令嬢、葛藤する
テレーゼはコーデリアの三白眼に見つめられながら、正確に、そして急ぎながらカードを並べていた。
そうしていると――
「まあっ! 何をしているの、ヘレン!」
「も、申し訳ありません、奥様!」
背後で侍女たちの声がしたため、テレーゼたちは同時に振り返った。今、夫人は侍女の手を借りて服装の確認をしていたはずだ。
衣服の毛玉取りに使われるブラシを手にした若い侍女が、顔を真っ青にして立ちつくしている。やや年かさの侍女が慌てた様子で夫人の前にしゃがんで、何かをしているようだ。
「……何か起きたのでしょうか」
「黙りなさい。わたくしたちは指示があれば行けばいいのです」
コーデリアにはぴしゃりと突っぱねられたが、すぐに「お二人、来てくださいな」と落ち着いた様子の夫人に呼ばれた。
呼ばれてそちらに向かうと、年長の侍女が夫人の体からストールを外し、困ったような顔でこちらを見てきた。
「侍女が奥様のストールにブラシを引っかけ、穴が空いてしまったのです」
「これは……かなり盛大に解れていますね」
そう言うコーデリアは落ち着いた様子だが、声はほんの少しの緊張を孕んでいた。
彼女の言うとおり、毛糸編みらしいレモンイエローのストールの縫い目が一部解れて糸が飛び出してしまっていた。遠目に見ればなんとかなる――という程度ではないくらい、ぼこっと大きく縫い目が飛び出している。
ざっと縫い目を確認したコーデリアが、肩を落とした。
「……修復は難しそうです。奥様、ストールを脱いで会場に行かれますか?」
「もちろん、そうするしかないでしょう。しかし……実はこのストール、わたくしとソフィア様がお互い未婚の頃に一緒に編んだ記念の品なのです。ソフィア様にお会いするときには、いつも身に纏うようにしていますの」
「それは……」
さしものコーデリアも口をつぐんだ。
夫人の言う「ソフィア様」とは、レオン大公の母親である太后殿下のことだ。名前で呼ぶ仲だということ、独身時代に一緒に編み物をする間柄だということであるし、彼女がどれほどストールを大切にしていたのかは想像に難くない。
それほどまで大切な奥様のストールに穴を開けてしまった若い侍女の顔は青を通り越して真っ白になり、ぶるぶる震えていた。
「お、奥様、わ、わたくしは――!」
「いいのよ、ヘレン。これを作ってもう二十年近く経ちますもの。これまで保っていたのが不思議なくらいですし、ソフィア様も許してくださるでしょう」
そう言って夫人は今にも失神しそうな侍女を慰めるが、それでも唇にはほんの少し寂しそうな微笑みが浮かんでいる。
(そんな大切な品なんだ……あ、そうだ!)
「あの、僭越ながらわたくしにストールの修繕をさせていただけませんか?」
思いきってテレーゼが進み出た、とたん。
真横から殺人的な視線が飛んできて、テレーゼの背中にゾクッと悪寒が走った。もしその視線に殺傷能力があれば、既にテレーゼは事切れていただろう――それくらいの厳しい眼差しだった。
(余計なことはするな、という命令に違反していることは分かっている。でも……このまま放ってはおけない!)
幸い、夫人はおっとりと首を傾げてテレーゼを見てきていた。テレーゼが口を挟んだのに対して不快に思っているのではなく、興味を抱いているようだ。
「まあ……あなたは裁縫がお得意なので?」
「それなりには。ただ今回は時間もないので、解れを目立たなくさせる方針で行こうと思いますが、それでもよろしいでしょうか」
「……このままではヘレンも辛いでしょうし、あなたに賭けてみましょうか。テレーゼさんでしたか。お願いします」
「はい、お任せください」
テレーゼは年かさの侍女からストールを受け取り、全体に素早く視線を走らせた。相変わらず隣からは渦巻く不機嫌オーラを感じるが、今は手元に集中しなければならない。
(縫い方は――あまり複雑な縫い方じゃないわね。あと毛糸は……ああ、よかった。切れているけれど十分長く残っているし、これまでちゃんと手入れされているからか、少々引っ張っても千切れそうにないわ)
まずはストールの解れた縫い目付近に手を当て、軽く揉むようにしながら縫い目を少し緩める。侍女のヘレンは解れてしまっても無理に糸を切ったりしなかったようで、解れの周囲の糸があまり引っ張られていなかったのも幸運だった。
続いてテレーゼは侍女から編み針を借り、飛び出た糸を慎重な手つきで隣の編み目に引っかけた。
(千切れたらおしまい。ゆっくり、丁寧に、糸同士を馴染ませて――)
双子の妹たちは活発なので、冬場に着ているセーターをどこかに引っかけ、解れさせてしまって帰ってくることがたびたびあった。テレーゼは妹たちに、「もしセーターが解れても絶対に、糸を切らないで帰ってきなさい」と忠告しているのだ。
