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大公妃候補だけど、堅実に行こうと思います  作者: 瀬尾優梨
web版続編

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テレーゼの道

ジェイド、またしても頑張るってよ

「……まあ。それではコリック家の方々にも受け入れてもらえたのね」


 時刻は、夜のはじめ。

 テレーゼは女官の姿でリィナの部屋にいた。もうじきリィナも就寝なので、休憩時間を共に過ごしていた。


 テレーゼが婚約報告のことを伝えると、リィナは破顔して祝福してくれた。


「それに、サフィーア嬢ともうまくいったようね」

「ええ。サフィーア様は子どもの頃の出来事がトラウマで夜会にも行けなかったそうだけれど、いずれ行ってみるそうです。結婚なさったら旦那様と一緒に夜会に参加することもあるでしょうからね」

「それでは近いうちに、私名義で夜会を開きましょうか。もちろん、規模は小さめで。サフィーア嬢が肩肘張らずに参加できるようなものでも」

「はい、そうしていただけると嬉しいです」


 侍女が淹れた紅茶をリィナが飲む。


「ときに……リトハルト家からもコリック家からも承諾を得られたのだから、いよいよジェイド殿と婚約するのね」

「はい。明日には書類が完成するから、一緒に届けに行きます。……といっても、お付き合いから婚約まで短すぎるでしょうか?」

「そんなことないわ。お付き合いをすっ飛ばして婚約することもあるそうだから。ただ、婚約の後が長いからね。侯爵令嬢と伯爵嫡子なら早くても三月、平均で半年くらいね」

「なるほど……あの、ちなみにお姉様は……」

「私? 私はもっと先でしょうね。というか、まだ婚約もしていないから。こっちは準備もあなた以上になるし、先にジェイド殿と幸せになるのよ、テレーゼ」

「は、はい!」


 その後、レオン大公の元に挨拶に行くリィナの付き添いをし、部屋まで送り届けてから護衛の女性騎士に後を託してテレーゼは部屋を辞する。


 足取りは軽い。何も考えなくとも、足は目的の場所へと向かっていく。


 廊下の角を曲がり、風通しのいい開放廊下へ。

 大好きな人は、今日もそこで待ってくれている。







 翌日、テレーゼは半日の休暇をもらい、ジェイドと共に婚約届けを提出した。

 アクラウド公国の貴族が結婚する際は、両者の親ないしは後見人のサイン、本人たちのサイン、そして大公のサインと印が記された書類を提出することで婚約が成立する。場合によっては大公などを交えた上層部による審議を通す必要があるが、今回はこれといった問題もなく提出することができた。


 テレーゼは大公のサインをもらう際にはさすがに緊張したのだが、当の大公はどこか虚ろな目でテレーゼとジェイドを見た後、深々とため息をついてサインし、判子をぺったんしてくれた。妙に元気がないのだが、もらうものはもらえたのでよしとしておいた。


 テレーゼはジェイドと一緒に、廊下を歩く。

 窓の外に広がる暖かな春の日差しまでもが、二人を祝福してくれている――


 ――ことはなかった。


「……今日は廊下、行けないわね」


 窓の外を眺め、テレーゼはぼやく。

 本日は、あいにくの雨。それも、大雨。ダーーーーッ、と音がするくらいの雨。


 女官仲間から借りた本には、恋人の結婚報告の日などはからりと晴れたいい天気になるものなのだが。現実は優しくなかった。もしかすると大公のご機嫌が斜めだったのは、この憂鬱な天気のせいなのかもしれない。


 テレーゼお気に入りの廊下は、開放廊下だ。閉鎖廊下と違い、壁と天井がないあの場所は雨天通行不可だ。若い男性や騎士、非常に急ぐ者などは決死の覚悟で渡るそうだが、足元は滑るしびしょ濡れになるし。少々遠回りにはなるが、テレーゼら女性は一階下の閉鎖廊下まで迂回するしかない。


 雨に打たれる恋人たち、と言えばなんとなくロマンチックな響きだが、この大雨の中では滝に打たれるも同じ。ロマンの前に全身濡れ鼠になるだけだ。


 テレーゼの呟きを聞いたジェイドは、同じように窓の外を見やって肩をすくめた。


「そうですね……私もあそこが気に入っていたので、残念です」

「本当に……今日は晴れてほしかったのだけれどね」

「はい。でも私の側にはいつも眩しい太陽のようなあなたがいてくれるので、曇天でもさみしくはないですよ」


 来た、ジェイドお得意の、「モードを切り替えていきなり甘い言葉を囁く」攻撃。


(むむっ、さすがジェイド! 先制攻撃を仕掛けてくるというのね!)


 テレーゼは足を止め、ふふっと余裕たっぷりに微笑む。テレーゼとて、やられっぱなしではない。


「そんなこと言って。だったらジェイドは、私にとってのお星様よ。いつだって私の進む先の目印になってくれるんだから」

「そうですか? ……ということは、あなたはこの世にごまんとある星の中から、私を見つけ出してくれたのですね」

「っ……そ、そうよ! ジェイドがいてくれないと、私はやっていけないんだから!」

「それは私も……いえ、俺も同じですよ」


(ぐはっ、「俺+敬語」の破壊力ッ!)


