テレーゼの決意
ジェイド、頑張るの巻
大公妃付き女官はなにもテレーゼのみの特権階級ではない。先ほどのソフィアも同じく女官だ。ただ、テレーゼは「専属」であり、他の女官よりも拘束時間が長いという違いがある。
とはいえ、女官職にもちゃんと休憩の時間はある。食事はゆっくり摂れるし、夜勤でなければ睡眠時間も十分。リィナの就寝時は女官ではなく女性近衛兵が寝ずの番をするのだ。
本日のテレーゼの仕事は、夕食などを終えたリィナと一緒にレオン大公の部屋に行き、リィナが大公に就寝の挨拶をし、彼女を部屋に送り届けるまで。
今日も大公はリィナの顔を見ると喜色満面で両腕を広げたが、リィナが抱きつく代わりに拳を固めてボディーブローの構えを取ったのを見て、渋々収まった。金髪碧眼の美男子であるレオン大公は、強引ではあるが実力も高い。ただし、未来の妻であるリィナの前ではかなり締まりがなくなるので、リィナがばしっと切り捨てるのだ。
「おやすみなさいませ、殿下」「……ああ、おやすみ、リィナ」と当たり障りのない会話をする二人を、テレーゼは黙って見守る。「結婚するまでは過度な接触を禁ずる」とリィナに釘を刺された大公は、「待て」を喰らった大型犬のようだ。
リィナを部屋まで送り、彼女を女性近衛兵に託してテレーゼの業務は終了。報告書を書いて提出したら、後は休憩時間だ。
テレーゼは時計を確認しつつ、自室に戻って報告書を仕上げる。急いで書きたいのは山々だが、急げば急ぐほど誤字は増える。先日は完成した書類を急いで丸めたものだから生乾きのインクが移ってしまい、結局書き直す羽目になった。
そうなれば時間も、紙も、インクも無駄だ。非常に無駄だ。それくらいなら、一発で完成させられるように落ち着いて書くのがベストである。
なんとか誤字なく報告書を仕上げ、女官長に提出する。女官長の部屋を辞して廊下に出たときには、もう外には美しい星空が広がっていた。「彼」との約束の時間ギリギリだ。
テレーゼはしずしずと廊下を歩く。既に勤務時間は終わっているとはいえ、実家の時のように廊下を全力疾走するわけにはいかない。道中通りすがる近衛や侍女たちにも、淑女の礼をする。
気品を損なわず、それでいて急いで待ち合わせ場所に向かう。「彼」との逢瀬の場所は決めていた。夜空がよく見える、開放廊下だ。
ドレスの裾を持ち上げてテレーゼが廊下の角を曲がると、「彼」はもう、そこにいた。
使用人たちの通用廊下である開放廊下。風通しが良く、雨天時には通行止めになるものの見晴らしも良くて、晴れた日には公都の隅々まで見渡せる天空の通り道。
この廊下には、あまり灯りも点いていない。だから手摺りに寄り掛かって星を眺める「彼」の姿は闇に沈んで見え、その憂いを帯びた横顔に思わずどきっとしてしまう。
渋い茶色の髪に、濃い緑色の近衛兵の制服。がっしりとしていて、かといってゴツいと言うほどではない引き締まった体躯。
「彼」は、テレーゼの足音に気づいたように振り返る。モスグリーンの目が、瞬く。
「テレーゼ様」
「お待たせしました、ジェイド」
テレーゼは彼の元まで歩み寄り、ドレススカートの裾をつまんでお辞儀をする。このお辞儀の仕方もだいぶ板に付いてきた、と思う。
体を起こしたテレーゼの前に、手袋に包まれた手が差し出される。テレーゼのそれより一回り以上大きな、ジェイドの手。
テレーゼは彼の手に自分の手を重ね、彼に引っぱられるまま距離を詰める。詰めるといっても、二人の間は拳二つ分は空いているが。
彼の手は、ちょっぴり冷えている。暖かな時期といえど、夜はそこそこ冷える。大遅刻はしていないはずだが、ジェイドはどれくらいの間、ここで待っていたのだろうか。生真面目な彼のことだから、かなり前から待っていた可能性もある。
「ごめんなさい、夜は冷えるのに……」
「あなたを待つ間、自分の心を落ち着けることができました。それに、あなたを待たせるよりも自分が待つ方が、よっぽどいい。それだけ、あなたに会うのが楽しみになる」
低くて暖かみのあるジェイドの言葉。てっきり「そんなことありませんよ」とサラリと流されると思いきや、思わぬ攻撃を喰らい、テレーゼは一瞬固まる。
(……あれ? ジェイドって前からこういうこと言ったっけ?)
