54.道化と巫女
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまってすみません」
そう告げたのは、グレンの胸をそっと押し戻したエマだ。ぐいっと乱暴に涙を拭う彼女に、彼は首を左右に振る。
「いいえ。落ち着かれましたか?」
彼の問いかけに返ってきたのは、力強い首肯。彼女は泣き腫らした目をふわりと細め、微笑んで言った。
「グレン様。助けに来てくれて、ありがとうございました」
告げられた感謝の言葉を、彼は柔らかな微笑みで受け止めた。
そうして、エマが落ち着いたことを確認した彼は、改めて彼女の足下のそれを見た。錠がついた皮の拘束具が鎖で繋ぐのは、彼女の左足首とベッドの脚だ。そこから目線を横に動かせば、少し離れた場所に翡翠の短剣が転がっていた。
それを拾い上げながら、彼は言った。
「この短剣が必要になるような事態はないだろうと、そう思っていたんですがね……」
「武器をお願いしたとき、すごく渋られてましたもんね」
「巫女に持たせるものではありませんので。だが今日ばかりは、お守り代わりにお渡ししておいてよかったと、心底思いましたよ」
苦笑を浮かべるエマの元に戻れば、彼はその短剣で拘束具を慎重に切っていく。そうして、拘束具の一部ごと錠を外せば、ようやく彼女の足は自由を取り戻した。
短剣が彼女の足を傷付けることはなかったものの、抵抗した際に擦れたのだろう。彼女の足首は赤く擦りむけていた。それを痛ましげに見つめたあと、彼は短剣を彼女に返す。
手元に返ってきた短剣をじっと見つめたあと、彼女はグレンから右半身を隠すようにして、ドレスの裾を捲る。太もものホルスターへ短剣を戻す彼女に、グレンは慌てて目を反らしながら問いかけた。
「何があったのか、話せますか?」
エマは彼に向き直りながら、グレンとリックが出立した後にあった話を順追って語った。医務室でのこと、そして、拘束されて拷問されかけたこと。
微かに赤い彼女の左頬を労るように撫で、彼はやるせなさげな表情を浮かべて言った。
「本当によくご無事で……」
「太陽神が助けてくれたんです」
「太陽神が?」
彼女の言葉に深紅の瞳が瞬く。そんな彼に彼女は一つ頷いて言った。
「太陽神が私の身体を通して力をお示しになられたんです。たぶん、あれが副神官長様の言う神降ろしだったんじゃないかと」
「そう、ですか……」
そう呟くと、グレンは内心で太陽神へ感謝の祈りを捧げる。対するエマは、女神の告げた預言には触れず、意識を失ったこと、目が覚めたところで先の戦いに至った経緯を語った。そうして、語り終えたところで、今度は彼女が問いかけた。
「グレン様は何故ここに?」
「ハリーや医官たちが方々探して見つからない。そんな中で残るのは、出入りに制限がかかる高位神職者の部屋がある居住区。先代の先見の巫女さまの療養所だった、この太陽の宮もその一つだった。それだけですよ」
苦笑いを深めながら、グレンは続けた。
「ここにいる場合、先見の能力が露呈している可能性が高い。だからこそ、私の予測は外れていてほしいと願っていましたが、そう都合良くは行かないようですね」
彼の言葉に、彼女の琥珀の瞳が申し訳なさげに彷徨う。そんな彼女の頭をそっと撫で、真っ直ぐその目を見つめると、彼は真顔で言った。
「エマ嬢。病み上がりのところ申し訳ないが、私と一緒に来てほしい」
「どちらにですか?」
「これから私が戻る月巫女さまの捜索に、です」
告げられた内容に、エマの目が大きく見開かれる。戸惑う彼女に、彼は至極当然のように言った。
「変わった未来は、すぐには安定しないのでしょう? 先見とわかった上で襲ってきたのならば、ここに置いては行けません」
きっぱりと言い切った彼に対し、彼女はしばし考え込む素振りを見せる。そうして、意を決した様子でグレンを見上げると、その口を開いた。
