30.二つの顔
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
ルイスとリックが書類の処理に追われている頃。リオンは午前の務めを終え、グレッグと共に祈り場から神殿の奥へと向かっていた。ゆったりと歩く彼女の視線が向かう先にあるのは、廊下の窓の外に広がる景色。徐々に緑が混ざり始めたそれを、リオンは嬉しそうに笑みを浮かべながら、眺め歩いていた。
そうして、神殿のさらに奥、居住区画に繋がる通路の分かれ道に差し掛かったところで、リオンは不意にその足を止めた。彼女の右斜め後ろを歩いていたグレッグもワンテンポ遅れてそれに倣う。そして、通路の外側に広がる森の方を黙視するリオンの横顔を、彼は訝しげな様子で見つめた。そんな彼の方へ、くるりと身体ごと振り返れば、リオンは楽しげな笑みを浮かべて言った。
「グレッグ、食事の時間まで少し散歩をしませんか?」
「散歩、ですか?」
リオンの言葉に、グレッグは戸惑った様子で目を瞬かせた。そんな彼の紫玉を、リオンは真っ直ぐ見つめて続けた。
「だいぶ暖かくなってきたので、部屋に戻る前に少しだけ外を歩きたいんです」
「外を……」
「ええ。図書館裏の森辺りを歩きたいなと……。ダメ、ですか?」
微かに眉を寄せるグレッグの様子に、リオンは不安げに眉尻を下げて首を傾げた。そんな彼女の表情に、グレッグはハッとした様子で微かに瞠目したあと、人あたりの良い笑みを浮かべて言った。
「いいえ、とんでもありません。食事の時間まではあと半刻ほどございますので、その時間内であれば問題はないかと存じます」
「それじゃあ……」
「喜んでお供いたします」
「ありがとう、グレッグ」
グレッグの快諾を得ると、リオンは嬉しそうに破顔した。そんな彼女をグレッグはぎこちないながらもエスコートし、少々ぬかるむ地面に危なげなく降り立った。そうして、二人は目の前に広がる森へ、リオンを先頭に歩き出したのだった。
春が来たかのような温もりのある木漏れ日の中、リオンは鼻歌交じりに周囲を見回しながら進んで行く。その道筋は明確な目的を持ったものではない。興味を引かれたものを見つけてはあっちへふらふら、こっちへふらふら。彼女のそれは、実に自由気ままな足取りだった。
そんな彼女が特に関心を示したのは、咲き始めの花や、冬眠から目を覚ました森の住人達だった。白い花弁を開いて頭を垂れるスノードロップに、甘い香りを漂わせる黄色いミモザ。小道を囲む木々の枝には、元気よく駆け回る二匹のリスの姿もある。そうした春の足音を目の当たりにしたリオンは、楽しげに呟いた。
「もうすぐそこまで春が来てるんですね」
「そうですね。あと一月過ぎる頃には桜の花も咲き始めるかと」
グレッグがそう言って周囲の木々を見上げれば、穏やかな風が彼の少し長いサイドの髪を掬い上げた。すると、ほんのり桃色がかった半透明な石が、彼の左耳でふわりと揺れる。後ろを振り返った際に、それを偶然目にしたリオンは、物珍しげな様子でグレッグに近付いて言った。
「グレッグは左耳にイヤリングをつけてたんですね。今まで気付きませんでした」
「え? あっ……」
リオンの言葉にグレッグは、一瞬目を瞬かせた後、慌てた様子で髪ごと左耳を隠すように左手を当てた。が、そんな彼の行動に、今度はリオンが驚いた様子で目をしばたかせたあと、気まずそうに言った。
「もしかして、付けていること内緒でした?」
「あ、いえ……。私の石は紫水晶なので、そうではないこの石をつけていることをよく揶揄われるものでつい……」
「そうだったんですね。だけど、それでも身につけるくらい、それはグレッグにとって大事なものなのでしょう? なら、隠さず堂々となさってください」
そう言ってリオンが真っ直ぐ見つめれば、グレッグは僅かに逡巡したあと左手を下ろし、はにかむように笑みを浮かべた。そして、胡桃色の合間で輝くその石を再度見て、リオンは言った。
「綺麗な石ですね。これはなんていう石なんですか?」
「クンツァイトと言います。……死んだ姉の形見なんです」
「そう、だったんですね。ごめんなさい、辛いお話をさせてしまって……」
「いえ、死んだと言っても六年も前の話ですから、お気になさらないでください」
