その令嬢の名は
初秋の空は青く晴れており、土の香りの混じった風が心地よい。
丘陵地帯に広がる、アクラウド公国公都。一年を通して比較的気温の変化の差が緩やかで乾燥しているため、真夏でも風が吹けば過ごしやすく、真冬でも積雪で道が塞がれるということはない。アクラウド公都も夏を乗り切り、実り豊かになる秋を迎えていた。
――そんな公都の大通りには今日も、勇ましい足取りで買い物行脚をする一人の娘の姿があった。
「今日こそはっ! もっちりマダムに勝利するの! ええ、今日こそは!」
腕まくりをし鼻息荒く宣言するのは、ローズブロンドの髪を持つ美少女。
ぱっちりとした大きな目は澄んだすみれ色で、夏の太陽にも負けないくらいきらきらと輝いている。おおよそ一般市民らしくない美貌を持つ彼女だが、着ているのは粗末な綿のワンピースで、左腕にはところどころ穴の空いた籐の籠を持っていた。
黙っていれば可憐な娘、口を開けば「お金!」、市場では値切る。
そんな美少女の名は――
「……テレーゼ様、その、もっちりマダムとおっしゃるのは?」
「私の永遠のライバルよ。あらゆる障害をはね除ける屈強な体に、恐るべき瞬発力を発揮するたくましい両脚。そして、迫り来る敵を威圧するあの眼差し――」
お付きの中年女性に「テレーゼ様」と呼ばれた少女は目に闘志の炎を燃やし、ぐっと拳を固めた。
「この前もあの覇気に負けて、セール品の干し魚を目の前で奪われてしまったの! 今日こそは……って、噂をすればマダム!」
テレーゼの視線の先。
開店準備中の果実店の前に、見覚えのあるふくよかなボディが。
彼女こそ、テレーゼの永遠のライバル――その名も、もっちりマダム。テレーゼが勝手に付けた名前だが、彼女の見目を表すにふさわしい名だと自分でも思っている。
マダムもまた、歩み寄ってくるテレーゼに気付いたようだ。
テレーゼのそれより一回り大きな買い物籠を手にした彼女はふっと笑む。
それは、勝利を確信した強者の余裕の笑みだった。
「おや……また懲りずに来たようだね、お嬢ちゃん」
「おはようございます。……今日こそ一本取ってみせますよ」
テレーゼは自分より二回り以上立派な体躯のマダムの前に立ち、ふふんと鼻を鳴らした。
移動に不便そうなマダムの体型を侮ることなかれ。テレーゼは今までに何度、このボディに吹っ飛ばされてきたことだろうか。
マダムは鉄壁の巨体を揺らしながら小馬鹿にしたように鼻で笑い、高みからテレーゼを見下ろしてくる。
「……ああ、そうだ。お嬢ちゃんってさぁ、お城仕えになってお金持ちになったんでしょ? だったらちょっとは、あたしに譲りなさい」
「ご冗談を。私にも目的があるのだから、引いたりしませんよ。もちろん、手加減もナシです」
「はっはは、そうこなくっちゃね」
「あたしに譲りなさい」と言っていたわりにマダムは楽しそうに笑っている。
テレーゼもまた、にやりと笑みを浮かべ――
その瞬間、大通りの鐘が鳴った。
「はーい、開店ですよー。今日は早い者勝ち、お買い得セールの日でーす」
果物屋の店主が間延びした声と共に出てきて、店の前に立てかけていた看板を「開店」にひっくり返す――と同時に、テレーゼとマダムは飛び出した。
「お嬢ちゃん、いざ尋常に!」
「ええ、負けないわ!」
他の客の勢いに負けじと、テレーゼは果物店に向かって力強く地を蹴った。
その姿を見て、彼女が侯爵家の令嬢であり公城仕えの女官見習であり――次期大公妃の姉であると見抜ける者が、どれほどいるだろうか。
大通りに面した酒場の前では、お日様が煌々と照っている時間から酒を呷っている男たちが、雀の子のように石段に一列に腰掛けていた。
「やあ、見てくれよ」
「まーたリトハルトさんちのテレーゼちゃんがタイムセールに挑んでいるのか」
「リトハルトって……それ、貴族の名前じゃないか? えっ、なんで貴族のお嬢さんがあんなところに!?」
酒を片手に見物に興じる男たちだったが、その中でも比較的若い男が驚いたような声を上げたため、周りの男たちはジョッキ片手にげらげら笑い出す。
「ああ、そういやおまえってあちこちの国を飛び回っていて、最近こっちに来たんだっけ」
「そりゃあ知らないかもなぁ。……後学のために知っておけ。リトハルト侯爵家ってのは、ちょーっと変わったお貴族サマでよぉ」
既にできあがっている様子の男が語ることによると。
――約一年前であれば、「リトハルト侯爵家とはどんな貴族ですか」と問われれば、かつては王都で暮らす誰もが、「万年金欠状態の貧乏侯爵家」と答えただろう。
先代侯爵の時代に起きた大飢饉により侯爵領は壊滅の危機に瀕し、それ以降も土地が肥えず、国からの支援金でなんとか食いつないでいる状態。
名前と屋敷の大きさだけは立派――それがリトハルト侯爵家の実態だった。
「はぁ。つまり、底抜けにいい人たちの集まりなんですね」
「そういうこった。だが……ええと、何ヶ月前だっけ? 大公妃候補が集められたの」
「春だから、半年前だな。大公様が嫁選びをするってことで、国中のご令嬢たちが集められた。そこになぜかテレーゼちゃんも入ってな、お城に行っちまったんだ」
「ええ……そんなのあるんですか」
「あるんだよ。だがまぁいろいろあってなぁ……おい、新しい酒持ってこい!」
