令嬢、修羅場に突っ込む
巨躯を持つ男性に全力ハグされたテレーゼが呼吸困難により天に召される前に救出してくれたのは、通りがかった大公だった。
「これはこれは、ベルエト将軍。うちの女官をハグして、どうかなさったのか」
「レオンか! 聞いてくれ、レディ・テレーゼが娘を助けてくれたそうでな!」
ようやっとテレーゼを解放して床に下ろしてくれた男性はあろうことか大公のことを呼び捨てし、大きな手のひらでバシンと大公の背中を叩いた。ワインボトルのような腕で叩かれ、細身の大公はほんの少し笑顔を引きつらせてたたらを踏む。
「そなたの婚約者も美しいが、その姉君もなんとも優しく気の利く女性ではないか! 儂は感激したぞ!」
「それはよかった。ただ、将軍。私の未来の姉君はそちらの国の作法に不慣れのようで、親愛のハグに驚いてしまったようだ。見てのとおり線の細い女性なので、無理はなさらぬように」
「おお、それはすまなかったな!」
ガッハッハ、と笑い飛ばされ、テレーゼはぎこちなく笑った。内臓を圧迫されて体があちこちギシギシ痛むが、無様に倒れるわけにはいかない。
(な、なるほど。こちらの方は異国の将軍様だったのね……それも、大公閣下と対等に渡り合えるくらい、すごい方だったと……)
てっきり国内貴族の誰かかと思っていたら、テレーゼが助けた少女の父親はかなりの大物だったようだ。
その後、大公に「よくやった。仕事に戻るとよい」とお許しをもらえたテレーゼはお辞儀をし、少女ミミからは「またね、テレーゼさま!」と手を振られながら、逃げるように大広間を後にした。
……のだが。
(んんん……! すっごい視線を感じる!)
今、会場の皆がテレーゼを見る目は「受付係の女官その一」でも「もやしが主食の侯爵家の娘」でもなかった。
「ベルエト将軍の――」「リィナ様の姉君が――」と、あちこちでひそひそ囁き声が飛び交い、好奇心に満ちた眼差しが刺さってくる。
「おかえ――テ、テレーゼ! どうしたの!?」
ほうほうの体で受付まで戻ったテレーゼは、ぎょっとした顔のリズベスに迎えられた。よほどくたびれた顔をしていたのか、リズベスにがしっと肩を掴まれる。
「車輪付き椅子の使い方を教えに行っただけで、こんなにヘトヘトになるものなの!?」
「いや、それがその後いろいろあって――」
どうやら自分でも気付かないほど、体力と気力を消耗していたようだ。
リズベスはへなへなと椅子に座り込んだテレーゼを気遣わしげに見た後、手元の名簿を示した。
「えっと……お疲れのところ、ごめん。テレーゼが席を外している間に、予定していたお客様は全員通すことができたわ」
「えっ!? ごめん、ありがとうリズベス!」
「いいのいいの。……私たちはこれでいったん上がりで、会が終わるまで部屋で待機よ。……なんならこの後、私の部屋でお茶でも飲みながらゆっくりする?」
「全面的に賛成! なんか本当にごめん、リズベス!」
「いいってば! ほら、片づけしましょう」
リズベスに励まされ、テレーゼは受付のテーブルや椅子などを物置に移動し、床を掃くよう使用人たちに頼んでその場を後にした。
「……はー、なるほど。それはたいへんだったわね」
人気のない使用人用廊下を歩きながらテレーゼが先ほどの出来事を説明すると、リズベスはやれやれとばかりに肩を落とした。
「というか、貴族のお嬢様のドレスのシミ抜きなんて……よくできるわね」
「うん、本当は洗剤がほしかったんだけど、それはさすがにどうしようもなくて――」
「そうじゃなくて――」
しばし口ごもった後、リズベスが何か言いかけた。
そのとき――
「……ざけるな!」
廊下の先から聞こえてきた怒声に、テレーゼとリズベスは揃って身を強ばらせた。
(今のは……男の人の怒鳴り声?)