他の人よりは口数は少ない方だと思っていたが、ひょっとしたらテレーゼと親しい間柄になれたから気を許してくれているのかもしれない。そうだとしたら、彼のこの変化は喜ぶべきことだ。
うんうんと一人で頷きながら結論を叩き出したテレーゼは、にっこりと彼に微笑みかける。エリオスの時もそうだったが、男性というものはどうしてこうも背が高いのか。これでは見上げるだけでも一苦労ではないか。
「そうなの? ありがとう。……そうそう、今日実家から帰ってきたところなのよ」
「そのようですね。では、ご両親に私のことを?」
「父は不在だったけれど、それ以外の家族には。皆、あーだこーだ言いつつも賛成してくれたわ。日取りを決めたらそれに合わせて、父にも戻ってきてもらうわ」
「それは有難いことです」
「ジェイドの方は?」
テレーゼとジェイドは先日、この場所でプロポーズイベントを起こしてから、「自分の家族に報告してからもう一度会う」ことにしていた。ジェイドもこの数日間で一度実家に帰り、家族に事の次第を語ってもらったはずだ。
ジェイドはゆっくりと微笑む。
「はい、両親と姉に報告しました。三人とも、あなたの訪問を首を長くして待っているでしょう」
「そう……よかった」
ジェイドの方から彼の姉のことが出てきたので、ほっとした。両親含めて三人、ということは彼のきょうだいは姉であるサフィーア・コリックだけ。
(ジェイドのお姉さん、仲よくしたいな……)
そう考えるテレーゼの隣で、ジェイドがはっと目を丸くした。
「……そうだ、まだ姉のことを知らせていませんでしたね。失念しました」
「いえ、私もエリオスに指摘されて気づいたから」
「誰ですかエリオスって。……あ、いや、違うな。弟君ですね、すみません」
「ええ。……それで、ジェイドのお姉様とはどんな方なの?」
「どう、と言われたら困りますが……」
ジェイドは本当に言葉に困っているのか、眉を寄せてしばし考え込む。実の姉の説明をするのにこれほどまで悩むものなのだろうか。
(私だったら、「天才の弟エリオス」と「お茶目な妹マリー」と「頑張り屋さんの妹ルイーズ」ってすぐ答えるんだけどなぁ)
結局、ジェイドが言葉を発するまで、かなり時間が掛かった。
「……その、なんというか。性格はおそらく、私とは違うと思います。私は父似、姉は母似なので」
「なるほど……容姿は?」
「私が女性になったらこんな感じだろう、とよく言われます」
そう言われ、テレーゼは再び「ジェイド女性バージョン」を考える。
考えようとしたが、脳みそが緊急停止指令を出した。
だからやめておくことにした。
「リィナお姉様から伺ったのだけれど、サフィーア・コリック様とおっしゃるそうね。婚約者もいらっしゃるとか」
「ええ、まあ。姉は人混みが嫌いで、一人で気楽に過ごすのが好きなのだそうです。普段は実家で趣味に時間を費やしています」
「趣味とは?」
興味を惹かれ、テレーゼは身を乗り出す。
(よし、もしかしたらここで、サフィーア様への贈り物が思いつくかもしれない!)
