法という道具
待ち合わせた片田舎のコンビニの駐車場から離れ、都会の人が想像する田舎道を超えて、杉の木ばかりの代り映えのない風景を走る車の中で、いつかの自分、世間知らずな若造が世間に絶望して項垂れた時、先達から言われた言葉が頭をよぎりました。
『いいか坊主、大概の奴は知らねーが法律ってのは知ってる奴の味方であって、弱い奴の味方じゃあねぇ。権利なんて言葉も突き詰めりゃ、紙に書いてある唯の文字なんだよ。詰まるところ言葉ってのは道具だからな、いくら書いてあることが立派でも知ってなきゃ使えねぇし、そいつを使えねえ奴は気付きゃ骨までしゃぶられるってのが娑婆のおっかねぇ所だ。でも坊主はおっかない所を生きなきゃなんねぇんだから、こいつらをきちん理解して過不足なく道具として使すしかねぇ。そうすりゃお題目ばっかり立派なクソ野郎が多くてうんざりするお優しい世界でも、どうにかお天様の下で生きていけるってぇ訳だ』
ろくな教育を受けていなかった私に対し、偉そうに世の中についてご高説を説いて、聞いてもない色んな事を教えてくれた先達の言葉。これが今の事だというのでしたら、やはりあの尊大で強引だった爺さんの語っていた言葉は事実なのだと改めて感じ、我が友は知らないことを良い事に骨までしゃぶられそうになって、騙されて他人から要らぬ苦労を背負えと言われたのだと、彼が過剰に苦労を強いられたのだと理解して、怒りがこみ上げてきたのを感じますが、怒りを鎮めて平静を装う為にため息を一つ吐き出して、話の続きを語りました。
「なんならスマホで雇用保険と有給の後に『アルバイト』って付けて調べてみなよ、俺の言ってる事と同じ事が書いてあるし、どうせ辞めるんなら労基に電話して確認してもいい。そこまで悪質だったら直ぐに調査が入るし、大事にしたくないならオーナーに労働弁護士辺りのHP文章を見せれば理解するだろさ」
「本当だ……、マジで書いてある……。俺でも有給貰えるんだ……。」
「すまん、普段から君は休み合わせてくれてたし、前から昼に病院行ってるって聞いたんで、俺はてっきり有給使ってるんだとばかり思ってた。もう少しこういう話もしときゃ良かったな……」
流石に働き方改革でアルバイトの有給消化を義務化する令和の時代ですから、こんな昭和の様に有給が無いなどとオーナーが言うと考えなかった私の落ち度もあるので、もう少しこういう話もするべきだったと苦々しい気持ちになりますが、今は後悔する時間でないと話を続けました。
「いや、色々調べなかった俺のせいだし気にしないで。じゃあさ、条件だけで言うなら俺って雇用保険入ってるだろうし、失業保険も出るん?それだったら何とか就活も出来そうだし、あったら嬉しいんやけど……」
「ああ、君の条件なら間違いなく雇用保険も入らんと駄目だし、月額でいくらか引かれてるはずだから、もしカバンに明細あるなら見てみりゃいいよ」
「OK、ちょい待って確か今月のがある筈……、あった!」
私が彼が普段持ち歩くカバンを指さして言うと、彼がカバンの中身を漁り始めて目当てのモノを探し、あったとこちらに言ってきたので、次に探す言葉を口にします。
「明細のフォーマットがどんなのか分からんけど、たぶん下の方の控除って所に雇用保険の欄があると思うよ」
「えーっと、控除ね……、って、あったけどさ、所得税しか引かれてない……。やっぱ俺って、雇用保険入ってない?てことは駄目なんかな……」
引かれていれば問題は何もなかったのですが、やはり人を騙す人間とは自分が損するのを嫌い、人の権利を無視しても徹底して利益を得ようとするのが世の常なのでしょう。彼の顔がオーナーの恥知らずな行動に暗くなるのを横目に見て、私の怒りもどんどん膨れ上がって行くのを感じますが、窓を小さく開けて煙草に火を付けてから紫煙を吸い込み、これ以上彼を刺激しない様、きつく聞こえない言葉で話そうと努力します。
「大丈夫、雇用保険は二年分は遡って納付可能だし、それより以前の分は無理だけど少なくとも二年分は取り戻せるし、二年入ってれば失業保険も九十日分は出るよ。それに雇用保険さえあれば、公共職業訓練だって受けれるから、色んな資格とか狙って今より有利になれるかも知れないよ」
「そっか……、でもどうやればいいん?これもオーナーに?それとも労基?」
「これも多分、君に対してというより寧ろ全社的なパートタイマーに対してだろうし、オーナー側の報復可能性も考えると有給の件も併せて労基が良いけど動きが遅いからな……、まぁ労務関係に詳しい人が居て相談したって体で一度揺さぶり掛けて、逆上するならその脅しを録音しといて労基へGOかな」
他にもいろいろ叩くと埃が出そうな経営状態ですが、彼の勤め先は個人経営の中小零細ではなく、業種は伏せますが小売り業界でも国内トップシェア企業のフランチャイズです。やはりフランチャイズは看板は立派なモノですが、オーナー次第でここまで酷い事が普通に罷り通るのだなと、人の欲深さに呆れと怒りが沸き起こります。
「大丈夫か?少し車止めて休むか?」
益々顔色が悪くなった彼を心配し、車を止めますと、彼は絞り出すような小さな声で、大きすぎる苦しみと悩みをもって私に問いかけてきました。
「陽さん……、俺、ホント何でこんな風にバカにされてるのにさ、どうしてこんな苦しい思いしてバイトやってたんだろ……」
今にも消えてしまいと言わんがばかりに暗く淀んだ声が消えた頃、目の前にある雨雲を纏った稜線は、彼の心に空いた虚無感を憐れむかのように、大粒の雨粒で車体を濡らし始めたのでした。




