令嬢と二人の先輩
ちょうど女官長はコーデリアに別件の用事があったようで、テレーゼと先輩が先に部屋から追い出された。
女官長の部屋からは脱出できたが、まだ安心することはできない。
(……き、気まずいわ)
あいにく、二人とも行き先は途中まで同じ。仕方なく先輩の数歩後ろをなるべくゆっくり歩き距離を取っていると、ふいに先輩が立ち止まった。
「テレーゼ・リトハルト。少しいいですか」
「んむっ……は、はい。もちろんです」
本当はそそくさとこの場から離れたかったのだが、呼ばれたのだから逃げるわけにはいかない。
観念して足を速めて先輩の隣に並ぶと、彼女は顔を上げてテレーゼを見つめてきた。
「……わたくしは、ずっと悩んでいました。わたくしが間違っているのは分かっている。取り乱したのが情けないことだとも分かっている。あなたの忠告が正しいのも分かっている。……しかし、それを認められませんでした」
先輩は、昨日テレーゼと別れた後も悩んでいたそうだ。彼女には冷静に判断する能力もあったが、プライドが邪魔をしていた。
そうしてずっと悩んでいた彼女は――同期のコーデリアに相談したのだという。
「コーデリアはわたくしの話を聞き、女官長に報告するよう助言してくれました。……しかしあなたも見てのとおり、わたくしはコーデリアに丸投げし、黙りを決め込む始末。……後輩であるあなたがちゃんと自分の言葉で主張したというのに、情けないことです」
「そんなこと……」
言いながら自嘲の笑みを零す先輩を見ていると、テレーゼも申し訳ない気持ちになってきた。
(だって、先輩は体調が悪かったんだし……)
だが先輩は首を横に振り、テレーゼから視線を逸らした。
「……テレーゼ・リトハルト。あなたより一年以上長く女官を務めてきたわたくしから助言です。……あなたの真っ直ぐさは、諸刃の剣になるでしょう」
「諸刃の剣――」
「わたくしは、あなたのその根性を好ましいと思いました。しかし……昨日のわたくしのようにそれを認められなかったり揚げ足を取ったり、時には根も葉もない噂を広めて足下を掬おうとしたり――公城はそういう場所で、城仕えというのはそういう感情や思わくと戦わなければならない場所なのです」
「……」
「それでも、あなたはこの仕事を続けるのですか?」
「はい、続けます」
一切迷わなかった。
ひとつは、金のため。
金を稼ぎ、家族を養って領民を助け、リトハルト領を潤わせる。そのために、大公妃候補時代から目指していた仕事なのだ。
そしてもうひとつは、妹リィナのため。
次期大公妃の姉として恥ずかしくないよう、リィナが後ろ指差されないよう、女官として技能を磨いていきたい。
(今回の失敗は、先輩が申告してくださったから減給で済んだけれど……下手すればリィナたちに迷惑を掛けることにもなっていたわ)
大公にも釘を刺されたのに、感情で動いてしまった自分の過失だった。この点は深く反省し、次に生かさなければならない――必ず。
先輩はテレーゼの反応に満足したのかそれとも呆れたのか、ふっと笑ってテレーゼに背を向けて歩き出した。
「……わたくしはこれから女官長のおっしゃったとおり、事後処理をして参ります。必ず午前中に報告書を仕上げて提出しますので、あなたはそれを持って子爵邸を訪問するように」
「はい。よろしくお願いします」
「……いずれ見習を卒業したあなたと共に働けるのが、楽しみです」
お辞儀をしたテレーゼに頷きかけ、先輩は歩き去っていった。
その足取りはしっかりしており、テレーゼもほっとした。
(……そうよね。ここで止まっているわけにはいかないわ。早く見習を卒業して、一人前の女官にならないと!)
一人大きく頷くとぐっと拳を固めたテレーゼだが、背後から聞こえてきたドアの音に振り返る。
「……あ」
つい、声を出してしまった。
女官長の部屋から出てきたのは、ブルネットをポニーテールにした女官――コーデリアだった。先輩と和解できて決意も新たにしていたら、もっと厄介そうな人がいるのを忘れていた。
コーデリアは最初テレーゼの存在に気付かなかったようだがばっちり視線がぶつかると、すたすたと早足でこちらにやってきた。
目があった以上、逃げるのも不自然だし無視するわけにもいかない。
あっという間にコーデリアとの距離を詰められ、テレーゼの頬がひくっと引きつった。
(……き、気まずいわ)
それはもう、先ほど先輩と一緒にいたときとは比べものならないほど気まずい。
先輩は最後にはテレーゼに好意的な言葉を残してくれた――と思うのだが、コーデリアはそうもいかないだろう。その証拠に、テレーゼを見かけた瞬間からずっとコーデリアはしかめ面で、今も腰に手をあてがい、親の敵でも見るような目でテレーゼを睨んできていた。
……睨んできている?
(……あ、あれ? 私、コーデリア様に睨まれるようなことをしたっけ?)
何か思い当たる節がないかと先ほど女官長の部屋でのやり取りを思い返していたテレーゼだが、チッという音が聞こえてきた。
(……今の、舌打ち?)
いくら貧乏貴族のテレーゼでさえ、品がないからということで絶対にしなかった舌打ち。町の酒場で賭に負けたおじさんや、裏道でたむろしていた怪しいお兄さんたちがするのを聞いたことがあるくらいの舌打ちが、まさか――コーデリアから発されるとは。
「あ、あの――」
「……余計なことを」
唸るようなコーデリアの声に、ひとまず声を掛けようとしたテレーゼは閉口した。
「なすがままにしていればよかったものを……本当に、いつも邪魔ばかりしてくることです」
(よ、余計なことって……さっきのやり取りのこと?)
口には出さないが納得いかないテレーゼは顔を上げたが――コーデリアのヘーゼルの目を見ると、心臓の辺りでうごうごしていた不快感がひゅっと胃の奥まで引っ込んでいった。
ヘーゼルの光彩に包まれた瞳が、大きく開かれていたのだ。
(この目つきは、怒っているからじゃなくて――)
「……あのシャノンを言いくるめられたからといって、調子に乗るのではありません。……好奇心と無謀な正義感は己の身を滅ぼす。覚えておきなさい」
吐き捨てるように言うと、コーデリアはテレーゼの脇を通り過ぎていった。ふわふわ揺れる茶色の尻尾は廊下の角を曲がり、あっという間に見えなくなった。
テレーゼはしばしその場から動けず、コーデリアの消えていった廊下の角をぽかんとして眺めていた。とはいえ、彼女に言われたことがショックで硬直しているのではない。
先ほど見た、コーデリアの瞳。
(コーデリア様は、怯えていた――?)
確信があるわけではない。
だが、テレーゼには先ほどのコーデリアが――何かに怯え、恐怖心に駆られているかのように思われたのだった。




