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大公妃候補だけど、堅実に行こうと思います  作者: 瀬尾優梨
書籍版続編

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令嬢、対立し、諭される

 代表者と先輩の居場所を尋ねたところ、楽屋裏だと教えてもらった。

 そうして躊躇いつつ向かった楽屋裏では、ある意味テレーゼの予想通りの光景が広がっていた。


「バノン子爵夫妻に対する仕打ち、見逃すことはできません!」

「も、申し訳――」

「わたくしに謝れば済むとでもお思いなのですか!? おまえたちが地に頭を擦りつけ、泥にまみれ全財産をなげうってでも謝罪せねばならないのは、奥方を侮辱された子爵、そして公衆の面前で恥を掻かされた子爵夫人です!」


 先輩、凄まじい剣幕である。

 彼女の激怒を受けているのはテレーゼではなく代表者を始めとした劇団の者たちなのだが、脇で見ているだけのテレーゼも尻込みしてしまいそうなほどの気迫である。

 入り口にこそっと立っているテレーゼからは腰に手をあてがって立つ先輩の顔は見えないが、近寄るだけで熱気にあてられ、じゅわっと蒸発してしまうのではないかとさえ思われてくる。


「今回のことは大公閣下にもお伝えします! おまえたちはよその者でしょう? 今後、公都で公演できることはないと思いなさい!」

「し、しかしそれでは我々の――」

「お黙り! よりによってあのような貧相な劇をお見せし、あまつさえ貴族夫人の名前を間違えるような連中が公都にいられると思わないことです!」


(……貧相な劇?)


 それまでは先輩の剣幕に気圧されて呆然としているだけだったテレーゼだが、今の言葉を聞いた瞬間、すっと胸の内を冷たい風が吹き抜けていったような気持ちになる。


 チャリティー活動の一環として演じられた劇。

 それを観た夫人の感想は――


「……お言葉ですが。ひとつよろしいでしょうか、先輩」

「何ですか」


 そっとテレーゼが口を挟むと、恐ろしく不機嫌な顔で先輩が振り返った。ようやっと彼女の直視を浴びずに済んだ劇団員たちはその場にへたり込んだりさめざめ泣いたりしているが――なるほど、泣きたくなる気持ちもよく分かるような憤怒の形相である。


(き、きれいな人が怒ると本当に怖いのね。それはまあ、いいとして――)


「要件があるなら早く言え」と視線で促され、テレーゼはやけに苦い唾を呑み込んで柱の陰から前に進み出る。


「先ほどバノン子爵夫妻をお見送りしたのですが……夫人は、いろいろあったけれど劇を楽しむことができた、とおっしゃっていました」

「……それは、夫人がとてもお優しい方だからでしょう。本来ならばこのような無礼者どもは、即刻首を刎ねられてもおかしくないのです」

「……しかし、彼らは一生懸命劇を演じ、それをご覧になった夫人も満足してらっしゃいました」


 正直、ものすごく怖い。

 すらすら話せてはいるが、ほぼ脳みその機能は停止しており本能で言葉を紡いでいるだけの状態だ。「やっぱりなんでもありません」と適当な言い訳をしてこの場から逃げたいという気持ちだってある。


(でも……ここだけは譲れない)


「……だからこそ、『貧相な劇を見せた』という点で彼らを詰るのは不当だと思います。劇の出来と名前を呼び間違えたことは別問題……夫人が劇のことを褒めてらっしゃったから、わたくしはそう思います」

「っ……」


 先輩の赤く染まっていた顔が瞬時に青ざめ、瞳がこれでもかというほど見開かれる。

 彼女の双眸には、テレーゼに反論されるとは思っていなかったという意外感、そして――図星を指されたかのような、悔しそうな色が浮かんでいた。


「……生意気な口を叩くのではありません」

「しかしっ」

「お黙りなさい! おまえはこの場を余計に混乱させるつもりですか!?」

「そういうわけではありません!」

「では、黙っていなさい。……自分にとって不利な状況になりたくないのであれば、これ以上余計な口を利くのではありません」


 だんだんと口調が落ち着いてきた先輩は、最後の一言はテレーゼにしか聞こえないような低く小さな声で囁いてきた。


 ――どくん、と心臓が脈打つ。


(私にとって不利な状況って……失職?)


 いや、それだけで済めばかわいいものだ。


『あなたの軽率な行動でリィナ様の品位を落とすことにもなりかねないのだと、まだ分からないのですか?』


 夕暮れ時の庭園でコーデリアに放たれた言葉が、ぐわんぐわんと頭の中でこだまする。


(私は……リィナの品位を落としてしまった?)


 先輩の言い分は八割がた正しかった。だがバノン子爵夫人自身の言葉もあったのだから、無関係の事柄まで引っ張り出してあげつらうのは間違っている。

「貧相な劇」と詰ればすなわち、その劇を見て感動した夫人の感性をもなじることになるのではないか。劇団に罰を与えるなら正当な方法でしなければ、激昂してしまった先輩も不利を被るかもしれない。そう思って進言した。


(でも……失敗してしまった)


 だいぶ熱も冷めたらしい先輩に楽屋裏から追い出され、テレーゼは薄暗く狭い廊下をとぼとぼと歩く。

 行くあてがあるわけではないが、「邪魔だからあっちに行っていろ」と指示されたのだから楽屋裏に長居するわけにはいかない。


(私は……)


「お待ち、そこの小猿」


(どうすれば、いいんだろう。謝る? でも、女官長に報告されたら……)


「お待ちと言っているのです、テレーゼ・リトハルト!」


 背後からフルネームで呼ばれ、テレーゼは足を止めた。

 のろのろと振り返った先には、暗がりの中で艶やかに咲く真紅の花が佇んでいた。ぐるんぐるんと元気に螺旋を描く金髪に、目鼻口のくっきりした美貌。真紅のドレスは胸元でぱっくり割れており、彼女の見事なプロポーションを余すことなく魅せていた。


