テレーゼのお願い
ちょっぴりお砂糖
数日後、いつもの開放廊下にて。
「お待たせ、ジェイド!」
テレーゼはぱたぱたと背の高い恋人の元に駆け寄る。やはり今日も、彼はテレーゼより先に来ていて彼女を待ってくれていた。
ジェイドははっとして振り返り、慌てたように両手を差し伸べてくる。
「テ、テレーゼ様! 走ったら転びますよ!」
「そうしたらジェイドが抱きとめてくれるんでしょ?」
どーん、とタックルする勢いでジェイドの胸に飛び込んだテレーゼは、えへへ、と笑ってみせる。かなりの速度で衝突したはずだが、ジェイドの胸板はびくともしない。さすが、騎士。
「今日はね、ジェイドに見てほしいものがあるのよ」
「私に?」
「そう。見て、これよ」
そう言ってテレーゼは肩に提げていたポシェットを引き寄せ、中の物を取りだした。
夕闇の中で、テレーゼの手の平に乗ったそれが眩しく輝いている、ように思われる。発光しているわけではないのだが、色が白いのでそう見えるのだ。
ジェイドもまた、驚いたようにテレーゼの手の中の物体を眺めていた。
「これは……布ですか?」
「ん、まあそんなところ。まだ制作段階だけどね」
そう言って、テレーゼは今度のコリック家訪問時の予定をジェイドに教える。
メイベルとトーマスの活躍によって得られた、意外な情報。それらはコリック家で生まれ育ったジェイドにも思い当たる節があったようで、彼は目を丸くしつつ、テレーゼの計画を聞いてくれた。
「……なるほど、あなたは姉にそういった贈り物を」
「そういうこと。……ジェイドからしたら、どう? サフィーア様はただ単にお花が好き、ってわけじゃないってことから考えたのだけど……」
「……確かに、あの姉ならばテレーゼ様の意図にも気付くでしょう。なかなかおもしろい発想だと思います。それに、いかにもあなたらしいですし」
ジェイドからもオッケーがもらえた。
二人は顔を見合わせ、くすくすと忍び笑いを漏らす。
「……来週ですね、リトハルト家と我が家への訪問」
「ええ。……ひょっとしてジェイドも緊張している?」
「もちろんですよ。母君には一度お会いしましたが、父君やご兄弟とは初対面ですからね。舌を噛まないように話ができるか、これでも不安に思っているのですよ」
「あっ、ジェイド情報みっけ。ジェイドも、舌を噛むことがある」
「そりゃ、私だって人間ですから……」
テレーゼはジェイドのお墨付きをもらった「サフィーアへの贈り物・途中段階」をポシェットにしまい、くふふ、と笑いを零す。
(うんうん、上々だわ! サフィーア様への贈り物も、ジェイド情報も、いい感じ!)
