない程度には寝込むでしょうね」
真実か偽りか。迷いながらも、二人は彼女の示した条件を受け入れ、交わした約束を胸に主の元へと帰ったのだった。
***
それから半月後。冬日和のその日、リオンはワインレッドのドレスを身に纏い、応接テーブル越しに座るセレーナに微笑んで言った。
「招待に応じてくれてありがとう、サルト伯爵令嬢」
「断って彼にもしものことがあったら困るもの」
『仕方なくだ』と暗に告げる彼女に、リオンの隣に控えるエマは小さく息をつき、彼女の背後に待機しているリックの口元が引き攣る。面と向かって告げられた当人はと言えば、困ったような笑みを浮かべた。
そんな彼女を訝しげに見つめ、セレーナは組んだ足を組み替えて言った。
「それで、この茶会に招いた目的は何かしら?」
彼女の問いかけに、瑠璃の双眸がキョトンとした様子で瞬く。
「エマから聞いていませんか?」
「交流を持ちたいとは聞いたけれど、そんなの建前でしょう? 私が聞きたいのは本題よ」
「それでしたら『話をしてあなたのことを知りたい』と思ったからです」
打てば響く返答に、紅玉が微かな驚きの色を浮かべ瞠目する。次いで、胡乱な目で部屋の主を見つめ、鼻で笑うように言った。
「まさか、冗談でしょう?」
「いいえ、本当です」
迷いなく告げられた言葉に、彼女の片眉がピクリと跳ねる。そうして、真意を探るように瑠璃色の瞳を見つめ、再度問いかけた。
「ならば問いを変えるわ。何故私を知りたいと思ったのかしら?」
「知らないからです」
そんなリオンの返答に、彼女の眉間に皺が寄る。しばし押し黙った後、彼女は深呼吸をして言った。
「私はヴォラスの毒や武器――あなたたちを苦しめる道具を考案した張本人よ? 憎いとは思わないの?」
腕を組んだ彼女が放った挑発的な笑みと言動に、瑠璃色の瞳が瞬く。やや思案顔で考え込んだ後、リオンは徐に、目の前のカトラリーナイフを手に取って言った。
「このナイフは食べ物を切るための道具であると同時に、切ろうと思えば人を傷付けることもできるものです」
「……そうね。それで?」
やや苛立たしげに先を促された彼女は、手に取ったナイフを片手に小首を傾げて真顔で言った。
「あなたは、このナイフでご自身の大切な人が傷付けられたら、創った人を憎むのですか?」
彼女の言葉に、その場にいた三対の瞳が虚を突かれたように見開かれる。そんな中、セレーナは呆れ顔を浮かべ、淡々と言った。
「罪は道具にあらず、とでも言いたいようだけれど。そんなの理想論でしかないし、詭弁だわ。毒も武器も、人を傷付ける道具でしかない」
「そう、かもしれません。ですが、私は何も知らないのです。あなたが何を思ってそれらを作ったのか。あなたの考えも好みも、何一つとして」
そこまで言って、やや視線を落とし気味だったリオンは、顔を上げ背筋を伸ばして言った。
「だから、話をして知るところから始めたいと、そう思ったの」
真っ直ぐな言葉に息を呑んだセレーナは、ややあって小さく息をつく。そうして、瑠璃を真っ直ぐ見つめ返し、彼女は静かに問いかけた。
「知ってどうするの?」
「それはわかりません。特別な力を持つ巫女には初めて会ったから、できれば友達になれたら、とは思うけど」
「初めて……?」
訝しむ紅玉がチラリと相手の隣に向けられる。その視線を追うようにリオンの視線も向けば、エマは苦笑いを浮かべ『何のことかわからない』とばかりに首を傾げた。そんな彼女に代わり、無言で首を左右に振って答えたのは、リオンの後ろに立つリックだ。
彼の声なき返事を察した彼女は、キョトンとした様子で自身を見つめるリオンに対し、すまし顔で言った。
「いえ、何でもないわ」
彼女の返答に不思議そうな顔を見せていたリオンだったが、気持ちを切り替えた様子で首を傾げて問いかけた。
「とりあえず、納得していただけた?」
「……正直信じがたいけれど、一応は」
「よかった。なら、改めてよろしくお願いしますね、サルト伯爵令嬢」
そう言って、リオンは笑顔と共に右手を差し出す。その手を無言でしばし見つめるも、引っ込む気配がないことを察したセレーナは、ため息をつきながら握り返した。
彼女との握手に満足げに笑みを深めたリオンは、お茶を勧めながら両手を合わせて言った。
「じゃあ、早速提案なのだけど。仰々しいのはあまり好きじゃないから、崩してもいいかしら?」
「……既にさっき崩れていた気がしないでもないけれど、お好きにどうぞ。私は亡命者と言えど、この国にとってはただの敵国の人間で咎人。衣食住どれを取っても、本来は気を遣う必要なんてないのだし」