「あの、グレン様。お伺いしても……?」
「何でしょう?」
「月巫女さまとルイス様が神殿を出た目的はなんですか?」
彼女が問いかけたのは、出立前に彼が敢えて伏せたことだ。その問いに、グレンは僅かに逡巡した後に言った。
「二人が外へ向かったのは、敵の標的を神殿から逸らすため。端的に言えば囮です」
息を呑んだ琥珀の双眸が、次いで非難と不安の色を滲ませて彼を見つめる。そんな彼女に、彼は淡々と続けた。
「神殿にいれば、行動範囲や身に付ける衣装で彼女は即座に敵に補足されるでしょう。だが、旅人を装って国内を動けば、そう簡単に彼女を見つけることは困難です。何より、彼女が外に行くことで、他の人間が危険に晒されずに済む可能性がありましたから」
「……まさか、月巫女さまは私や他の神殿の人のために……?」
戸惑いの色を浮かべて問いかけた彼女に、グレンは首肯する。そして、彼女の背後――部屋の奥へと視線を送ったあと、彼は言った。
「それと、もう一つ。リックに聖典の原本を解読する時間を与えるためでもありました」
「手に入ったんですね」
「ええ。三人のおかげで月巫女の力が二十歳になると例外なく失われることや、本来の力を発揮するとその命を削ることなどは解読できました」
グレンの告げた言葉に、エマの脳裏を女神の告げた言葉が過る。
――我らが恩恵を授けなければ、ただ死ぬだけだった無垢な命。そして、恩恵の副産物に得たのがそれぞれの力だ。
無言でギュッと両手を握りしめる彼女に、彼は難しい顔を浮かべて続ける。
「だが、それでも彼らの意図は読めませんでした。だから、餌をまくことにしたのですよ」
「餌、ですか?」
「私たちが見つけたいのは、彼らがヴォラスと通じている確かな証拠です。グレッグはまだ病み上がり。神官長も床に伏せている。その状況下、私が不在ともなれば、彼自身が動くはずですから」
首を傾げて聞いていた彼女の目が、彼の言葉に対して瞠目する。そんな彼女にグレンは泰然と続けた。
「実際、昨夜遅く、副神官長は急遽巡礼に出ると言って神殿を発ったそうです」
「グレン様はすれ違わなかったんですか……?」
「主要な街道を避けて戻ってきたので、すれ違いはしてないですね。だが合流を図るのならば必ず通るであろう町に、騎士を何人か潜ませてありますから、確認を取ることは可能でしょう」
そう言って、彼は再度、彼女の背後を見る。だが、微かに訝しげな様子を見せるに留めた彼は、彼女に視線を戻し、何もなかったかのように告げた。
「そして、この襲撃状況を鑑みるに、奴らの狙いは神の愛し子です」
「私がここに留まれば、月巫女さまのしたことが無駄になってしまう、ということですか?」
「単刀直入に言えばそうなります」
断言された内容にエマはしばし考え込む素振りを見せる。ややあって、彼女が口を開きかけた、そのときだった。
「団長殿、なぜ貴殿がここに? それにこれは一体……?」
二人しかいないはずのその場所に、戸惑いの色を露わにした嗄れ声が響く。二人もよく知るその声に、グレンは剣呑な光をその目に宿し、振り返りながら言った。
「神官長殿、それはあなたの方がよくご存知なのでは?」
普段の穏やかさとはかけ離れ、殺気にも似た怒りを露わにしている緋の眼差しに、白髪の老神官――クリフ=モルガンは硬直する。だが、その黒檀色の瞳に浮かぶのは当惑。そんな彼にグレンは苛立たしげに目を細め、口を開こうとした。しかし、彼の腕を掴んだ手によって、それは遮られた。
「グレン様、待ってください。神官長さまは違います」
迷いなく告げられた言葉に、虚を突かれた様子で彼はエマを振り返る。そんな彼に彼女は一つ頷くと、一歩進み出て言った。
「神官長さま。何故こちらへいらしたのか、お教えいただけませんか?」