「……何かあったのかしら?」
「お客様同士の喧嘩? でも、使用人用廊下で……」
背筋にひやっとした汗を掻きつつ、テレーゼはこそこそとリズベスに問いかける。
もし酔客同士の喧嘩ならすぐさま巡回の騎士を呼ぶべきなのだが――
直後、女性の悲鳴と共に何かがどさっと倒れる音がした。
そして、廊下の曲がり角で一瞬ひらめいたものの正体は――
「今の……コーデリア様の髪?」
「あの一瞬で見分けられたの!?」
「う、うん、まあ。……それより、もしかしたらコーデリア様が酔ったお客に絡まれているのかもしれないわ」
テレーゼたちがまごまごしている間にも、やめてください、お許しください、というコーデリアの悲痛な声が届いてくる。
今は大切な夜会真っ最中なので、警備も客人の通る廊下や客間のある棟に集中させている。そのため、使用人用の狭い廊下だろうと普段ならちらちらとは見られるはずの騎士の姿も、今夜は一切見当たらなかった。
(……こうしちゃいられないわ!)
「リズベス、すぐに巡回の騎士を呼んできて」
「え、ええ。でも、テレーゼは……」
「様子を見に行くわ。……もし相手が酔っていたとしてもお客様なら、騎士団に通報できても言い逃れされてしまうかもしれないわ。現場を押さえないと」
「でも、でも……それで、テレーゼまで巻き込まれたら――」
「私だって痛いのは嫌だから、まずくなったら全力で逃げるわ!……リズベス、お願いね」
「テレーゼっ――!」
テレーゼはなおも戸惑いの表情を浮かべるリズベスの肩をとんと押した後、履いていたブーツを靴下ごと脱いで廊下の隅に放った。足下は石の床だから、靴さえ脱げば足音を立てずに忍び寄ることができるし、いざ逃げるとなってもこちらの方がテレーゼにとっては走りやすかった。
(この奥義を発揮するのも半年ぶりね――お母様、お願いします!)
母の教えに従い、ドレスの裾をぐいっと持ち上げてヒタヒタと石の床を駆ける。
初冬の空気を存分に吸い込んだ石の床は震えが走るほど冷たく、数歩進んだだけで指先までかじかんでしまう。
(無理はしない。様子を窺って、うまくいけそうならコーデリア様を助けないと!)
たとえ客人だろうと、仲間が暴力を振るわれたら黙っているわけにはいかない。
コーデリアと男がもめている廊下のすぐ脇まで一気に駆け、壁に背中をくっつけて耳を澄ませる。振り返りざまに来た道をちらっと見てみたところリズベスの姿はなく、テレーゼが脱ぎ捨てた靴がぽつんと佇んでいるだけだった。一刻も早くリズベスが騎士を連れてきてくれることを願うしかない。
「……おまえというやつは! よりによって大公閣下とリィナ様の婚約記念式典でよくも、恥をさらしてくれたな!」
足の裏から上ってくるような冷気に耐えていたテレーゼは、怒り狂った男性の声にふと眉根を寄せた。
てっきり泥酔した客がコーデリアに絡んでいるのだと思っていたのだが、この語り口からしてそうではなさそうだ。
「も、申し訳ありません! 今すぐ会場に戻り、リィナ様に重ねてお詫びを――」
「黙れっ! 今さら自分の発言を撤回できるとでも!? せっかくの好機をくだらん対抗心でふいにしおって――おまえは我が家の恥だ! 引き取ったのが間違いだった!」
「お、お許しください、お父様っ! 勘当だけは!」
――その瞬間、テレーゼの胸がばくん、と鳴った。
(この声は――コーデリアのお父様?)
