令嬢、まずい場面に遭遇する
その後、劇はつつがなく終わった。劇が終わる直前に先輩が戻ってきて、カード整理や「施し」の管理も終わったことを身振りだけで伝えてくれた。
ヒロインが王子様に見初められ、困難に直面しながらも二人で協力して乗り越える。
そうして二人は結ばれ、めでたしめでたし。
(えーっと、確かカーテンコールの後、劇団の人たちが「施し」をくれた貴族一人一人に挨拶するのよね)
拍手の中で役者たちがお辞儀をするのを見ながら、テレーゼは考える。
「施し」額の多い順――必然的に身分の高い順になるのだが――に劇団の代表者が挨拶とお礼を言い、劇団員たちもあわせてお辞儀をする。代表者からのお礼を受けた者から退出するので、実質これが貴族たちのお見送りにもなる重要なポイントだった。
先輩が手書きのカードを見せてくれたのでそれを見ると、先ほどの間に書き留めたらしく、本日のチャリティー観劇に参加した貴族の名前とそれぞれのだいたいの「施し」額が順に記されていた。
かなりの人数の貴族の名が記されていたので、バノン子爵の場所だけ注意して探した。結果、予想通りバノン子爵夫妻の順番は最後に限りなく近かった。
「本日の劇はいかがでしたか?」
公爵家の者から順に挨拶を受けており、バノン子爵が先輩と「施し」の額について相談している間、テレーゼは夫人の方に尋ねてみた。
先輩は「しょぼい」と不満そうに言っていたが、夫人の様子を見る限りそこそこ楽しんでいるように思われたのだ。
夫人は振り返ると、にっこり微笑んだ。
「とてもよかったです。楽しいシーンはもちろんですが、ヒロインが王子様の助けを信じて部屋の中で待つシーンには胸が苦しくなりました……」
「分かります。わたくしもそのシーンには目が釘付けになりました」
……おそらく子爵夫人はヒロインの心情に共感して感じ入ったのだろうが、テレーゼは煤けた部屋の中で一人佇むヒロインを見、「分かる! 家具がほとんどない部屋の寒々しさ、すきま風のつらさ、よく分かる!」という意味で共感していた。もちろん、それを子爵夫人に伝えるつもりはないので、鍵を掛けて心の奥底に留めておくことにする。
(それに、マリーやルイーズもお芝居を観たがっていたし……いい報告ができそうね)
チャリティー活動の一環とはいえ、仕度にも「施し」にもとにかく金が必要なので、妹たちを連れて来ることはまだ難しいだろう。だが思い出話として語ってあげたいし、いつか本場の劇を見せてあげたいと思っている。
しばらく待つと、ようやく子爵夫妻の番になった。
夫婦寄り添って舞台に向かい、その後に子爵家の使用人、そしてテレーゼと先輩が続く。ここまででテレーゼたちの仕事はほぼ終わったようなものなので、あとは夫妻が馬車に乗り込むまでお見送りすれば任務達成だ。
(先輩の様子は……よさそうね)
ちらっと隣を窺ってみたところ、背筋を真っ直ぐ伸ばす先輩は表情を引き締めているが、なんとなく機嫌がよさそうに思われた。今日半日一緒に行動した内容を振り返ってみても、呆れられたことはあっても叱られたり注意を受けたりした覚えはない。
(これなら、いい評価をもらえるかも……?)
内心ではわくわくしながらも、テレーゼは女官としての表情を保ったまま舞台前でのやり取りを見守ることにした。喜ぶのは、城に戻ってからだ。
劇の代表者は、若い青年だった。そういえば夫人が手洗いに行くのを廊下で待っている際、代表者は父親から跡を継いだばかりで自分が代表になったのは今回が初めてだという話を聞いた。
「本日はお越しくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ、素敵な劇をありがとう。楽しめたよ」
代表者がお辞儀をすると、子爵が機嫌よさそうに応えている。彼の半歩後ろに立つ夫人も頷いているようで、テレーゼはほっとした。が――
「またいらっしゃることをお待ちしております。セドリック・バノン様、セラフィナ・バノン様」
代表者がそう言ったとたん、隣に立っていた先輩がはっと息を呑んだのが分かった。
(……え?)
一瞬何が起きたのか分からずテレーゼは目を瞬かせたが、反応を見せたのは先輩だけではなかった。
夫妻の後ろに控えていた使用人たちがざっと前に出て、子爵が妻の肩を抱いて一歩下がる。
ただならぬ雰囲気に、周りで談笑していた者たちもおしゃべりを止め、舞台の方を訝しげに見つめていた。
(な、何が起きたの……?)
