令嬢、劇を観る
会場は既に半分ほどの席が埋まっており室内も薄暗いが、淡い照明が貴婦人たちの纏う色とりどりのドレスを鈍く照らしていた。
こういった会場では、席は特に決まっていないことが多い――が、「身分の高い者とその関係者が前方、低い者や若い者は後方」という暗黙のルールがある。
バノン子爵夫妻の場合、若くて身分もそれほど高くないので、何も言わなくても後方の席を取るべきなのだ。
「あ、わたくしが席を探します」
テレーゼは先輩に許可を取った上で、ずらっと並べられた籐編みの椅子に順に触れていった。
籐編みの椅子は柔らかくしなるので、木製のそれと比べると長時間座っていても尻が痛くなりにくいという利点がある一方、繊細な造りなので破損しやすい。また木がささくれるように籐の先端が縫い目から飛び出し、思いがけず肌を傷つけてしまうこともある。
貴族向けのチャリティー劇なのだから椅子にも気を配っているはずだが、万が一があってはならない。
(それに、気分が優れない夫人のためにも、一番座り心地のいい椅子を提供して差し上げたいわ)
それは女官としてのつとめでもあるが、夫人に快適な空間を提供したいという純粋な思いゆえであった。
一列に並んだ籐の椅子に順に触れ、軽く押して回る。それぞれの椅子の触感を頭の中にメモしながら進み、二列目に触れながら夫妻と先輩たちの待つ場所に戻る。
「いい場所を見つけました。こちらの椅子が一番柔らかくて丈夫なので、奥様にお座りいただけたらと」
「まあ……ありがとうございます」
「妻への気遣い、感謝します。……さあ、行こうか」
夫妻は礼を言い、テレーゼが選んだ椅子に座った。夫人が座った椅子はちょっと座面が柔らかいので夫人の体が少し埋まってしまうだろうが、彼女の身長と体格を考えるとあの高さと柔らかさが一番収まりがいいはずだ。
思ったとおり、夫人は座ったときには少し驚いたように目を見開いていたが、やがてほっとしたように眦を緩ませていた。隣に座る子爵も安心したように妻を見つめているので、大成功のようだ。
「……少し聞きますが。どこで、あのような技術を習うものなのですか」
眉根を寄せた先輩に小声で問われ、テレーゼは苦笑した。
「何と言いますか……育つうちに自然と身に付いたのです」
「…………そうなのですか?」
「ええ、まあ。既製品を買うときにはひとつひとつの手触りや縫製などをしっかり確認した上で購入する癖が付いておりまして」
リトハルト家には金がない。
よってたいていは修繕して長く使うのだが、それでもモノには寿命がある。
既製品を購入する際は、「より長持ちするもの」を見極めなければならない。そういった生活をしていると、同じように見えるものでもどれが一番耐久性があるか、どれが一番使い心地がいいかなどを見抜く目も養われてきたのだ。
「はあ……貧乏人の考えることはよく分かりません」
先輩は本当に見当も付かないようで、さっさと歩いて子爵夫妻の背後に立った。
客が全員到着したようで、劇が始まった。
幕が上がった先の舞台にあったのは、「板で作りました!」感満載のはりぼての舞台装置や、「全て手縫いです!」感に溢れた舞台衣装。役者たちの化粧もあまりよい素材のものを使っていないからか、やけに顔が白いわりに唇だけきついほど真っ赤だったりと、ちょっとちぐはぐな感じもする。
――だが。
(情熱に満ちた、とても素敵な舞台だわ……!)