その時も同じように、糸の飛び出たセーターを修繕してあげた。ややこしい編み目だったり模様が描かれたりしている場合は難易度が高くなるが、シンプルな模様のものなら今までにも何度も直してきた。
少しずつ糸を引っかけ、縫い目を誤魔化す。ストールを目の高さに持ち上げ、最初にやったように布地を軽く揉んで縫い目を馴染ませた。
そうすると――
「……できました。いかがですか?」
「……あら? どこに穴があったのかしら?」
ストールを受け取った夫人が不思議そうに首を傾げたとたん、テレーゼの胸が充足感でかあっと熱くなった。
テレーゼの修繕により、素人の目では解れた箇所が分からなくなっていた。最後の縫い目はストールの裏地に押し込んだので、毛糸も飛び出していない。完璧な出来だった。
しげしげとストールを眺めた後、夫人はにっこりと微笑んだ。
「すばらしい出来ね。これなら着ていけそうだわ」
「ありがとうございます。ただ、応急処置なのでこの後も何度も手入れしたり洗ったりしていると、解れがまた浮き出る可能性がありますので……申し訳ありませんが、その点はご了承ください」
「ええ、もちろんです。……ほら、ヘレン、あなたも礼を言いなさい」
「あっ……! あ、あの、ありがとうございます、女官様!」
それまでテレーゼの手元をビクビクしながら見つめていた若い侍女は夫人に促され、はっとして頭を下げてきた。
どうやら彼女がすぐクビになることはなさそうで、他人事ではあるがテレーゼもほっとした。
「いえ、お役に立てたようで何よりです」
「……マクファーレン伯爵夫人。そろそろお時間でございますので、会場に参りましょう」
「あら、それではわたくしたちは間に合ったのですね。ソフィア様もお待ちでしょうし、参りましょうか。本当に感謝します、テレーゼさん。お礼はまた後ほどということで」
無機質なコーデリアの声を受け、夫人は立ち上がると侍女二人を連れて部屋を出て行った。そうして部屋の前に控えてたらしい騎士を伴い、離れていく。
部屋には、テレーゼとコーデリアの二人っきり。
視線が痛くて、正直怖い。
(き、気まずいわ。でも……)
「……あの、コーデリアさ――」
「余計なことはするなと、言いませんでしたか?」
夫人と話しているときのたおやかそうな声から一転、なかなかドスの利いた低い声に、テレーゼの背筋がびくっと震える。
余計なことはするなと、確かに言われた。
手伝いを申し出たときも、無言の圧力を隣から感じていた。
「そ、それは承知です。しかしマクファーレン伯爵夫人はストールをとても大切にされているようでしたし、あの侍女もかわいそうで――」
「黙りなさい。……今回は夫人が寛容な方であなたの修繕がうまくいったからよかったものの、夫人が厳しいお方だったら? あなたの修繕が失敗し、ストールが余計に酷い状態になってしまったら、どう償うつもりだったのですか!?」
怒りに燃えるヘーゼルの瞳に睨まれ、テレーゼは何も言えなくなった。心臓が嫌な音を立てて脈動しているし、手袋の下の両手は汗でぬめっている。
もし、テレーゼの発言に夫人が気分を害してしまったら?
もし、修繕が失敗して大切なストールを余計壊してしまっていたら?
(私……そこまでは、考えていなかった)
何も言えず黙りこくってしまうテレーゼに一歩詰め寄り、コーデリアはテレーゼを睥睨しつつ吐き出す。
「それに……あの侍女がかわいそうだから、って何? 穴が空いたのは侍女の責任。あの女がクビになろうと何だろうと、わたくしたちに関係はない。……わたくしたちには関係ないまま、するべき仕事を遂行するだけでよかったのに、あなたは自ら他人の問題に首を突っ込んだ!」
怒りと興奮のあまりか、コーデリアの口調が少々崩れている。テレーゼがそれくらいのことをしでかしたという証だろう。
「わたくしがなぜ、『余計なことをするな』と忠告していたのか、分からないのですか!? 勝手な行動で、わたくしが、女官職全体が、皆の信頼を失うことになるかもしれないのだと分かっていなかったのですか!?」
「も、申し訳――」
「……言い訳は聞きたくありません。このことは女官長にも報告します。……夫人が戻ってこられるまでカードと贈り物の整理をせねばなりません。来なさい」
「はい……」
コーデリアは話しているうちにだんだんと落ち着きを取り戻してきたようだが、刺々しさは健在だ。ふいっと顔を背け、テレーゼを残してテーブルに向かってしまった。
(私のしたことは……間違っていたの?)
夫人は笑顔で礼を言ってくれた。
侍女のヘレンも感謝の言葉を述べてくれた。
(コーデリア様は、あの侍女さんがクビになろうと関係ないっておっしゃったけれど……でも、目の前で困っている人、辛そうな人がいるのに、手をこまねくしかできないなんて……嫌だ)
テレーゼの行動は、「女官として」間違いだったとしても、「人として」は間違ってはいなかった――そう信じたかった。