申し訳なさそうに視線を落としたリオンに、グレッグは苦笑いを浮かべてそう言った。しかし、そう言った彼の目の光は微かに揺れており、それを見たリオンは微かに視線を彷徨わせた。そんな彼女に、まるで何か語りかけるかのように視界に入ったのは、事の発端となったイヤリング。それを見たリオンは、ハッとした様子で顎に手を当てた。
「薄いピンク……。そうだ、グレッグ。桜が咲いたら、みんなでお花見しませんか?」
前振りもなく、唐突に告げられたそんな彼女の提案に、グレッグはキョトンとした様子で目を瞬かせた。そして僅かに間を置くと、両の掌を胸の前で合わせて微笑むリオンに、彼は躊躇いがちに言った。
「月巫女様、その……。失礼ですが、みんなでお花見、とは……?」
「エマとルイスにリック、そして貴方と私。この五人でお花見したいなと思ったんです」
「何故、とお伺いしても?」
「過去は変えられないけど。グレッグの新しい思い出を楽しいものにすることなら、私にもできるかなと思って」
そんなリオンの笑顔と言葉に、グレッグは目を微かに見開いた。そうして、しばし彼女を凝視したあと、申し訳なさそうに言った。
「僭越ながら申し上げます。お心遣いは大変ありがたいのですが、護衛騎士である私達三人が揃って、というのは少々難があるかと……」
「え……。半刻ほど一緒にお茶するのも難しいですか?」
グレッグの言葉に、リオンは意気消沈した様子で窺うように首を傾げた。そんな彼女の悲しげな顔を見たグレッグは、気まずげな様子で僅かに視線を逸らして言った。
「そのくらいでしたら、或いは可能……かもしれません」
「本当?!」
「最終的には隊長の判断次第になるかとは思いますが……」
「ルイスを説得すればいいんですね。それなら任せてください!」
躊躇いがちに返された言葉に、リオンは沈んだ顔を一転させ、得意げな様子で笑みを浮かべた。そして、両手をぐっと握りしめたまま前を向くと、彼女はぶつぶつと呟きながら再度歩き出した。しかし、グレッグは足を止めたまま、そんな彼女の背中に問いかけた。
「月巫女様は隊長のことを話されるとき、とても楽しそうでいらっしゃいますが、彼のことをどう思っておられるのですか?」
「え……?」
思考に没頭しかけていたリオンは、不意に投げかけられた言葉に目を瞬かせながら、足を止めて振り返った。そこには、真剣……と呼ぶには少々冷たい眼差しで彼女を見つめるグレッグの姿。そんな彼の様子に、リオンは微かに体を強張らせつつも、笑みを浮かべて言った。
「どう、とはどういう意味でしょうか?」
「不躾で申し訳ありませんが、隊長のことを好いていらっしゃるのかどうか、という意味です」
「好きかどうかという問いならば、好きですよ」
リオンの言葉にグレッグの目が微かに見開かれる。が、そんな彼の様子に気付きながらも、リオンは笑みを崩すことなく穏やかに続けた。
「エマやリックも好きです。三人とも私のために、心を砕いてくれているのに好きにならないはずがないでしょう?」
「いえ、私が言いたいのはそういうことではなく……」
「では、グレッグはどのような答えを求めているんですか?」
そう問いかければ、グレッグは視線を彷徨わせて言葉を詰まらせた。そんな彼に、リオンは苦笑しながら言った。
「私はまだグレッグのことをよく知りません。ですが、あなたはルイスやリックと同様にこうして守護してくださる騎士の一人です。だから、私は二人と同様にあなたのことも好きになりたいし、仲良くなりたいと思ってます」
「月巫女様……」
「グレッグは、どうですか?」
「身に余る光栄です」
そう言って、騎士の礼を取ったグレッグに、リオンはホッとしたような笑みを浮かべた。そうして、話を打ち切るように再び前を向くと、ゆっくりと歩き出した。やや遅れ、その背後でグレッグの足音が続くと、リオンはそっと息を吐き出し、胸に手を当てた。
その手には微かに汗が滲み、服越しに響く彼女の鼓動は全力疾走した直後のように早鐘を打っていた。そんな自身の緊張を物語る状態に、リオンは小さく深呼吸をすると、気合いを入れた様子で前を見据えたのだった。
そうして、小さな森の中をあてどなく歩き回った二人が、最終的に辿り着いたのは小さな広場。木々に遮られることなく、暖かな光が降り注ぐそこは、彼女が以前、ルイスとエマの姿を見た場所だった。
明るい広場の片隅にある鉄製のベンチにリオンが腰かければ、グレッグはそのすぐ隣へ控え立った。陽の光を浴びつつ、目を閉じた彼女が耳を澄ませば、聞こえてきたのは複数の鳥がさえずる声。そんな中、耳朶を打つ羽音に、リオンはふと空を見上げた。