「それは……」
「大切なことなんです。あなたは私が先見だとご存知なのですよね?」
言い淀む神官長に彼女は、真顔で告げる。その言葉に、柘榴石と黒曜石、二つの双眸が驚きに見開かれる。僅かに沈黙が降りた後、静かに口を開いたのはクリフだった。
「視たのか」
「はい。実際は様々違い、あなたが来る前にグレン様が来てくださいましたが……」
エマの返事を受けた彼は、厳しい視線を送り続けている騎士団長をちらりと見やる。そうして、小さく息を吐き出せば、重い口を開いた。
「先代の先見に頼まれていたのだ。次代の先見は自由にさせてほしい、この座に縛り付けないでほしいと。もし姿を眩ませたときは、探し守ってやってほしいと……」
「まさか、彼女が先見だと最初から……?」
困惑した様子でグレンが問いかければ、クリフはその目を真っ直ぐ見返し頷き返す。
「月巫女さまに仕えるためにやってくる娘がそうだと、聞いていたからな」
「けれど、それは副神官長さまにはお伝えにはならなかった」
「この話は私だけの胸に留めるようにと、それが先代との約束だった。だが、何故それを?」
「私を攫ったのは、先見だと知った副神官長さまなんです」
彼女の言葉に彼は黒の眼を大きく見開き、言葉を失った。そんな彼の反応に対し、グレンが重ねて告げる。
「そして今、彼は月巫女さまにも害を成そうとしている疑いがあります」
「そんなバカな! 何を根拠に……。証拠は、証拠はあるのか!?」
クリフは激昂して声を荒げる。だが、それとは正反対に、先刻まで怒りを露わにしていたグレンは、抑揚のない口調で言った。
「証拠はまだありません。それをこれから得に行くところです」
確信が色濃く滲む彼の言葉に対し、神官長は狼狽えた様子で額を押さえ唸る。
「そのご様子だと、異変にはお気付きだったようですね」
「あり得ん。あり得んはずだ。月巫女さまを死なせないために、私もアルバートも動いていたのだ。それがまさかそんなこと……、する訳がない」
「ですが、エマ殿の話は事実です。私の到着があと少し遅ければ殺されていたでしょう。そして、祝祭前の月巫女さま襲撃の首謀者について、彼自身が言及するのを複数の人間が聞いています。ご本人も含め、です」
愕然とした様子で絶句した黒曜石の瞳に、偽る色は伺えない。ちらりと部屋の奥を見やった後、グレンはクリフを真っ直ぐ見据えて言った。
「私は騎士団長として、先日の襲撃も含め事の次第を明らかにし、場合によっては彼を止める義務があります。そして、エマ殿の秘密を知る一人として、彼女を守る義務も」
彼の言わんとする内容に気付いたのか、神官長はハッとした様子で、真紅の瞳を見上げる。
「私は彼女を連れ、このまま彼を追いたいと考えています。ご許可、いただけますね?」
「私からもお願いいたします。月巫女さまをお守りするためにも、副神官長さまを止めるためにも、行かせてください」
彼女の言葉に対し、彼は琥珀色の瞳を真っ直ぐ見つめる。迷いのないその目を見た彼は、小さく息を吐いて口を開いた。
「わかった、許可しよう。だが……」
「貴方をお連れすることはできません」
みなまで言う前に、有無を言わさぬ声音でグレンが告げたのは拒否の言葉。
「私であっても道中で二人を同時に守ることは非常に困難です。しかし、神殿の警護の人数をこれ以上割くこともできません。何より、ヴォラス兵の危害が及んでいないことを見るに、あなたは奴らの標的から外されている可能性が高い。ですので、念のため護衛はつけますが、こちらにてお待ち下さい」
クリフは意義を唱えようと口を開きかけたものの、確固たる意志を宿した緋の視線に、力なく俯いたのだった。
***
その数刻後のこと。グレンとエマ、二人の姿は細い街道沿いの川辺にあった。