斜に構えた様子で、セレーナは銀カップに口をつける。そんな彼女の自虐的とも取れる言葉を意に介した様子もなく、リオンは言った。
「よかった。じゃあ、セレーナって呼ばせてもらうね」
「……は?」
親しげな響きで呼ばれた名に、セレーナの動きが止まる。ティーカップを持ったまま、唖然とした様子で見つめる彼女に、瑠璃が瞬く。そして何をどう解釈したのか、彼女は顎に手を当てて言った。
「あ、でも愛称はサラだっけ? そっちの方がいい?」
「……待って。あなた砕けるにも程があるのではない? というか、あなたたち、主を止めなくていいわけ?」
片方の手で制止をかけ、もう片方の手でこめかみを抑えた彼女の瞳が、従者たちへ向けられる。だが、琥珀と青碧玉の双眸は逃げるように逸らされ、視線は噛み合わない。『止めなさいよ』と言わんばかりの視線に、エマが遠い目をして気まずげに言った。
「これが月巫女さまの素なんです」
「素でも看過できることとできないことがあると思うのだけど!?」
思わずと言った体で、それまで落ち着いた姿勢を崩さなかったセレーナの語調が乱れる。だが、そんな彼女の姿に、むしろリオンは嬉しそうに笑いながら言った。
「まぁまぁ、セレーナ。お菓子でも食べて落ち着いて? あ、甘い物は好き?」
「私、待ってと言ったわよね……?」
「え、だから待ったよね? それに『お好きにどうぞ』って言ったのはセレーナでしょ?」
あっけらかんと告げられた言葉に、セレーナの口元が引き攣る。ニコニコ笑みを浮かべる確信犯に対し、彼女は大きく嘆息して言った。
「あなた、少し強引が過ぎるんじゃないかしら」
「だってこうでもしないと、なかなか仲良くなれないでしょ。エマだって私を名前で呼んでくれるようになったのは去年……あれ?」
そこまで告げたところで、はたとリオンの言葉が急に途切れる。考え込む仕草を見せたあと、彼女は隣に控えるエマを見上げて言った。
「どうしてだっけ?」
「どうしてってそれは……忘れました」
一瞬息を呑んだものの、表面上は取り繕い、彼女はやや苦しい返答をする。そんな彼女に、リオンはじと目で不満げに言った。
「その顔は覚えてるでしょ。ていうか、エマが固いままだとセレーナも楽にできないから、今この場では敬語禁止」
「私は今、侍女としてこの場に同席しているので……」
「じゃあ、今だけは侍女じゃなくて、伯爵家の娘としてエマも参加して。二人じゃ食べきれないし、ね?」
両手を合わせて小首を傾げる彼女の言葉に、エマの視線がチラリとテーブルを向く。軽食にスコーン、繊細なデコレーションのスイーツで溢れ返る卓上のそれは、どう見繕っても女子二人で食べきれる量ではない。三人がかりでも食べきれるか怪しい量だった。
「テオ様を通して手配したと伺っていましたが、謀りましたね……?」
じろりと睨む琥珀に、リオンは悪びれた様子もなく笑顔を返す。そんな彼女の様子に、エマは小さく息をついて言った。
「全くもう。食べ物を粗末にする訳にもいかないし、手伝うわ」
そう告げると、エマは追加のカップを取りにその場を離れる。その一方でリオンはリックを振り返る。ジッと見上げてくる視線に浮かぶ嘆願の色に、彼は苦笑いを浮かべるばかりだ。
無言の応酬が続くも、折れる気配のない彼に、リオンは諦めたように小さく息をついてセレーナに向き直った。そんな彼女たち三人のやりとりを黙って観察していたセレーナは、やや呆気に取られた様子で言った。
「あなた……」
「リオン」
遮るように告げられた単語に、彼女の目がパチパチと瞬く。戸惑い気味の彼女に、リオンは柔らかな笑みを浮かべて続ける。
「できたらセレーナにも、名前で呼んでもらえたら嬉しいな」
期待の言葉とは裏腹に、緊張の色が浮かぶその瞳を見て、セレーナはポツリと小さく呟いた。
「性悪というよりかは、世間知らずの子供、ってところか……」
「え?」
「こっちの話よ、気にしないで」
言葉を聞き取ったのだろう、碧眼が僅かに鋭く細められる。だが、リオンは聞き取れなかったのか、首を傾げるばかりで追求はない。そんな彼女にセレーナは言った。
「リオンがそう言うのなら、付き合ってやろうじゃない。彼に会うのと生ぬるい尋問以外、正直暇を持て余してるし。何より私も月巫女がどういう人間なのか、俄然興味が湧いたもの」
言葉と共に彼女が浮かべた勝ち気な笑みに、リオンは一瞬呆気に取られるも、ホッとした様子で微笑み頷いたのだった。