 少しあごを持ち上げて鷹揚な動作で扇子を振る、彼女の名は――


「クラリス様……?」

「おや、頭の中がお花畑の割にはちゃんと覚えていたようですね」


 ゲイルード公爵令嬢クラリスは、ふふっと艶やかに笑った。


 半年前、テレーゼと同じく大公妃候補だったクラリスとは、候補解散の日に言葉を交わしたきりだった。少々物言いが厳しくあまり愛想のない女性だが、芯が通っており貴族令嬢としての誇りに満ちた令嬢の鑑だ。

 テレーゼのことも最初の頃は「貧乏」などと貶してきたが、テレーゼが隣国バルバ派の者に捕まって絶体絶命の危機に陥ったときには他の令嬢を引き連れて援護に来るなど、正義感の強さと統率力を見せてくれたものだ。


(どうしてここにクラリス様が?……ああ、そっか。きっと今日のチャリティーに参加されていたのね)


 おそらく、クラリスを見つめる自分の目はどんよりと濁っていたのだろう。

 クラリスは目をすがめ、羽根付き扇子をぱちんと閉ざしてその先をテレーゼに向けてきた。


「あなた、女官になったのでしょう? 女官といえど今は見習。それなのに……なぜわざわざ同僚に噛みついたのですか」

「……ご覧になっていたのですね」

「気になっていたもので、少々聞かせていただきました。……まったく、無謀なことをするものです。わざわざ相手を煽るようなことを言って……そんなにクビになりたいのですか?」

「そっ、そういうわけじゃありません」

「……あなたの気持ちも分からなくはありません。あなたと一緒にいた女官は確か、キャニング男爵家長女のシャノン・キャニングですね。あの言い分は確かに筋が通っていない。あなたたちが担当したという子爵夫人自身が劇の出来を褒めていたのであれば、キャニングの小娘にその点について詰る権利はありませんからね」


 さすがは名門公爵家の娘。男爵家の娘である先輩に対して「キャニングの小娘」と言い放ち、一切遠慮していないようである。

 クラリスは扇子の先を上下に動かす。彼女との距離はちょっと空いているが、なんだか扇子で頭をばしばし叩かれているような気分になってきた。


「……あなたは無謀だった。しかし、言い分はあなたの方が正しい。……であれば、なぜこんなところでナメクジのようにウジウジくすぶっているのですか?」

「クラリス様、ナメクジをご存じなのですね……」

「今は口を挟むのではありません、小猿!……へこたれるのではありません。あなたに貴族としての矜持があるのならば、正しいことを胸を張って正しいと言えるようになりなさい」


 ――その言葉に、テレーゼは目を見開いた。


 正しいことを正しいと言えるようになりたい。


(それは……かつて私が思っていたことだったわ)


 テレーゼが大公妃候補で、リィナがまだ無名の官僚だった頃。

 リィナが平民であるのをいいことに、彼女に暴力を振るった令嬢がいた。テレーゼはそれを告発したかったのだが、「テレーゼの印象を悪くするかもしれない」ということで泣き寝入りすることになってしまったのだ。


 正しいことを正しいと言えば物事が解決するわけではない。

 世間知らずだったテレーゼは、貴族社会の真実に直面し、悩んだのだ。


「そして真実を告げられるようにするためにも、よく周りを見るのです」

「周りを――」

「今回の場合、あなたはキャニングの小娘を注意する状況がよろしくなかった。……あの小娘も、自分の失言には気付いていたはずです。それを何らかの形で内密に伝えれば丸く済んだものを、あなたはわざわざ第三者のいる場で告発した。……その結果キャニングの小娘は反発し、おまえを詰った。十分予想できた結末です」


 クラリスの言葉は容赦ない。

 だが彼女の言葉でテレーゼの胸が苦しくなったのは一瞬のことで、すぐにじわじわと体中にその言葉が浸透してきた。


(……私は、自分のしたことを顧みないといけないわ)


 自分の行動はひとつの点では正しく、もうひとつの点では間違っていた。傍らで聞いていただけのクラリスでさえ、テレーゼの行動で先輩が反発するのは予想が付いていたというのだ。

 テレーゼが自分の力で、それに気付いていなければならなかった。


(……私は)


「……クラリス様。私は、女官の仕事を失いたくありません。それに、リィナの名誉も傷つけたくありません」

「ええ」

「ですから……ちゃんと先輩とも女官長とも話をします。私の落ち度はきちんとご説明し、私が正しいと信じることはきちんと述べる――そうします」

「ええ、そうなさい。あなたならできるはずです」


 そこでクラリスはほんの少しだけ目尻を垂らし、テレーゼに突きつけていた扇子を開いた。


「……長居してしまいました。わたくしは帰ります。あなた、女官でしょう。わたくしを馬車のところまで案内しなさい」

「え、えぇ……しかし、一応今も仕事中で……」

「お馬鹿、わたくしがあなたに仕事を与えているのです。……わたくしの我が儘で女官を連れ回したのだと言っておきます。分かったのならさっさと来なさい」

「……ふふ。分かりました、お供します」


 クラリスはテレーゼの返事を待たずにさっさと歩いていってしまったので、慌てて彼女の後を追いつつテレーゼはぎゅっとエプロンの裾を掴んだ。


(……そうだ。私は立ち止まらない)


 失敗したならちゃんと相応の罰を受けるし、お詫びも申し上げる。

 だが、譲れないところは決して譲ってはいけないのだ。

 それが、貧乏だろうと何だろうと、テレーゼの誇りだった。

書籍版クラリス様はいい人

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