まだ一人状況についていけないテレーゼだったが、先輩が「あの無礼者め……!」と苦々しい声を出したため、ぎょっとして隣を見やる。
「あの、先輩……?」
「分からなかったのですか? あの代表者、よりによって夫人の名を間違えたのです。今呼んだのは、バノン子爵の妹君の名です!」
「えっ……?」
ようやっとテレーゼも事の重大さに気付いたとたん、背中をひやりと汗が伝った。
どういう経緯で彼が名前を間違えたのかは分からないが――失敗した理由は何だろうとつまるところ、「代表者は子爵夫人を子爵の妹と間違えた」、ひいては「子爵夫人を貴族の奥方だと判断できなかった」ということになってしまう。
代表者の失態ということで彼一人が罰せられるのならばかわいいもの。
だが――
(これって、子爵夫人にとっても不利になってしまうんじゃ……?)
「子爵夫人は、子爵の妻だと認識されなかった」と言われてもおかしくない状況なのだ。社交界に出るようになって日が浅い夫人にとって、足枷にしかならない。
代表者も遅れて自分のミスに気付いたようで、真っ青になって震えている。
「……あ、い、いえ。妹君のセラフィナ様にもよろしくお伝えください。セドリック・バノン様、……マ、マチルダ・バノン様、ほ、本日はありがとうございました!」
真っ青になり少々下手な言い訳をしながらも、なんとか彼はこの場を乗り切った。
だが周りにいた貴族たちの中には一部始終を聞いていた者もいるようで、怪訝な顔をしていたり、「今のって……」とひそひそ話をしたりしている。
「……あなた、夫妻を馬車までご案内しなさい」
隣から低い声が聞こえてきた。
半ば放心状態になっていたテレーゼは、視線だけ前に向けながら極力唇を動かさないようテレーゼに指示を出す先輩を窺う。
「わたくしには、あの無礼者に申すことがあります。……夫人のご様子をよく確認し、場合によってはお声掛けをしてお連れしなさい。子爵家の使用人も今はいったん帰らせましょう」
「……分かりました」
見習のテレーゼに反論する余地はない。
すぐさまテレーゼと先輩で一発触発状態の劇団と使用人たちを引きはがし、使用人たちに「わたくしが対処しますので、夫妻をお願いします」と先輩が説き伏せ、帰宅するよう促す。
(ひとまず、先輩の指示通りに動かないと!)
子爵はなにやら難しい顔をしており、その隣の夫人は俯いている。泣いているわけではないようだが、さすがにショックだっただろう。
使用人が先行して馬車を呼びに行ってくれたので、テレーゼは夫妻と一緒に出口に向かうことになった。夫人の足取りが重いので、テレーゼの歩みも必然的にゆっくりになる。
「マチルダ、大丈夫か?」
「……ええ。それよりもわたくし、あなたの足手まといになってしまっていないか心配で……」
「君が気にすることではない!……ああ、女官殿。僕は結婚前に一度、妹と一緒にこの劇団の公演を見に来たことがあるのだ」
「……そういうことだったのですね」
子爵の説明でなんとなくの筋道が分かった。
きっと代表者は父親から渡された前回の参加者一覧表だけを頼りにし、バノン子爵が結婚し、今回は妹ではなく妻と一緒に来たことを把握していなかったのだろう。
(でも、私は見なかったけれど招待状はちゃんと夫婦の連名になっていたはずだし、カードも全部夫妻の名前になっているわよね)
つまり、完全な劇団側の落ち度だ。
貴族からの支援で成り立っている劇団が、顧客でもある貴族の不興を買ったとなれば――
馬車止め場所に向かうと、運良く雨は上がっていた。それでも地面はぬかるんでいるので、気分の優れない夫人が転ばないよう足下に注意を配る。
「……今日はいろいろありましたが、あなた方の補助には感謝しております」
馬車に乗る前、振り返った夫人が柔らかく微笑んでテレーゼを見つめてきた。
「今回のことは、あなた方と使用人たちに任せようと思います」
「……かしこまりました。あの、バノン子爵夫人……」
「あなたがそんな顔をなさらないでくださいな。……今日、たくさん気を遣ってくださったこと、感謝しております。おかげで劇を楽しめました」
「そうだな。君たちが気を遣ってくれたからこそ妻は劇を楽しめた。……それは確かだからな。確か君は見習だったと思うが、その思いやりに夫婦で感謝していることを城に伝えておこう」
子爵にも言われ、テレーゼは深く頭を下げた。
「……ありがたいお言葉に感謝いたします」
夫妻の乗る馬車が動き出し、夜の薄闇の中に消えていく。
子爵夫妻にお礼は言われた。
城の方にもいいように報告してもらえるそうだから、女官見習としての成果はばっちりだったと言えよう。
だが、テレーゼの気持ちは曇天の空と同じ模様だった。
(……夫妻はなんとかなりそうね。でも、ここからが大問題だわ……)




