02奇運の振り幅
例えば、鬱蒼とした森とか。
例えば、ダンジョンの中とか。
例えば、だだっ広い草原に伸びる街道とか。
放り出された形の異世界転移、というものにはいくつかのパターンがある。
私はそこまで多くのファンタジーものに触れたわけじゃないと思うけど、それでも思い付くだけでこれくらいは挙げられる。
そして、私のパターンはというと。
「グルルルルルルゥ……」
目の前に、黒い何かが存在している。
喉が鳴る音。浅い息遣い。重々しい気配。
ざり、と硬質なものが石床を削り近づいてくる。
大きな獣だった。
黒い毛皮に覆われた、四足の、獣。
無数の蛇が鬣のように生えた、犬と狼の間のような顔が、三つ。
ここがどことかそんなのを確認する前にひとつ、理解する。【奇運】が、悪い方に傾いた。
「…………」
細く、細く息を吐き出す。
ひどく震える体を、どうにかそれ以上動かさないように保つのが精一杯で。
それでもこうして特徴を拾えるくらい、染みついているらしい観察癖が逆に憎い。
すぐに死んでしまうと巡らせる意味がない。そう神様は言っていた。それでも、よくわからないけど……私はこのままじゃ死んでしまう。
だって、この獣が何なのか私は知っている。読んだことがある。神話の魔獣や幻獣と名高い。
この世界でも同じ存在がいることに驚く暇もない。ただ声も出さず、何もできない。
背を向けて逃げた瞬間、食われてしまうかもしれない。風魔法を使おうとした瞬間、鋭い爪で切り裂かれてしまうかもしれない。その前に魔法が使えるのかわからない。
そうだ、【看破】はどうだろう。何か様子が分かるかもしれない。
ギフトを使う時はどうすればいいんだろう。
そう思いながらひとまず“あの存在のことが知りたい”と心の中で念じて獣の足元にゆっくり視線を向ける。
《地底洞窟大迷宮と冥界を繋ぐ回廊。迷宮の隠された最深部であり冥道。》
…………。
いや、そうじゃない。しっかりしろ【看破】。
今度はもう少し上、獣の上腕あたりを視る。
《ケルベロス/魔獣/従魔▽
魔物の第二位階に属する魔獣。主と共に黒き神に仕えている。》
頭の中にスクリーンのようなものが浮かんで、簡潔な説明文が羅列される。
読めるのは私の脳を含めた体がこの世界のもので再構築されているからだろう。
第二位階って何だろうと思ったら、あっさりとその単語についての説明が頭の中に浮かんだ。すごいな、詳細説明も出るのか。
ざっと目を通して、また細く息を吐く。
……いや、死ぬ。第二位階って魔物の格で上から二番目だし、もう最初からハード過ぎる。名称の隣の▽なんて絶対にステータス開けるシステムだろうし、視て更に絶望したくない。
「シュー……」
空気を鋭く吐き出す、獣とは違う音。
輝石のように硬質な眼と、視線が交錯した。
「っ」
ケルベロスの尾は、竜そのもの。
知っていたし視て再確認した。それでも、首をもたげてゆっくりと私を捉えた獣の一部が恐ろしくて。
一歩だけ、本当に一歩だけ体を引いてしまった。
「ガルルルゥゥゥッ!」
あ、
だめ、
死……
「何しとるんじゃベロ!!」
その声を認識する前に、影が降ってくる。
瞬きもできなかった。
腕が、熱くて、いや、冷たくて?