あれからテレーゼはメイベルと、時にはリィナの助言も得てジェイド情報の収集に努めた。
肩提げポシェットは、ここ数日のテレーゼの常備品だ。さすがに女官の職務中は外しているが、ジェイドと会うときやリィナと休憩するとき、メイベルとの情報交換時にはいつも持っており、中にあるマル秘メモ帳にジェイドに関する情報を書き込んでいた。
メイベルからは「道徳に反することはやめてくださいね」と言われ、リィナからは「あのね、胸の大きさとか、そういうのは今はナシでいいから」とため息をつかれ、情報を精選してメモしていく。
メモ帳には「好き」「嫌い」に大きく欄を分け、その他には「癖」「趣味」などの項目も作っている。すぐに適切な場所に書き込めるようにとの、元官僚であるリィナのアドバイスだ。
ジェイドは、後ろを向いてマル秘メモ帳にせっせと書き込みをするテレーゼを、黙って見守っていた。最初の頃はメモ帳に必死で書き込みをするテレーゼを見て不安そうな目をしていたが、最近は見逃してくれるようになった。
夜風が吹く。
この時間帯はこの廊下に限らず、日中は仕事に忠実な城仕えの人間たちが家族や恋人、はたまた親しい仲間たちと過ごす時間である。日中勤務の者は夜勤の仲間に後を任せ、自由時間を満喫する。レオン大公は城仕えの人間の勤務形態にも意識を向けており、申請なしの超過勤務は罰則対象となる。
働くときは働き、憩う時は憩う。モードの切り替えをしなければならないのだ。
「……私、いまだにぼんやりとしているの」
テレーゼはメモ帳をポシェットに戻し、ぽつんと呟く。傍らにいるジェイドがこちらを見ているのを感じる。
「一年前は貧乏侯爵家の娘。家族や領民を支えるのに手一杯で、結婚とかお付き合いとか、そんなことも考える余裕もなかったわ」
「……ご両親は、あなたの結婚について何かおっしゃっていたのですか?」
「いえ、特に何も。さすがに跡取りになるエリオスに関しては気を配ってらっしゃるようだったけれど、私は娘だからね。特に何も言われなかったけれど……でもきっと、家のためになるような人を捕まえてほしい、とは思われていたでしょうね」
両親は、本当に何も言わなかった。
リトハルト侯爵家には、ほいほいと夜会に参加できるような金銭的余裕も、娘を飾れるだけのドレスや宝飾品もなかった。だからテレーゼが夜会に出て有力な貴族の子息に見初められる、という可能性は絶望的な数値だったことだろう。
勝率があるないの問題ではない。そもそも、戦場に出ることすら叶わなかったのだから。
両親は何も言わない。だがテレーゼは感じていた。両親は、子どもたちに裕福な生活を送らせてやれないことに、己を責めていた。幼いマリーやルイーズはともかく、エリオスも目にしたことがあるかもしれない。夜中、農作業から戻ってきた父親と母親が、難しい顔で帳簿とにらめっこしている姿を。
テレーゼはお金が大好きだ。お金は、あればあるほどいい。
お金があれば、両親が涙を呑んで生活費を削ることもしなくていい。領民への税の負担を軽くしてやれる。弟妹たちに流行の服を買ってやり、国立学校の進学費を捻出することもできる。
「がめつい女」「守銭奴」「貴族の風上にも置けない」と、何度陰口を叩かれたか。街でマリーたちと歩いていて、通りすがった上品な身なりの令嬢に嘲笑われ、慌てて妹たちの耳を塞ごうとした。塞ごうとしたが、テレーゼの両手は二本しかない。とっさのことで、ルイーズの耳は塞げたがマリーまで守ってやることはできなかった。あの時ほど、「腕がもっとほしい」と思ったことはなかった。
両親は、テレーゼの将来について何も口出ししなかった。でもきっと、内心では思っていたはずだ。
どうにかして、リトハルト家を再興させるきっかけを握ってほしいと。
思いがけない形で、テレーゼたちの願いは叶うこととなったのだが。
「レオン殿下の花嫁捜しに私が関与しなければ、私はジェイドと知り合うこともなかったわ。もしそうだったら今頃、まだおんぼろの屋敷でちまちまパッチワークをしていたでしょうよ。……もしかしたら、私の『侯爵家の娘』という肩書きを競りに出して、お買いあげくださった人に嫁いでいたかもしれない」
「テレーゼ様……!」
「でも、今は違うのね」