白馬が水を飲み休息を取る中、傍に腰かけたグレンは水の入った革袋を、隣に座るエマに手渡しながら言った。
「身体は大丈夫ですか?」
その言葉と共に革袋を受け取った彼女の格好は、クリーム色のローブに太ももの部分がゆったりとした黒の乗馬パンツ。ローブから見え隠れする上半身はビスチェに包まれている。下ろしていた髪をシニヨンに結い上げた彼女は、微笑んで言った。
「久しぶりの乗馬で筋肉痛になりそうですけど、大丈夫です」
「ならよかった。辛くなったときは遠慮なく言ってください。くれぐれもご自身の体力を過信しないよう」
釘を刺すように告げられた彼の言葉に、エマの顔に苦笑が浮かぶ。
「私、もう自分の限界がわからない子どもじゃないですよ?」
「一人で頑張り過ぎる癖を直していただけたら、私も考えを改めましょう」
「す、すみません……」
穏やかな笑みとは裏腹に、全く笑っていない彼の目を見た彼女の口から、謝罪の言葉がこぼれ落ちる。申し訳なさげに視線を落とす彼女に、小さく息をつくと、彼は静かに言った。
「私を含め、もう少し周りを頼ることを覚えて貰えると嬉しいですね」
「……善処します」
「差し当たって確認ですが。まさかとは思いますが、この後に及んで戦闘行為に積極的に参加しよう、などとは考えていませんよね?」
「え」
ギクリと口元を引き攣らせた彼女に対し、グレンの端正な眉尻がピクリと跳ね上がる。
「あなたはつい数刻前のことをお忘れなんでしょうか?」
「数刻前のは、その……先見で視たものとはいろいろと違ってて、夢では足枷もなくて、服を斬られるとかもなかったので……」
頬に微かに怒筋を浮かべる彼に対し、エマは苦笑を浮かべて言った。そんな彼女の言に、彼は小さく息をついて言った。
「ならば尚のことです。先見も必ずしも正確ではない上に、先見がない場合は何があるかは誰にも予測はできません。ともなれば、あれが本来の力量差と考えるべきです」
ピシャリと告げられた厳しい現実に、彼女は僅かに唸りつつも食い下がる。
「でも、守ってもらうばかりでは副神官長さまを止められないです」
「彼を止めるのは私の役目です」
やや呆れを滲ませた様子で息をつく彼に、エマは緩く首を振って言った。
「グレン様の言う『止める』は、場合によっては殺すということですよね?」
「……そう、ですね」
「私はできれば、あの方を死なせずに止めたいんです」
真っ直ぐ告げられた言葉に、彼はしばし呆気に取られたように目を見開く。緩やかな風が通り過ぎれば、彼は一つ咳払いして言った。
「どれだけ難題なことを言っているか、自覚した上での考えですか?」
「わかっています。身一つ満足に守れない私が言うのは我が侭だとも承知しています。それでも説得が可能なら、言葉がまだ届くのなら……」
そう言って、両手を握りしめる彼女の脳裏を掠めるのは、彼女を襲ったヴォラス兵の言葉だ。
――狂いかけの爺を堕とすのに、お前はいい餌だったからな。
「何か理由があるのなら、彼がしてきたことも含めて知りたいんです」
そう言い切った彼女の言葉に、グレンは表情を変えずにじっと琥珀の双眸を見つめる。それを真正面から見つめ返して言った。
「グレン様が無理だと判断されたら従います。ですが、もし可能なら少しだけ私に機会をいただけませんか?」
しばし無言で見つめ合うも、彼女の瞳に宿る意志に揺らぎは見られない。それを見て、彼は嘆息して言った。
「いいでしょう」
「グレン様……!」
ぱあっと表情を明るくした彼女に、『ですが』と前置いてグレンは続ける。
「あくまでも可能だと判断した場合に限りです。月巫女さまとあなたに危害が及ぶと判断した場合、私は迷わず斬ります。それだけは譲りません」
真剣な表情で言い切った彼に、エマもまたしっかりと頷き返す。そんな彼女の返事に、グレンは微苦笑を浮かべたのだった。