以前ジェイドと一緒に立ち聞きしたときはくぐもっていたのでよく聞こえなかったが、コーデリアが「お父様」と呼ぶのならば間違いないだろう。
『なんてったってその令嬢ってのは、子爵が愛人に産ませた婚外子じゃないか』
『六歳くらいの時にいきなり引き取ったんだっけ?』
『それも、最初のうちは子爵のその令嬢への当たりも厳しくってさぁ』
『あんまりいい待遇を受けていなかったんだろうな』
『その令嬢も、かわいそうに』
貸本屋で耳にした会話が脳裏によみがえる。
婚外子で、幼少期に引き取られたものの実の父親から冷遇されてきたコーデリア。
女官として実績を上げながらも、たびたび何かに怯えるような眼差しをしていたコーデリア。
今父親に怒鳴られ、「勘当だけは」と泣きつくコーデリア。
「……コーデリア様!」
テレーゼは身を翻し、廊下に飛び出す。
そうして飛び込んできた光景を目にし、胃がぎゅっと絞られるような感覚を覚えた。
星明かりを浴びて立つ大柄な男と、その足下で項垂れているコーデリア。彼女の特徴的な長いポニーテールは男の右手に掴まれており、コーデリアは無理な姿勢で体を引っ張り上げられていた。
男が怪訝そうな顔で、そしてコーデリアがはっとした顔でこちらを見やる。
「あ、あなたは――!」
「なんだ、おまえは」
男――コーデリアの父親であるフィリット子爵は不機嫌を隠そうともしない低い声で問うてきた。おそらくテレーゼの位置は廊下の柱の陰になっている上、女官の標準装備であるエプロンも外しているため、正体が分からないのだろう。
コーデリアは唇を引き結んでテレーゼを睨むように見ている――が、その唇の端からはつうっと赤いものが滴っているし、左のまぶたが腫れている。
テレーゼが駆けつけるまでに既に父から暴行を受けていた証を目にし、テレーゼは前歯できつく下唇を噛みしめた。
「……そちらはコーデリア様のお父上、フィリット子爵と存じます。わたくしはコーデリア様の後輩の女官見習でございます」
「見習?……はん、だから何だ? 女官長にでも進言するのか?」
子爵は薄く笑い――テレーゼの目の前で、娘の肩を蹴り飛ばした。
いきなり背後から蹴られたコーデリアがうめいて倒れ込むと、冷静に冷静にと己に言い聞かせていたテレーゼもたまらずずいっと前に進み出た。
「ちょっと、コーデリア様に何してるの!」
「何とは? 不出来な娘を教育しているだけであろう」
「そんなの、教育じゃなくてただの暴力じゃない! そういうことばかりするから、コーデリア様は怯えてらっしゃったのね!」
「……は?」
あまりコーデリアと顔立ちの似ていない子爵は、テレーゼの言葉にますます機嫌を損ねたようだ。
娘の髪を掴んでいた手を離すとその体をまたぎ、一歩テレーゼに近づいてくる。
「……見習風情が何を言うか。だいたい、なぜおまえがコーデリアを庇う?」
(……私がコーデリア様を「庇う」理由?)
子爵に低い声で問われたテレーゼはしばし考えた後、おもむろに口を開いた。
「庇ってはいないわ」
「……」
「コーデリア様もおっしゃっていたもの。一人の女官が失態を犯せば、女官全体が責任を負わなければならなくなるかもしれない。だったら、一人の女官が困っていたらそれは女官全体の問題。困っている仲間を助けようとすることの、何がいけないの?」
まさか、テレーゼがそのように答えるとは思っていなかったのだろう。
子爵が厳つい顔を不快感でしかめ、その足下でうつぶせになっていたコーデリアが「馬鹿な子……」と呟く傍ら、テレーゼはくいっとあごを上げて子爵を見上げた。
「やっと分かったわ。……コーデリア様がやたら私にきつく当たっていたのも、時々怯えたような眼差しをなさっていたのも、あなたのせいだったのね」