少し遅れて、それが痛いんだと気付いた。
痛い。
痛い。熱い。
痛い。どくどくいってる。止まらない。痛い。
「見知らん神気の名残を感じたと思ったら……お前さんはどうしてそう気が早いのじゃ」
「グルゥウ」
「何度も言わせるでないわ。よいか、お前さんが食っていいのは連れ去る正者と、逃げ出す亡者だけじゃ。冥道を進まぬ生者を傷つけるのは黒き神の御心に沿わん」
「グゥゥ……」
「この娘がこつ然と現れたのなら不自然なのくらいわかるじゃろ。どうしてすぐに儂に伝えんのじゃ。あやうく間に合わんところじゃったわ……おお、もうすぐ亡者になりそうな顔をしとるぞい」
「グガァ!」
「たわけ。それくらい痛がっているということじゃ! 腕が半分ちぎれかけたくらいで死なんわ。どれ、娘。腕を見せんか」
蹲る私の近くで誰かが声を張り上げていて、感触がひどく薄い左腕を取られる。
あまりの痛みに、逆に小さくしか呻けない。そんな私を落ち着けるように二度肩を叩いて、何かつぶやいた。
滲む視界の中、傷口に沿って走る閃光が見えて――
「……ぇ」
肘から手の甲にかけて。血まみれの腕。
生まれて初めて受けた深い傷が、そこにはなかった。
痛みすらなくなって呆然と座り込む私の顔を覗き込むように、黒いローブのようなものを纏った長い白髪の老人が腰を下ろした。
「この冥道に自ら立ち入るような人間には見えんが……どこぞの神の御業に触れたかの」
神様のお仕事に使われたのは確かだけど、詳しく言うのも憚られる。
大体、異世界転移なんてものを初対面の人に説明して庇護を求める程、私の警戒心は低くない。
それよりも言うべきことがある。
「おそらくそのようなものかと。あの……ありがとうございます」
「ほう? お前さんに襲いかかったのは儂の従魔。治すのは当然じゃろう。連れ去る者ならいざ知らず、神の手によるものならお前さんに非はないしの」
成る程、この世界の神は神のいたずらや神隠し的なことをやったりするのが浸透しているらしい。
それだったら私もその体でいっておいた方がいいだろう。幸か不幸か、長年人形を演じ続けていたので思考を表に出さないことには長けている。
打算的なのは承知で何とか方針を決定して、私は首を横に振った。
「いえ、それでもいきなり現れた人間を警戒するのは当然です。逃げるような素振りをしたせいで誤解させてしまったようなので……」
傷と痛みがなくなっても、冷や汗までは消し去ってくれない。
無事な右手でこめかみの汗をぬぐいながら頭を下げると、老人は鋭そうな眼光を和らげて楽しそうに笑った。
「カカッ! 攻撃されたのは当然と言うか。冒険者になりたての没落令嬢のようなナリで、随分と肝が据わっとるわ!」
そんなピンポイントに不自然な格好なんだろうか、今の私は。
言われて恐る恐る下を見下ろすと、まず胸からへその上までを覆う革のビスチェのようなものが目に入った。
次に切り裂かれたままのジャケットらしい長袖。ぴったりとしたパンツには寒色系の色合いで染められたサッシュと革のベルトが重ねられていて、ベルトにはポーチが。太ももにはベルトで吊るされたナイフがついている。そして膝下までのブーツ。
中世を舞台にした海賊映画にこんな感じの女海賊がいた気がする。ジャケットをブラウスにして帽子でも被れば船員に混ざれそうだ。元の世界と感覚が変わらないのだとしたら、わりと質がいいものばかりだ。
ランダム過ぎるだろうと思いながらもそれより気になるのが、視界にちらつく長い金色のもの。
「…………」
わずかに頭を振れば、ソレも揺れる。
目が覚めるような、と比喩できそうなくらいきらきらしい、ハニーブロンド。
……どう見ても、私の髪らしい。
そう言えば姿形が変わると神様が言っていた気がする。見た感じ、体型などは変わっていなさそうだけど、全く違う顔になっている可能性も否定できない。
気位が高そうだと言われていた元の顔が懐かしいわけじゃないけど、いきなり別人の顔になっていたらそれはそれで心臓に悪い。
「ぬ? 何じゃ。今更固まりよって」
「ああ、すみません。この格好はそれほど浮いていないと思っていただけに何とも……それに、自分でも何でこのような場所にいるのか今更不思議に思ってしまって。私、普通に外に出ようとしていただけなんですが」
「そうじゃのう。神はいつも唐突で気まぐれじゃから、儂やお前さんが御心を慮ることはできん」
「暇そうですしね」
「神が忙しいのは創世の時か世界が動く時くらいじゃ。暇なのに越したことはないわい……のう、ひとつ聞いてもよいかの」
「何でしょう」
「お前さん、随分と血が薄いようじゃが……純血じゃな?」
何を言われているのか理解できない。
ただ、声のトーンからそれがネガティブな意味であることと、心配されていることは感じ取れた。
更にそれが重要なものだと言うことはわかったので、私は少し目を伏せて頷いた。
