令嬢、母に叱られる
医務室に強制移動させられたテレーゼはその後、こんこんと眠った。
「テレーゼ様、失礼します」
「……んー……このバスタブは、純金製なのぉ……」
「左様でございますか。それはいいとして、そろそろお目覚めになってはどうでしょうか」
「んう?」
寝起きだから、変な声を上げてしまった。
聞いたことのない男性の声を耳にし、純金製のバスタブを一生懸命磨く夢を見ていたテレーゼは緩やかに覚醒した。
(……あら?)
顔を横に向けると、窓の外がほんのり薄暗いことに気付く。
「……朝? メイベル、メイベルはどこ……?」
「侍女殿は別室にいらっしゃいます。そして今は夕方ですよ」
「夕方……?」
毎朝起こしてくれるはずのメイベルを求めてベッドの上を這いずり回っていたテレーゼは、男性の声に今度こそはっきり目を覚ました。
そして驚きのあまりバランスを崩し、尻から派手に転げ落ちる。
尾てい骨が痛かった。
「ゆ、夕方!? どうしよう、今日のお仕事……!」
「大丈夫ですよ。女官長様からも、しばらくの間はゆっくり体を休めるよう指示が出ております」
床に転がったまま嘆くテレーゼを優しく説き伏せたのは、白衣を纏った高齢の男性。胸のバッジから、城仕えの医師であることが分かった。
彼はテレーゼを支えてベッドに座らせると、テレーゼと視線を合わせるようにしゃがんだ。
「お休み中に診断しましたが、軽い疲労ですね。昨晩から半日以上眠られていたので、ここ最近仕事などで気を張られていたのではないでしょうか」
「そ、そうかもしれません……あっ」
ンゴゴゴゴゴ……と、どこからともなく地響きのような音が鳴り、テレーゼは閉口する。
「……どこかで地鳴りがしているようですね」
「この老いぼれの耳が正しければ、あなたの腹部から聞こえたかと」
「お、おっしゃるとおりです。あの、お腹が空いたので何か食べるものと……あと、お手洗いにも行っていいでしょうか」
「もちろんです。介助が必要な場合は部下にさせます。……いろいろ事情はあるようですが、まずは心身の健康を整えなければなりませんな」
その後、テレーゼは女性助手たちの手を借りながら身だしなみを整え、軽食も摂った。
半日以上何も食べていなかったからか、食事を前にすると先ほどの比ではないくらい盛大に腹が鳴り、「これは過去最高レベルかもしれません……」と助手の一人に呟かれた。
医務室の食事は基本的に薄味で肉より野菜が多いが、過去十八年間もやしのフルコースに舌鼓を打っていたテレーゼにとっては十分なご馳走だった。大公妃候補、女官見習とおいしい食事にありつける日々を送ってきてはいるものの、リィナと同様に、テレーゼの舌は庶民の味を懐かしんでいるようである。
(……ああ、そうだ)
「あの……昨夜の式典はどうなったのですか?」
食後のお茶で体をほかほか温めながら問うと、助手の一人が顔を上げた。
「婚約記念式典ですか? おおむね成功で、お客様方からもありがたいお言葉をたくさんいただけたとしか伺っておりませんが……」
「そうなのですね。ありがとうございます」
さすがに医務室担当の助手にまでは会がどうなったのか、子細までは伝わっていないだろう。だが、無事に終えられたのならば一安心だ。
その後、腹ごなしをして気持ちも落ち着いた頃、医務室に両親がやってきた。
「テレーゼ! あなたがフィリット子爵家の問題に巻き込まれたと聞いて、わたくしたちは肝を冷やしていたのですよ!」
開口一番、母が険しい顔で声を上げる。
昨日のような豪奢な服から一転、地味なドレス姿の母はその年にしては若く見える顔を怒りに染めてテレーゼを叱り飛ばした。
「半年前のように否応なしに巻き込まれたならばともかく……あなたはお友だちに、様子を見るだけって言っていたのですよね?」
「は、はい」
「それなのに、子爵とコーデリア様の間に割って入ったそうですね?」
「そ、そうです。でも、無事でした」
