弟の宣言
「姉様、ちょっといいですか」
応接間前の廊下にて。
呼び止められたテレーゼは茶器を持ったまま、振り返る。そこに立っていたエリオスはテレーゼが茶器を持っていることに気づいたのか、「あっ、すみません」と詫びる。
「食器をお持ちですね。僕が持ちますよ」
「ありがとう、でもいいのよ、エリオス。家にいる間くらいは、昔のようにしていたいから」
テレーゼは優しい口調で、しかし譲ることなく返す。
テレーゼは大公妃付き女官だ。城で働いている間は、自分が使った食器をシンクに持っていくなんてことは、あり得ない。テレーゼはリィナの補佐役であり、ドレスの着付けや公務の補助などをしても、汚れた食器を片付けるのは彼女の役目ではないのだ。
大公妃の女官でいる間は、自分の職務を全うしている。だが、家にいる間くらいは肩の力を抜いて、一年前のように過ごしていたかったのだ。
エリオスもそのことにすぐに気づいたのだろう。差し出し掛けた手を引っ込め、頷く。
「分かりました」
「お話かしら? 歩きながらでもいいなら今、聞くけれど」
「……そうします」
エリオスが頷いたので、二人並んで調理場まで向かう。
エリオスは今年で十五歳。一年前まではひょろりとした小柄な少年だったのだが、今は十分に栄養のある食事を摂れているようで、体の厚みが増しており、身長もテレーゼをゆうに越している。エリオスにしても妹たちにしても、どうしても痩せぎすになっていたので標準体型になってくれてテレーゼは嬉しいばかりだ。
「……僕は、この一年で姉様がどれほど僕たちのために働いてくださっているのか、身に染みて感じました」
ぽつんとエリオスが語りだす。調理場に入り、食器をシンクに置いたテレーゼは顔を上げ、弟の顔を見る。
「僕がなんとかしなくちゃと、僕はそう思うだけだったんです。僕一人では何もできない。父上は領地から離れられないのだから、僕がなんとかしなくちゃいけない。でも、何もできない自分がいることがひたすら苦痛で」
「何を言っているの、エリオス。お母様から聞いてるわ。あなたは学校でもぶっちぎりの成績を修めているのでしょう?」
エリオスは優秀だ。脳の出来だと、テレーゼでも足元に及ばない。
だがエリオスはゆっくり首を横に振る。
「その学校に通えているのも、姉様たちのおかげなのです。学校に行けなかったら勉強もできない。リトハルト家を支えないといけないのに、それだけの力を付けられなかったと思うのです」
「……」
「そんなことはない」とは言えず、テレーゼは黙って弟の顔を見つめる。
エリオスの言うことは正しい。たまにマリーたちに乗っかってとんでもないことを言うエリオスだが、彼は真実をねじ曲げたりはしない。辛い現実を受け止め、正確に判断できる。
テレーゼがいるから、リィナが姉になったから、エリオスは国立学校に行けた。だから勉強して、よい成績を叩き出せている。
「だから、今度こそ僕の番だと思うのです。今は姉様たちに頼りきりになっていた。それを痛感しました。だから……」
そこで一旦エリオスは言葉を切り、かなり悩んだ挙げ句、続けた。
「……リィナ姉様もテレーゼ姉様も、お嫁に行かれる。そうなった時、リトハルト家を支えるのは今度こそ僕の番です。その時に、姉様たちの努力を決して踏みにじらないように致します。その……姉様たちが安心してお嫁に行けるように」
「エリオス……!」
ぶわっ、と胸の奥から言いようのない感情が溢れ出て、テレーゼは本能のままに従う。
自分より体格のいい弟に抱きついて、ぐりぐりとその首元に頭を擦り付ける。ちょっと前まではテレーゼが彼の頭を抱き寄せられたというのに、少年の成長は早い。
「嬉しい! エリオス、その言葉だけで十分よ!」
「……姉様、はしゃぎすぎ……」
「ごめんなさい。でも、嬉しくって」
ぽんぽんと弟が背中を叩くものだから、テレーゼは渋々体を離す。
「ありがとう、エリオス。その言葉、リィナお姉様にも聞かせて差し上げたら?」
「……その、ええ。いつか機会があれば」
テレーゼが抱きついたときは平然としていたのに、今になってエリオスはうっすら頬を赤らめる。
そういえばリィナがリトハルト家に紹介されたとき、「新しいお姉様!」「かっこいいお姉様!」とマリーとルイーズがすぐに順応したのに対し、エリオスは恥ずかしがってなかなかリィナを「姉様」と呼べずにいた。エリオスが恥じらいなく「リィナ姉様」と呼べるようになったのは、実はごく最近のことなのだ。年頃の少年にとっては、いきなり大きな姉ができるというのも気恥ずかしいことなのだろう。
二人一緒に調理場を出る。エリオスはやや吹っ切れたような表情で、話題はジェイドのことに移っていた。
「ジェイドのこと、エリオスは知っていたの?」
「噂くらいには。それに、コリック家と言えば教科書の貴族名一覧表にも士官の家系だとピックアップされていますからね。ただ、ジェイド殿というのがどんな方かまでは……」
一年前にジェイドは使者としてリトハルト家に来たのだが、そういえばその時ジェイドはテレーゼと母とは話をしたが、エリオスたちと顔を合わせることはなかったように思われる。
ふと、エリオスは思いだしたように顔を上げた。
「そういえば、コリック家の長男はジェイド殿ですが、姉君がいらっしゃるのでは?」
「へ?」
「いや、確か一年前に姉様が入城される際、ジェイド殿の姉君から化粧品やらを譲ってもらったと聞いたような」
「…………あ」
思いだした。情けないことに、エリオスに言われるまではすっぽり抜け落ちていた。
ジェイドはあまり家族のことは口にしない。あちらはこちらの生態を把握しているのに、である。結婚の挨拶の話をしたときにも、「私の家族なら大丈夫ですよ」とさらりと答えられ、それっきりだった。
(そうだ、ジェイドのお姉様にお化粧品とかを譲ってもらったんだ……)
当時のリトハルト家には、大公妃候補合宿(?)に着ていけるようなドレスも、アクセサリーや化粧品もなかった。そんな時、ジェイドが厚意で実家のものを貸してくれたのだ。
あの時は確か、すぐにジェイドの実家と姉に対して感謝の手紙を送った。相手方からも当たり障りのない返事があったように思われる。
(私としたことが! ……そうだ、ジェイドには少なくとも、お姉様がいらっしゃる……)
恋人の姉。ジェイドの実姉。
ぽつん、とテレーゼの胸に染みのような不安の粒が浮かび上がる。
(……ジェイドのお姉様、私のことを認めてくれるかしら……?)
ジェイドはあっけらかんと言っていたが、相手はテレーゼより年上の女性だ。一年前にはド貧乏だったテレーゼに、化粧品やらを貸してくれたという恩もある。何かお礼の品を贈ろうと母とも考えていたのだが、ジェイドの方から断られた。だからあれっきり、ジェイドの姉のことが話題に挙がることもなかった。
(ジェイドのお姉様とも、会うんだ。どんな方なんだろう……)
テレーゼは考えてみた。
おっとりとした優しいジェイドの顔。
彼の顔を切り取って、城で見かけた令嬢の顔の部分に貼り付けてみる。
そして、後悔した。
「……姉様、どうしましたか? 顔色が悪いです」
「…………いえ、何でもないわ……」
今度会ったときに、ジェイドに聞いてみよう。
テレーゼはそう、心のメモ帳に書き留めた。
貧相な想像力