リオンが見上げた先には、灰色の翼をはためかせ、気持ちよさそうに滑空する一羽のヤマガラの姿。リオンが笑みを浮かべ手を伸ばせば、ヤマガラは嬉しそうに一声鳴いて、彼女の手を目指して飛んできた。――否、飛んでこようとしていた。
そこへ、リオンの視界を遮るように紫紺のマントが翻る。それに戸惑う彼女が名を呼ぼうとした次の瞬間、鋭く光る剣が風を切るように振り下ろされた。やや遅れて彼女の耳に届いたのは、遮られた視界の向こうで何かが切られ、地面に落ちる音。それと共に、視界の端を舞う無数の灰色の羽に、リオンはその目を大きく見開き、言葉を失った。
そんな彼女を他所に、彼は何かを振り払うように剣を一振りすると、それを静かに納め、何事もなかったかのように元の位置へと戻った。それにより、遮られていたリオンの視界が開ける。が、傍に来ようとしていた小さな鳥の姿はなく、リオンは恐る恐る空へ向けていた視線を下へと移した。
そうして、彼女が見つけたのは切り裂かれ、ピクリと動きもしないヤマガラだったモノ。思わず彼女は震える手を伸ばしたが、その手が亡骸に触れることは叶わなかった。それは、大地に彼女のスカートの裾が触れる寸前、グレッグが彼女の腰に腕を回し止めたからに他ならなかった。
「触れないでください、月巫女様。御身と御召し物が穢れてしまいます」
耳元より少し高い位置から投げかけられた冷たい声と言葉に、リオンは俯いて問いかけた。
「グレッグ……。何故、この子を切ったのですか?」
「あなたを傷つけるかもしれないものを、近づけさせるわけには参りません」
「この鳥は人を傷つけたりするような子じゃないし、そんな理由でルイスやリックは切ったりしなかった!」
そう言って、リオンは涙を滲ませた瞳に怒りを色濃く映して、それをグレッグへと向けた。しかし、それに対して返ってきたのは、呆れを滲ませるだけの温もりのない視線と小さなため息。
「隊長やリック先輩のそれは、理由がどうあれ怠慢と呼ぶべきものです」
「怠慢なんかじゃ……!」
「怠慢でしょう。月神様からのお預かりしている御身を、あらゆる穢れから守護するのが我々の使命なのですから」
その言葉にリオンは抗議するように睨みつけた。しかし、グレッグはそれに構うことなく、彼女をしっかり立たせると、瑠璃色の瞳を真っ直ぐ見据えて言った。
「月巫女様。どうかご理解ください。あなたは月神様のモノだということを」
「え……?」
彼の言葉に、リオンが戸惑った様子で目を瞬かせるも、グレッグは意に介する素振りも見せずに、淡々と続けた。
「寵愛を受けているあなたが、月神様を裏切るような真似をすることは、到底許されるものではないと存じます。ですので、今後はお控え下さいますよう、どうぞよしなにお願いいたします」
「月神様を裏切るなんて、そんなこと私は……」
「でしたら、自ら穢れに触れるようなご行為はお控えください。あなたが御身を自ら穢すことは、月神様への裏切りに他なりませんので」
迷いなくそう言い切った彼の目に映る微かな昏い光に、リオンはギクリと身を強張らせた。そうして、グレッグが戻る時間を告げるまでの間、リオンは唖然とした様子で立ち尽くしたのだった。
***
その翌日。リオンは自室のソファーに腰かけ、天井をぼんやり見上げていた。用意されたお茶に手を付ける気配のない彼女に、リックは気遣わしげな様子で傍に立っていた。しかし、そうして四半刻が過ぎようかという頃。見るに見かねたのか、リックは静かに彼女に声をかけた。
「リオン、大丈夫?」
「え……? あ、うん、大丈夫」
心ここにあらずといった様子で生返事を返し、一瞬だけ振り返ったものの、再び天井を見つめる彼女に、リックは微かに眉を顰めた。が、不意に天井へと向けていた顔を戻すと、リオンは彼を真っ直ぐ見上げて言った。
「ねぇ、リック。今から少し付き合ってほしいことがあるんだけど、いい?」
「今日の公務は昼から夜にかけてだし、それは全然構わないけど……。改まってどうしたの? 何かあった?」
そう問われると、リオンは微かに視線を彷徨わせた後、昨日あった出来事について一部始終を語った。それが終われば、リックは頬を掻きながら言った。
「あー……なるほど。それでグレッグの報告があれだったのか……」
「何かあったの?」
