令嬢、申し出る
テレーゼたちが受付を始めて一時間も経つと、リズベスの手元にある名簿のほとんどにチェックが入っていた。そうして人もはけてきたところで、箒を手にした使用人たちが大広間前をささっと掃き始めた。
「お、お疲れ様です」
「どうも。……あ、ちょっとそこ退けてください。砂埃があるので」
「あ、はい」
「ひょっとしてそろそろ大公閣下のお見えですか?」
テレーゼと同じように椅子から立ち上がってテーブルの下を掃いてもらいつつリズベスが問うと、使用人は頷いた。
「そうです。もうじきお越しになるので現在正面門付近にいらっしゃるお客にはいったん待機していただいて、先に大公閣下とリィナ様をお通しします」
「分かりました」
いよいよだ、とテレーゼは大きく息を吸った。
使用人たちが掃除を終えると間もなく、大公たちがやって来た。
大公は大公妃候補選定の挨拶の時と同じ、白い軍服にやたら裾の長いマントを羽織っている。堂々たる足取りで大広間に向かう彼は年若いといえども、君主としての威厳に満ちていた。
そしてその隣には、ブルーのドレスを纏った婚約者――リィナの姿があった。
ドレスの胸元が大きく開いているのはきっと大公の趣味だろう。テレーゼとおそろいの家紋入りペンダントが胸元で踊っており、照明を浴びてスパンコールでも縫いつけているかのようにドレスのスカート部分がきらきら輝いている。髪は結い上げ、いつもより大人っぽい化粧をしているので少し雰囲気が異なって見えた。
テレーゼはリズベスと揃って立ち上がり、頭を下げた。大公もリィナも何も言わずテレーゼの前を通り過ぎ、その後をコーデリアたち臨時専属女官や侍従たちが続いた。コーデリアの髪は今日も元気よくぶんぶん左右に揺れているが、今のテレーゼの意識は大公とリィナに釘付けだった。
(リィナ……とても素敵だわ)
お辞儀をしているのでじっくり顔を見ることはできなかったが、胸を張って前を向く妹は強い眼差しをしていた。きっと、大丈夫だろう。
「レオン・アクラウド大公閣下、ならびにリィナ・リトハルト様、ご入場!」
侍従が声を張り上げ、それまで閉ざされていたドアが開かれる。衆目を集める中、足並みを揃えて大公とリィナが大広間に入っていき――一行が全員入ったところで、ドアは閉められた。
ふう、と息をついたのはテレーゼとリズベス、どちらだろうか。
「お疲れ様です、二人とも。事前に申しましたとおり、ここでわたくしたちは上がらせてもらいます」
へたっと椅子に腰を下ろした二人に声を掛けたのは、これまで陰で様子を見ていた先輩女官だった。最初は存在を意識していたのだが、だんだんと先輩がいることすら忘れていた。
先輩も同じことを思っていたようで、真顔で頷いた。
「思っていた以上にあなたたちは肝が据わっておりました。わたくしたちがいなくても、二人でやっていけるでしょう」
「わたくしたちは上がりますが、何かあれば使用人伝手でよいので呼びなさい」
「はい。ありがとうございました」
きびすを返して去っていった先輩たちを見送った後、テレーゼはリズベスと顔を見合わせた。
「……同じ赤チョーカーでも、だいぶ違うのね」
「それがね、テレーゼ。赤チョーカー内でも勢力争いがあるらしいの。多分、さっきの先輩方はコーデリア様たちとは別グループよ」
「な、なるほど」
女の派閥対立は、場所や階級を問わず勃発するようである。
名簿にチェックが入っていないのは、あとわずか。
「……おやおや、もう大公閣下はお通りになったのですかね?」
今になっていきなりキャンセルも入り、使用人から渡された欠席通知を手にリズベスが必死で名簿を捲っていると、使用人に手を引かれた高齢の貴族がやってきた。
七十歳近いだろう彼は腰が曲がっているため、椅子に座っているテレーゼとほとんど目線が変わらなかった。なんとなく、子どもの頃に一緒に遊んでくれた領民のおじいちゃんのことが思い出される。
「ようこそいらっしゃいました。招待状の確認をいたします」
「おお、それならこちらに」
高齢の貴族に代わり、使用人が招待状をリズベスに渡した。貴族は杖を突いているが、杖を持つ手も震えている。
(……あ、そうだ)
「もしよろしければ、車輪付きの椅子をご用意いたしますが、いかがなさいますか?」
テレーゼは申し出た。高齢の貴族や若くても脚を負傷して移動が困難な貴族がいるため、車輪付きの椅子を用意しているのだ。台数は限られているが、まだ数台は残っているはずだ。
それを聞くと、貴族は嬉しそうに微笑んだ。
「そうか、それはありがたい。……すまんがお嬢さん、椅子を持ってきてくれないかね?」
「もちろんでございます。……リズベス、ちょっとお願いね」
「ええ」
リズベスにこの場を任せ、テレーゼは物置に置いていた車輪付きの椅子を運び出した。座ったときに尻が痛くないよう、クッションも多めに積んでおく。
「お待たせしました。……こちら、お付きの方に操作していただきますが、説明は必要でしょうか?」
「はい。……その、できたらしばらくの間、操作方法を拝見してもよろしいでしょうか」
「かしこまりました。では、参りましょう」
使用人に頼まれたので、テレーゼは貴族の乗った椅子の持ち手を掴み、ゆっくり押した。
(この椅子の使い方もちゃんと予習しておいてよかった!)