彼が二杯目の酒を呷りながら言うことによると。
大公妃選定が進む中、大公国の併呑を企む隣国バルバが次期大公妃誘拐を企てており、次期大公妃の素質を持つと判断されたテレーゼは誘拐された。バルバ王国派は捕らえたテレーゼをさらし、「未来の花嫁の命と大公家存続、どちらを選ぶか」と大公に選択を迫ったそうだ。
それを聞いた青年は首を傾げる。
「あれ? でも俺、今の大公様の妃はリィナ様って言うって聞いたんですけど。確か、平民出身だって……」
「そ。つまりテレーゼちゃんは手違いで捕まっちゃったんだ。その場はなんとか収まったんだが、俺たちと同じ平民であるリィナ様は貴族の名前を得るため、リトハルト家の養子になったんだ」
「そもそもテレーゼちゃんとリィナ様は仲がよろしかったこともあり、養子先はあっという間に決まったそうだなぁ」
「んで、テレーゼちゃんは次期大公妃の姉君になり、女官として出仕することになった今も、ああして安物を求めてバザーに出ているってことだ」
「そ、そんなことがあり得るんですか……」
アクラウド公国に来て間もない彼にとっては、半年前に何が起きたのか想像するのは難しいようで、難しい顔で手元のジョッキを覗き込んでいる。
「といっても、俺たちにとっちゃ毎日が平和で酒がうまけりゃ何でもいい。大公様の結婚式となれば市場も盛り上がってうまい酒も飲めるだろうし、楽しみだなぁ」
「本当に。……おい、俺にも新しい酒!」
「んっふふふふ……桁が、桁が、もう少しで……ふふふ……」
どこからともなく、不気味な声が聞こえる。
その声は薄暗い部屋の奥、こんもりと丸くなったベッドの方から聞こえるようである。
毛布を頭から被り、手にしているノートをニヤニヤしながら眺めているのは、今日一日よく買い物し、よく勉強し、よく食べたテレーゼである。
女官見習として公城に出仕しているテレーゼは今、帳簿を手に至福の表情を浮かべていた。細い指先が帳簿に記した数字を辿り、「あと少し……あと五百ペイルで、桁が上がる……」とうわごとのように呟く姿は、傍目から見ると奇怪この上ない。
半年前、いずれ大公妃となるリィナの実家となるため、リトハルト家には多額の仕度金が舞い込んできた。次期大公妃であるリィナの仕度のために大半を使ったが、それでもかなりの金が自由に使えた。
ただし。
(そのお金のほとんどは、領地経営とかに使ってしまったのよね)
先日、一年の大半を領地で過ごしている父から手紙が届いた。それには、新しい農具をたくさん買えたこと、領民たちの家がほぼ全て修繕できたこと、医者を呼べたこと、農地改革で作物がすくすく育っており、今年の秋には豊作が望めそうだ――ということなどが書かれていた。
領民を救うことができた。それは、自分たちの食事が豪華になることより新しい服を買ってもらえることより何よりも、テレーゼたちにとっての喜びだった。父からの手紙には領民からの感謝の手紙や子どもたちの描いた絵なども同封されており、母は感激で涙を流していたものだ。
(本当にお父様もお母様も、領民第一なんだから! でも、毎日汗水垂らして働いてくれる皆を助けるのが、私たち貴族のつとめなんだからね)
遥か昔にリトハルト家が侯爵位を賜ってから祖父の代に飢饉が起きるまで、民たちは侯爵家のためによく働いてくれた。今こそ、何代にも渡って侯爵家を支えてくれた皆のためにテレーゼたちが奮起すべきなのだ。
(これは、マイナスをゼロにできただけに過ぎないわ。私はこれからもしっかり、お金を稼がないと!)
テレーゼは貴族令嬢が就ける数少ない仕事の一つである女官になれたものの、今はあくまでも「見習」の立場。仕事より勉強の比重が大きく、試用期間ということで給料も控えめだ。
だが、薄闇の中で目をらんらんと輝かせて帳簿を見つめるテレーゼの表情は生き生きとしており、貧乏であることへの恥じらいや負い目など一切見られない。
(お金を稼ぐのは、もはや私の趣味みたいなもの。エリオスたちにたくさんのものを買ってあげたいし、筋張っていないお肉もたくさん食べさせてあげたい。それに――)
かつては、家族と領民の生活水準さえ向上できればよかった。
だが、今の彼女には次期大公妃である妹リィナがいる。
(リィナの姉として恥ずかしくないように、胸を張ってリィナの隣に立てるように……もっともっと、頑張らないとね)
それが、テレーゼが令嬢らしからぬ行動を取って皆に呆れられたりドン引きされたりしようと、己のポリシーを曲げない理由。
(……ああ、そろそろ寝ないと。明日は女官長様から呼び出しが掛かっているんだっけ)
テレーゼは帳簿の表紙にキスをし、枕の下に滑り込ませた。なんとなく、こうしているといい夢が見られそうな気がするのだ。
女官見習として公城で生活するようになったため、枕も上掛けも実家とは比べものにならないほどふわふわだ。
(領民たちは硬い枕と薄い布団で毎日寝ている。エリオスたちだって、これよりずっと綿の少ない上掛けで我慢している。そのことを忘れたらいけないわ)
家族や領民を守るため、テレーゼは頑張れる。
(明日もいい一日になりますように!)
そうして一息のうちに、テレーゼは眠り込んだ。
よく食べよく動くテレーゼは、たいへん寝付きのよい子なのであった。