裏返った声を上げたジェイドを、テレーゼは振り返り見る。
「リトハルト家は持ち直した。私には姉ができて、就職もできて、それに……優しい恋人もできた。一年前の私が聞いたらおったまげるでしょうけど、夢じゃないのよね」
「これが夢だなんて困ります」
「それもそうね」
テレーゼは笑う。焦ったような表情だったジェイドも今は肩の力を抜き、緩く微笑んでいる。
「ジェイド、改めて来週の訪問、よろしくお願いします」
「こちらこそ、テレーゼ様」
「……あのさ、その『テレーゼ様』呼び、なんだか距離感を感じちゃうんだけど」
この際にと、テレーゼは前々から思っていたことを述べてみる。
(そりゃあ、侯爵家と伯爵家で、私の方が身分は上なんだろうけど……)
こちらは「ジェイド」と呼ぶのに、あちらは「テレーゼ様」と敬称付きだなんて。
せめて、周りに誰もいない時くらいは。
テレーゼの言葉に、ジェイドは困ったように眉を寄せる。
「……それはつまり、呼び捨てにしろということですか」
「ええ、まあ。なんというか……人前では仕方ないにしても、ほら、今みたいな時は、様は取っ払ってほしいな、って思って。あと、たまには砕けた口調で接してほしいかな、って。……だめかな?」
「何をおっしゃいますか。愛おしい女性のお願いを、男が無碍にするわけないでしょう」
おずおずと申し出たテレーゼだが、思いの外ジェイドは素早く返事をした。
(……ん? なんだかまた、雰囲気が変わったような……)
ちょっと前にここで立ち話をしたときも、ジェイドは妙に甘ったるい話し方をしていた気がする。ふっとした拍子に、彼の纏う雰囲気すら変わって見えるのだ。
ジェイドのわずかな変化に小首を傾げるテレーゼだが、ジェイドは真面目な顔で頷いて、テレーゼの手に自分の手を重ねる。
「……分かりました。あなた相手に砕けた口調というのもなかなか難しいのですが、努力します」
「! ありがとう、ジェイド! 大好き!」
思わず弟のエリオスの時と同様にぱあっと顔をほころばせ、好意の言葉を口にしたテレーゼだったが。
「ああ、テレーゼ。俺も愛しているよ」
ジェイドのその言葉に、テレーゼの動きが止まった。
しばし、二者の間を夜の風のみが吹き抜ける。
緊急停止装置が発動したテレーゼを、ジェイドは真摯な顔で見つめていた。今、自分がどんなに巨大な爆弾を投下したのか、分かっていないようだ。
テレーゼは黙っている。さすがに心配になったのか、ジェイドが不安そうに眉を垂らせてテレーゼの顔を覗き込む。
至近距離まで、ジェイドの顔が迫ってくる。
「テレーゼ?」
「……………」
「……あの、そんなにお嫌でしたか、テレーゼ様」
「はっ!? ……ぬおっ!?」
ぎゅるん、とテレーゼのスミレ色の目が回転し、そしていつの間にか鼻先まで近付いてきたジェイドの端正な顔を目にし、勇ましい声を上げてしまう。
「ジェイド、いつの間にそんな近くに!?」
「さっき近付きましたが……」
「あ、危ない危ない! 私の意識は今、お星様と一緒に夜空を駆けていたわ!」
「…………」
火照ったかのように、ぱたぱたと自分の顔を手で仰ぐテレーゼ。ジェイドは「……お星様……」と呟き、テレーゼをなんだか微妙な表情で見下ろしている。
(なんというパンチ力! 敬語抜きのジェイド、破壊力抜群だわ! これじゃあ、いつかやられてしまう……!)
テレーゼはグッと拳を固める。
「いけないわ……これでは非常にいけないわ!」
「何がですか?」
「敬語なしのジェイドがあまりにも格好良すぎて、クラクラしちゃったの! だからいずれ、耐性を付けるわ!」
「何のですか?」
「あなたの!」
よし! とテレーゼは心のメモ帳に新たな事項を書き込む。
(私ばっかりやられるなんて不公平だわ! よし、またいずれメイベルやリィナお姉様に相談して、ジェイドを打ち負かせるような必殺技を考えないと!)
負けず嫌いなテレーゼがキラキラの笑顔で今後の抱負を胸に刻む姿を、ジェイドは静かに見守っていた。突っ込むのも野暮だろうから。
「……耐性なんて、付けなくていいんですけどね」
テレーゼに聞こえないよう、ジェイドはそう呟いた。
ジェイドの一人称は、時によって使い分けているようです。