貴族は体重も軽いようで、テレーゼの腕でも問題なく椅子を動かせる。ほっとしながらテレーゼは大広間に足を踏み入れ――あまりのまばゆさに、目がくらむかと思った。
煌びやかな内装に、着飾った人たち。
この部屋のどこかに家族が、顔見知りの貴族が、そして大公とリィナがいるのだろう。
(うーん、私は場違いだなぁ)
侯爵令嬢ではあるが、今のテレーゼは介助のためにお邪魔しただけの城仕えの人間。美しいドレスを着ているわけでもきれいに髪を結っているわけでもない。
「……こんな感じで操作してください。段差には気を付けてくださいませ。返却時には、腕に赤いリボンを付けた会場係にお申し付けてくだされば大丈夫です」
「分かりました。ありがとうございます」
「すまないね、お嬢さん」
使用人と貴族を見送り、テレーゼはふうっと息をついた。とたん、すぐ近くを通っていった貴婦人のきつい香水の匂いまで吸い込んでしまい、むせそうになる。
(や、役目は終わったんだから、もう撤退すべきね! うん!)
そうしてドアの方へ向かおうとしたテレーゼだが――どん、と脚に何かがぶつかった。
「え?」
「ひゃっ」
見下ろすと、テレーゼの腰ほどの位置に金色のくりくりした髪を持つ頭があった。今テレーゼにぶつかったのはこの子だろう。
「まあ、失礼しました。お怪我はありませんか?」
小さな子どもだが、ドレスを着ているので良家のお嬢さんだろう。「どうしたんですかー?」と町の子どもたちのように接するわけにはいかない。
テレーゼがしゃがんで子どもの顔色を窺おうとした――とたん、ひっく、と子どもがしゃっくりを上げたため、ぎょっとしてしまう。
(えっ!? ま、まさか私、こんな小さい子を泣かせた!?)
「あ、あの……」
「……ドレスが……」
子どもは健気にも大泣きしないように努めているようだが、覗き込んだ顔は涙で濡れており、小さな拳でパステルピンクのドレスの裾を掴んでいる。
見ると――
(あっ、シミが――)
繊細なオーガンジーの布地を幾重にも重ねた、かわいらしいドレス。そのスカート部分に赤い斑点が散っていた。生地が象牙色なので、何かのソースらしい赤いドット模様はかなり目立つ。
「ドレスに汚れが付いてしまったのですね」
「……ん。おとうさまがミミをね、きれいって言ってくれたの。でも、ご飯をおとして、ソースがたれて――」
「そうだったのですね……あの、誰かを呼んで――」
「やっ! みっともないっていわれる!」
どうやらミミというこの子は、父親も褒めてくれたお気に入りのドレスを自分のせいでダメにしてしまったことが辛く、また「ドレスを汚すなんてみっともない」と言われることを恐れて泣いていたようだ。
テレーゼはいかにも女性使用人といった風貌なので安心しているのかもしれないが、他の貴族にばれてしまうとこの少女は傷つくだろうし、男性使用人を呼ぶのも嫌がりそうだ。
(ご家族の方を見つければいいかと思ったけれど、他の人にドレスを見られるのが嫌なのね。私でなんとかして差し上げられたら――)
『余計なことはするなと、言いませんでしたか?』
――冷たく放たれた声が、頭の中でこだました。
『あなたの修繕が失敗し、ストールが余計に酷い状態になってしまったら、どう償うつもりだったのですか!?』
コーデリアの声がこだまする。
あのときと同じだ。
(しっかり考えないと。今、私にできること。今、私たちに掛けられている制限は――)
少女は、このままの姿で父親のもとに行きたがらない。
そして、他の貴族にもドレスが汚れたことをばれたくない。
そしてきっと、男性に見られるのも嫌がるだろう。
(……私でこの子を助けられる?)
そっと、ウエストポーチの中を探る。
メイベルが一通りの品を入れてくれているのならきっと――
(あった)
テレーゼはこくっと唾を呑むと、少女としっかり目線を合わせて、問うた。
「お嬢様、もしよろしければわたくし、女官のテレーゼに、ドレスのシミ抜きをさせていただけませんか」