仕事の一環であることは肝に銘じながらも、テレーゼは舞台で繰り広げられる劇から目が離せなかった。
普通の貴族の子女ならば幼少期から劇を見に行ったり音楽会に参加したりするものだが、リトハルト家には金がないからテレーゼはそういった経験がほとんどない。あるとすれば「子ども向け無料お芝居」に町の子どもたちに混じって見に行ったことくらいだ。
芸術に触れる機会は少なかったが、母からフルートの手ほどきは受けていたし音楽にも美術にも興味はある。だから、アマチュアだとしても生まれて初めてまともに見る劇に、テレーゼの胸はときめきっぱなしだった。
きらきら輝く透明な板で作った羽根を背負った子どもが、妖精を演じてヒロインに光の粉を振りかける。すると一瞬の暗転の後、ヒロインは粗末なワンピースから華やかなドレス姿に変身する。
貧しい少女が魔法に掛けられ、幸福を掴む。
どの時代、どの国でも形を変えながら存在する、王道の物語だ。
「……まあ、素敵な王子様ですね」
「僕よりも?」
「わたくしにとってはあなたが一番ですよ」
前方から、子爵夫妻がこそこそと話をする声が聞こえる。夫人の声音は先ほどよりずっと穏やかになっており、劇を見るうちに気持ちも落ち着いてきたようでテレーゼもほっとした。
前半が終わっていったん幕が下りたところで、テレーゼは先輩に呼ばれて会場の端に寄った。
「これからわたくしはカードと『施し』の確認をしに参ります」
「分かりました。……あの、わたくしはいかがいたしましょうか?」
今先輩は「わたくしたちは」ではなく、「わたくしは」と言った。
念押しのために尋ねると、先輩は寄り添って座っている子爵夫妻を手で示す。
「あなたはここに残っていなさい。……ああ、といってもぼうっとしょぼい劇を見るのではありません。今は体調が安定しているようですが、夫人の様子をしっかり見ておきなさい。何かあればすぐに、わたくしと子爵家の使用人に教えることです」
(しょぼい、って……先輩からすればそうかもしれないけど……)
今はそれはいいとして、テレーゼにもちゃんと仕事が与えられていた。それも、「夫人の体調を管理する」という役目だ。
一人ではまだ対処しきれないカードの整理や相場の分からない「施し」の管理よりはずっとやりやすいし、テレーゼの仕事としては最適だろう。
(……よし。ここからは私一人になるし、気合いを入れていかないと!)
今は休憩時間。
後半が始まるまであと一時間ほどあり、その間に客たちは軽食を摂ったり知人とおしゃべりしたりするのだが――
「奥様、後半まで時間がございますし、散策に参りませんか?」
テレーゼが申し出ると、振り返った夫人が頷いた。
「分かりました。……あなた、しばし席を外しますね」
「ああ、ゆっくり行ってきてくれ」
子爵の許可も取れたので、テレーゼは夫人の手を取ってホールを出た。
これは講義でも習った、「観劇参加中の作法」である。夫妻で参加している場合、休憩時間に必ず一度は夫婦が別行動を取れるようにする。その言い訳は何でもいいのだが、「花を見に行く」「外の空気を吸いに行く」がメジャーだ。本日は雨模様なので、「散策に行く」というふわっとした言い訳にしておいた。
これは、女性が手洗いや化粧直しに行けるようにするための配慮だった。夫婦といえども人前で手洗いに行く旨を伝えるのには勇気が要る人もいる。だから言い訳をして妻の方を連れ出し、手洗いなどに同行するのも女官など同性のお付きの役目だ。
(要するに、しっかり気遣いをしろ、ということなのよね)
夫人はちょうど手洗いに行きたかったらしく、テレーゼに礼を言って手洗い場に向かっていった。他の貴族も同じように手洗いに来ているからか、その前の廊下にはテレーゼ同様お付きの女性たちが控えていた。その中には見習仲間と先輩の姿もあったが、テレーゼはスカートの裾を摘んでお辞儀だけしておいた。
子爵夫人は間もなく出てきた。
心なしか、その表情は先ほどよりも明るい。
「お待たせしました。少し、立ち話をしておりまして」
「まあ、そうなのですか。お知り合いの方ですか?」
「いいえ、初めてお目見えする方でしたが、わたくしと同じようにチャリティー観劇に初参加らしく、話が合ったのです。……これで旦那様にもよい報告ができそうです」
そういうことか、とテレーゼもほんのり微笑んだ。繊細そうな夫人だが、子爵の妻としての役目をまっとうしようと頑張っているようだ。
これは、テレーゼも負けていられない。
(……よし、後半からも頑張ろう!)