「何を言っているのですか!? あなたがリィナ様の姉だということに途中で気付かれたからあなたが大怪我をせずに済んだのですが……偶然を当然のように言うのではありません!」
「申し訳ありません。以後気を付けます」
リズベスの言うとおり、コーデリアを助けたいという思いで飛び出したのはいいものの、場合によってはテレーゼまで一緒くたに袋だたきにされていた可能性だって十分にあった。
古いことわざに「獣、捕らわれし仲間を救わんとして人に食わる」というものがある。何かしようとしたら自分も同じような目に遭う、という意味だが、まさにテレーゼが陥るかもしれなかった状況である。
テレーゼがずーんと項垂れていると、妻と娘のやり取りを黙って見ていた父がおもむろに口を開いた。
「そこまでにしなさい。テレーゼも反省しているようだ」
「しかし、あなた――!」
「テレーゼももうすぐ十九歳になる。自分のことには自分で責任を取らなくてはならない年だろうし、それを覚悟の上で仕事を始めたはずだ。いつまでも口うるさく叱っていては、テレーゼのためにもならない」
「それは、そうですが……」
「しかしだね、テレーゼ。お母様の言うとおりなんだ」
母をやんわりとなだめた父はテレーゼを見、ほんの少し悲しそうな顔になった。
「今回は偶然早く騎士団が駆けつけられたが、もしかすると怪我をしていたかもしれないし、他の家の問題にさらに深く関与していたかもしれない。……先輩を助けようとする勇気は、私たちの誇りだ。でも、テレーゼが危険なことをすると心配する者たちもいるのだと……それだけは分かっておいてくれ」
「……はい。軽率な行動をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「分かってくれたのならいいのだよ。……なんだかんだ言ってお母様も、テレーゼが無茶をしたのは先輩を守るためだと聞いたときには『あの子らしい』『無茶だけど優しい子』と言っていたのだからね」
「あ、あなた! それは内緒にと!」
「おお、すまない。口が滑ってしまったようだ」
おやおや、と芝居がかった仕草で自分の口元を抑える父と、顔を赤らめて夫の背中を叩く母。
そんな両親の姿を見ていると、少しずつテレーゼの心も落ち着いてきた。
「……ふふ。あの、お父様、お母様。どうかこれからもご指導、よろしくお願いします」
「テレーゼ……?」
「お父様のおっしゃるようにわたくしはもういい年ですが……それでも、お父様とお母様から学ぶべきことはたくさんありますし、お二人の叱咤を必要とするときがあると思います。どうかこれからも、お願いいたします」
改まった気持ちでそう言って頭を下げると、とたん、父はうっとうめいて口元に手をあてがった。
「テレーゼが……ああ、こんなに立派なことを言うなんて……!」
「あなたったら、しゃきっとしてください!」
母が気付けのつもりで父の背中をばしばし叩いているが、とうとう父は目頭を押さえてくすんと泣き始めた。
(……お父様、お母様。心配をおかけしてごめんなさい)
悲しいかな、十分に気を付けるつもりではあるが、これから先も両親を心配させ続ける自信だけはある。
そのときは、今日のようにテレーゼを叱咤し、背中を押してほしい。
そうすればきっと、テレーゼはもっともっと前に進めるはずだから。
昼頃、テレーゼのもとに女性官僚がやってきた。
かつてのリィナとおそろいの紺色の服をしげしげと見ていると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「……わたくし、かつてリィナ・ベルチェの上司を務めていた者でございます。昨夜の件につきまして先ほどの会議で話がまとまりましたので、テレーゼ様にご報告するべく参りました。お体の調子がよろしければお話ししますし、もし日を改めた方がよろしければご都合のよろしいときに再度参ります」
「そうなのですか、お疲れ様です。しっかり寝たので元気ですから、このままお願いします」
「かしこまりました」