「怠慢過ぎじゃないですかって、説教っぽい要望を少し、ね。ルイスにも初日に噛みついてたようだから、昔のルイス並に気難しそうだなと思ってはいたんだけど。これはちょっと予想を遙かに上回ってるかもなぁ」
そう言って苦笑したリックに、リオンは申し訳なさそうに視線を下げた。が、そんな彼女に、リックはいつもどおりの笑みを浮かべて言った。
「リオンは気にしなくても大丈夫。こっちは何とかするから。で、付き合ってほしいことって?」
「昨日のその子、あのあと何もしてあげられなかったから、できたら埋めてあげたいの」
「なるほどね。了解、付き合うよ」
彼女の希望にリックが即二つ返事で返せば、リオンはホッとしたように泣きそうな顔で微笑んだ。そして、小さなスコップを片手に持ったリックを伴って、リオンは森の広場へと向かったのだった。
昨日とは違い、夜に降りた霜が溶けていないのか、二人の行く地面は歩を進める毎にサクサクとした足音が響く。リオンが冷えた空気に耐えかね、両手に息を吐きかける頃、ようやく目的地である広場が二人の視界に入る。そして、件のベンチに近付くと、辺りを見回しながらリックは言った。
「で、着いたけど、その問題の鳥はどの辺?」
「そのベンチの前……って、あれ、いない……?」
鳥が居たはずの場所には、微かに血の滲んだ跡以外は何もなく、リオンは戸惑った様子で辺りを見回した。そんな彼女の隣で、注意深く辺りを見回していたリックは、不意にベンチ裏の植え込みに近付くと、しゃがみ込んで言った。
「ねぇ、リオン。昨日はここにこんなのあった?」
「え?」
リックの言葉に、リオンが彼の傍にやってきて覗き込むと、そこには不自然に盛られた土と、どこにでもあるような丸い石。そして、その手前には手折られたスノードロップ。それらを見た彼女は目を瞬かせて言った。
「ううん、たぶんなかった。……と思う」
そんなリオンの言葉を受けたリックは、石を横にずらすと、手持ちのスコップでサクサクと音を立てながら、慎重に掘り始めた。そうして、掌がすっぽりと入る程度掘り進めると、姿を現したのはリオンが探していたもの。静かに眠るそれを見た彼女は悲しげに、しかしホッとした様子で微笑んで言った。
「誰かが埋葬してくれてたんだね」
「基本神官や巫女は穢れに触れたがらないみたいだから、考えられるとしたら騎士だけど……」
リックは土と墓標代わりの石を元に戻しつつ、周囲の地面に残る足跡を観察して言った。
「もしかしたら、グレッグが埋めたのかもしれないね」
「え……?」
彼の言葉にリオンは目を見開いて、リックをまじまじと見つめた。すると、そんな彼女の視線を受けた彼は、地面に残る足跡を指さし言った。
「埋められてる場所にはしっかり霜が降りてた。ってことは、埋められたのは昨日の夜より前のはずなんだ。だから、リオンがここを離れたあとに埋めた人の足跡も当然あるはずなんだけど。固まった地面に残ってる足跡は二つだけなんだよね」
「……私とグレッグ以外、昨日から今までここに誰も来てないってこと?」
「恐らくね」
「……この子を切ったのはグレッグ自身なのに?」
「そこは本人以外に説明できないけど、状況を見る限りはそれ以外ないと思うよ」
そう言い切ったリックに、リオンは信じられないと言わんばかりに戸惑った様子で、小さな墓標を見つめた。しばらくそうしたあと、彼女はポツリと言った。
「ねぇ、リック……。私、グレッグと上手くやっていけるのかな?」
「うーん、どうだろうね。リオンはどうしたいの?」
「私はグレッグとも仲良くなりたい。だけど、優しく笑うグレッグと、すごく冷たいグレッグ、どっちが本当のグレッグなのかわからないから、どうしたらいいのかよくわからないの」
そう言って、ギュッと両手を握りしめて俯いたリオンに、リックは立ち上がると彼女の頭をポンポンと撫でて言った。
「リオンはリオンの思うまま、グレッグにぶつかってみたらいいんじゃないかな」
「私の思うまま、ぶつかる……?」
「そ。さすがにルイスやオレのときのようなやり方は勧められないし、月巫女の仮面は被っててほしいけど。でも、オレたちだけがリオンの周囲にいる全てじゃないからさ。オレたち以外の人との付き合い方を模索してみたらいいと思うんだ」
そんなリックの言葉に、リオンは僅かに考え込むと、やや不安の色は残っているものの、『頑張ってみる』と大きく頷き、その日やっと初めての笑顔を浮かべたのだった。