ジェイドは乗り気になったテレーゼに目を丸くしつつも答えてくれた。
「姉は花が好きなのです。自分用の花壇を庭に構えており、せっせと毎日花の世話をしています」
「お花の世話!」
テレーゼは目を輝かせた。これは大きな収穫だ。
「ご自分で手入れをなさるのね! すごい!」
「そうですね、花は種から育てるのが好きなのだそうです。昔から使用人に混じって、泥だらけになりながら花壇の世話をしていましたから」
となると、ジェイドはそんな姉の背中を見て育ったのだ。
なんだか、彼がテレーゼの奇行にドン引きしない理由が、見えてきた気がする。
(つまり、サフィーア様はお花関連ならば広く興味があるのね……なるほど!)
「……そんなに姉のことが気になりますか?」
ジェイドに尋ねられ、テレーゼは正直に頷く。
「ええ。サフィーア様とも仲よくしていきたいから、サフィーア様のことを知ることができて嬉しいの」
「なるほど、それは弟として光栄です。……しかし」
ジェイドの声が若干低くなる。おや、とテレーゼが紫色の目を瞬かせる間に、テレーゼの右手がジェイドの手に包まれていた。
電光石火。ついさっきまでは手摺りに載せていたはずの手が、今はテレーゼの手を覆い隠している。
「……姉のことばかり話題に出されると、妬いてしまいます」
「……何を焼くの?」
「姉に」
「お姉さんを焼くの!? ……あ、違う。えっと……」
つまりは、嫉妬。
テレーゼが姉のことばかり話題に出すものだから、姉に嫉妬する。
(……えーっと? つまりそれは……)
「……せっかくあなたと恋人になれたのだから、もっと私に興味を持ってほしい……そう思うのは、悪しきことでしょうか」
モスグリーンの目がじっと自分を見つめている。彼の双眸に、ぽかんとしたテレーゼの顔がふたつ、映り込んでいる。
今になってやっと、じわじわと頬に熱が上ってくる。テレーゼの血液は、仕事をするのが遅かった。
「……えっ、あの……」
「姉のことは、まあいいです。でもそれ以上に私は、あなたに私のことを知ってもらいたい」
「ジェイドのこと……」
彼に指摘され、テレーゼは気づいた。
(私、ジェイドのことをまだ知り尽くしていない……)
いろいろあって、彼はテレーゼのことをよく知っている。
だが、逆はどうなのか?
(私が知ってることといえば、えーっと……)
テレーゼは指折り数える。
ひとつ、彼は埃に弱い。
ふたつ、彼は野草に詳しい。
みっつ、彼は胃が強い。
(……どうしよう、三つしか挙げられない……)
今さらの頃にショックを受けるテレーゼ。これではいけない。
もし、ジェイドの姉のサフィーアに「ジェイドの好きなものを知っている?」など聞かれたらどうすればいいのか。そもそも、恋人の好物も知らないなんて、なんたることだ。
彼の方は、テレーゼの性格やら実家の事情やら細々とした傾向やら、いろいろ把握しているというのに。
テレーゼはぐっと、ジェイドの手の中で拳を固める。おや、と言いたげにジェイドが首を捻る。
「……決めたわ。ジェイド、私、頑張る」
「? ……ええと、具体的に何を?」
「私、もっともっとジェイドのことを知るわ! このままだと結婚なんてとんでもないわ」
テレーゼは決意を言葉にする。そんなテレーゼを、ジェイドは静かに見守っている。
「ジェイド、私はこれからもっともっとあなたのことを知ってみせる。それで、もっとあなたのことを好きになるから!」
ぱあっと、目の前が一気に開けた。今からテレーゼがすべきことが、急にはっきりと具体的な形となって見えてきたのだ。
ジェイドのことをよく知ること。
そしてサフィーアと仲よくなること。
それを踏まえて、ジェイドとの交際をより実り多きものにすること。
うきうきと目を輝かせるテレーゼを、ジェイドは小首を傾げて見つめ返していた。
なんだか、自分が当初思っていた方向とは別の方にテレーゼが爆走していった、そんな感じがする。
――だが、それもいいのかもしれない。
ジェイドはいつの間にか笑みを浮かべ、スミレ色の目を輝かせるテレーゼを優しく見つめていた。
甘い雰囲気やら嫉妬やらを全てぶっ飛ばす、その名はテレーゼ