女性官僚はサイドテーブルを引き寄せると鞄からいくつかの書類を出し、ベッドに座るテレーゼにもよく見えるよう広げて見せてくれた。
「フィリット子爵ならびにコーデリア・フィリット嬢に関してですが……」
そうして女性官僚が落ち着いた声音で説明してくれたことによると。
昨夜、テレーゼがベルエト将軍の娘を助けたことで、親ばかな将軍は大声でテレーゼのことを褒めちぎったそうだ。その話し声は、大公とは離れた場所に座っていたリィナや彼女の側にいたコーデリアのもとにまで届くほどだったという。将軍の爆音、凄まじい。
リィナの近くにいた者は「さすがリィナ様の姉君」「姉君の機転はすばらしいですね」と、本心なのかごまを擦るためなのかは分からないがテレーゼを褒めたという。
そうしているうちにコーデリアが貴婦人に意見を求められたそうだが、彼女はあろうことか「所詮貧乏侯爵家ですけれどね」と口を滑らせてしまったそうだ。
(……ああ、そんなことが)
官僚から話を聞いたテレーゼは、額に手を宛てがった。
父親から圧力を掛けられていたコーデリアは、女官の中でもっともリィナに近しいテレーゼを嫌っていた。そんなテレーゼが褒めちぎられたことで怒りや焦りの感情が湧き――リトハルト家がリィナの養子先であることを失念し、「貧乏侯爵家」と詰ってしまったのだろう。
コーデリアがとんでもない失言をかましてしまったため、一瞬その場は凍り付いた。だがすぐにリィナが「貧しいけれど、とてもお優しい方ばかりなのです」とフォローに回ってくれたので貴婦人たちも納得してくれたという。
そしてリィナはコーデリアをその場から下がらせた――のだが。
「会場で騒ぎを聞いていたらしいフィリット子爵が廊下に出たコーデリア嬢を捕まえ、人目のない場所で叱りつけていたということです」
「……そこに私が入っていったのね」
「はい。……取り調べの結果、子爵による実の娘への虐待が認められました。またほぼ同時に子爵が違法海外輸出業者と手を組んでいたことも明らかになり、子爵の爵位剥奪、弟君への子爵位譲渡が命ぜられました」
「剥奪……えっ、それじゃあコーデリア様は――」
テレーゼが少し身を乗り出すと、官僚は書類の一つを示す。そこには、「コーデリア・フィリットの処遇」という見出しがあった。
「……お父上である子爵が爵位剥奪処分ですので、コーデリア嬢も本来ならばフィリットの家名を失い貴族界から離れることになります。コーデリア嬢にはリィナ様の養子先であるリトハルト侯爵家を侮辱する発言をした咎があります。しかし、それも全ては父親である子爵の圧力によるものだろいうということで、大幅な減給処分で済む予定です。また、今度フィリット子爵に就任する叔父が、コーデリア嬢を養女に迎える旨を提案されています。案が通ったならば、コーデリア嬢は叔父である次期子爵の養女として復帰することになるでしょう」
「……そうですか。分かりました」
その後、テレーゼは書類の最後に「内容を確認しました」の旨を表すサインをし、官僚を見送った。
(……そっか。確かにコーデリア様は被害者だものね)
テレーゼにだけ特化して厳しかったが、女官としての姿勢は尊敬するべきものがあった。昨夜の式典で行ったドレスのシミ抜きだって、以前コーデリアがリィナのために花を摘んだことを真似して、仕事用のウエストポーチにいろいろなものを入れるようにしてみたからできたことなのだ。
コーデリアがテレーゼに厳しい理由も分かった。だからといって理不尽にテレーゼばかり攻撃したのは褒められることではないだろうが、子爵が暴力と脅迫で訴えるようにコーデリアを教育していなければよかった話だ。
(復帰したら、コーデリア様ともお話をしないとね)
きっと今なら、ちゃんとお互いの目を見て話ができるはずだ。
……そう思ったのだが。
「獣、捕らわれし仲間を救わんとして人に食わる」≒ミイラ取りがミイラになる
「鼈人を食わんとして却って人に食わる」という言葉もあるそうです