 くらりときそうになったが、テレーゼは踏ん張る。


「そ、それなら私たち、えーっと……あれよ、あれ。生命共同体? 共依存? ってやつね!」

「後者はちょっと違うと思いますが……まあ、いいです。それより……」

「ん?」

「キスしてもいいですか、テレーゼ様」


 ジェイドの攻撃。テレーゼは、驚き固まっている。


 テレーゼは目を剥き、目の前のジェイドの顔を凝視する。先ほどまではドーーーーーーッとやかましかった窓の外の轟音も、今はちっとも耳に入ってこない。


「……え? き、きす?」

「だめですか?」

「だめじゃないけど……い、いやいや! 婚約したとはいえ、未婚の男女がキスって……」

「普通でしょう?」

「……普通だったわ」


 そうでした。

 アクラウド公国の城下街を歩いていると、あちこちでカップルたちがキスしている。それは身分の貴賤に関わらない。テレーゼも城勤めを始めて、何度も廊下の影でキスをしているカップルを見かけてきた。職務中なら通報モノだが、お互い休憩時間ならば見て見ぬふりをするのがマナーである。


(いやいや! ここで流されちゃダメでしょ、テレーゼ!)


「で、でも、ここは廊下で人通りも……」

「ありませんね」

「……そうね」


 こういうときに限って、見張りの騎士の姿も見あたらない。

 実際、二人の雰囲気を察した騎士がそれとなく廊下の影に身を隠してくれたのだが、テレーゼはそんなことを知らない。


 あわあわと言い訳を考えようとするテレーゼを見つめていたジェイドだが、ふとその眉が垂れ、不安そうな表情になる。


「……ひょっとして、俺とキスするのは嫌ですか?」

「いっ!? い、いえ、嫌じゃないけど……」

「嫌じゃないんですね」

「嫌じゃないわ!」

「ならいいじゃないですか」


 テレーゼ、敗北。


(……なに、意地になってるんだろう、私)


 負けてしまうと急に、ざわついていた心が穏やかになる。なんでここまで必死になっているのか、ジェイドに悲しそうな顔をさせてまで拒絶しているのか、分からなくなる。そんな自分が、滑稽に思われてくる。


(そうだ……お母様のメソッド集にもあったっけ。『掴んだチャンスは絶対に逃さないこと』『たまには相手に流されてしまうこと』って)


 じわじわと頬に熱が上ってくる。テレーゼはジェイドの服をきゅっと掴み、顔を覗き込む。


「テレーゼ様……?」

「き……キス、してください……」


 目尻が熱い。息が上がる。

 精一杯の思いでそうおねだりをしたテレーゼ。対するジェイドははっと目を見開き、やや目つきを鋭くする。


「……そんな可愛いことを言って。俺の理性を試しているのですか」

「りせい?」

「何でもありません。……好きですよ、テレーゼ」




 初めてのキスは甘い。

 それは事実だと、テレーゼは知った。



 顎を持ち上げられ、保湿用のクリームを塗った自分の唇に、ジェイドの薄い唇が重なる。

 労るように、壊れ物を扱うように、優しく数度重なり合った後、ふわりと離れていく。


 時間にすると、ほんの数秒。それなのに、体はカッカと火照って暑く、城の廊下の端から端まで全力疾走したかのように息が切れる。


 ぼんやりとした視界の中、体を離したジェイドが泣き笑いのような表情を浮かべている。


「……かわいい」

「……ぅぇ?」

「もっとしたいけれど、ここじゃできないからやめておきます」

「……やめちゃうの……?」


 とろんとした意識のまま、テレーゼは問う。脳みその大半が正常に機能しておらず、自分の台詞がジェイドの劣情を擽るなんて、露ほども思わず。


 こくり、とジェイドの喉仏が動いたような気がする。だが彼は緩く笑い、テレーゼの桃金髪を大きな手の平で優しく撫でてくれた。


「ええ、今回はここまでです。続きは、また次回」

「……次回……」

「そう、次もちゃんとあるんですよ。さっきも言ったでしょう、あなたは俺にとっての太陽なんです。眩しく輝くあなたを、手放したりしませんよ」


 大きな温かい掌が、愛おしい。テレーゼを気遣う彼の想いが、あたたかい。


(……そう、そうだね。次もあるんだ)


 次も、その次も。


 空が晴れたら、明日になったら。


 また、こうやってジェイドと会える。


 それの、なんと幸せなことだろうか。


 くすっと、テレーゼは小さく笑う。


「分かったわ。……ねぇ、ジェイド」

「はい」

「これからも……よろしくね」


 ――私の心の中で輝く、一番星でいてね。


 テレーゼの体が抱き寄せられる。ぽすり、とジェイドのぶ厚い胸板に頬を押しつけ、テレーゼは目を閉じた。


 窓の外の嵐は、少しだけ収まっていた。










 テレーゼは、テレーゼらしく生きる。テレーゼらしく生きていい。

 それを教えてくれたのは、リトハルト家の家族の皆や、コリック家の皆。


 明日からも、テレーゼは自分の信じた道を進んでいく。

ここでひとまず、「お宅訪問編」は終了です

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