「……ええ、機会を与えられず」
「血を受けずに生きる意味を知ってのことか」
「私は今まで、それを知らずに生きてきました」
この世界では、何らかの血が必要らしい。
わからないことながら、それをしていないのは大きなマイナスだということだけは感じ取れる。
真実を混ぜ込んでもっともらしく囁くと、老人は眉を顰めた。
「お前さんの親は純血主義か。あんな生き抜く進化の道を認めない思想の奴が今でもおるのか……嫌になるのう」
元の世界の両親も古い考えの人達だった。
上流階級以外の者と言葉を交わすことも汚らわしい、支配階級としか交流する意味はないと臆面なく言ってしまえるような、時代に取り残された人。ある意味老人の言う純血主義の家に似ているのかもしれない。
もう私は自由だ。誰も追いかけてくることはない。
それでも、考えると未だに苦味が残るあの記憶達。これをなくすのは、まだ少し時間がかかるだろう。
「……もしかすると、神がお前さんを救おうとしたのかもしれんな」
私を世界から逃がしてくれた神様。
あの方は“世界のどこに降り立つのか”はわからないとは言わなかった。
もしかしたら、ここに私を降ろしたのは私があの方を笑わせたサービスなのかもしれない。
おかげで私は今、重要な情報を聞けている。痛い思いはしたけど、街中では知らないままになっていたかもしれない、そのうち取り返しのつかないことになっていたかもしれない事を。
「ええ……私に手を差し伸べてくださった、神様に何よりの感謝を」
手を組んで祈る。
そうすれば、不思議とあの温かくも冷たくもない光が見えた気がした。
「おお、随分と古き神気よ。この儂でも知らん……まさか、創世期の神か? わからんが、視られておるのう」
「ご老人、わかるんですか?」
「そりゃあ多少はわかるわい。儂はこれでも黒き神に仕える調教師じゃからのう」
「ち、ちょうきょうし……?」
あまりに場違いな職業に、思わず【看破】を発動させてしまうと。
《ベルナンド・レウシュキン/英霊/従魔士▽
小国オルロフを救った英雄。没後オルロフ唯一の名誉貴族の名が贈られた。英霊として黒き神に仕えている。》
あ、何だかすごい人だった。しかも英霊。
すごく普通に生きているように見えるんだけど……まぁケルベロスがいるって言ったら冥道だし、死者がいるのも当然か。
動揺を少しだけ表面に出して、後は隠しておく。逆に全く動じない方が怪しまれる。
「失礼ですが、ご老人のお名前をお聞きしても?」
「儂はベルナンドじゃ。これでも生前は従魔の王なんぞ御大層な二つ名がついておってのう」
「申し訳ありません。ケルベロスを従え冥道を任されているのですからさぞご高名な御方なのだと、言うことしか……」
「よいよい。別にひけらかしたい訳ではないわ。それにお前さんは家の教育的に儂を知らんのが普通じゃ。ああ、儂のことはベルナンド爺でよい」
「さすがにそれは……」
「気にするでない。儂はお前さんの血親になるつもりじゃからの」
「はい?」
ちおや、とは。
話の流れから言って、血の親ということでいいんだろうか。
どうしていきなりそんな話に。
「この冥道に転移したのもひとえに縁じゃろう。儂は純血主義が大嫌いでの。生前、魔物なんぞ汚らわしいと騒いでいたあやつらに何度儂の従魔達を害されたことか……ああ、思い出すだけでも腹が立つわ」
苛々した風に話すベルナンド老に重々しく相槌を打ちながら、私はひとつ考えていた。
私の話にそこまで襤褸は出ていない。だけどこれはおそらく、【奇運】の効果もある。
でなければここまで話がうまく進まないだろう。精々傷を治してもらって外に出されるくらいだ。基本的に、冥道に生者は立ち入ってはいけないはずだし。
私が観察した限り、ベルナンド老が嘘をついているような素振りはない。そもそも英霊として神に仕えている限り悪人ではないはずだ。冥道の番犬を飼っているくらいなんだから、おかしな思想の人じゃないだろう。
血親。なってくれるならなってもらおう。純血が大きくマイナスなものなら、早くそれをなくしてしまうべきだ。
ただ、ひとつだけ。
彼を騙しているような状況で、厚意に甘えてしまっていいんだろうか。
私は嘘は言っていない。ただ、直接的な表現を避けて相手の解釈に任せているだけ。
それでも、今まで人形を演じていた時には感じなかったある感情を覚えている。
手を差し伸べてくれている人を、騙しているという罪悪感を。
「純血の家から逃げ出したお前さんは骨がある。多少物知らずのようじゃがな、それはこれから知っていけばよい。それに何より、魂の質がよいのじゃろう。何がしの神の加護はなくても目はかけられているようじゃ。そんな若い娘が純血だと知って放り出すのはあまりに忍びない。よって、お前さんが否やと言わんなら、儂は血親になるぞい」
言ってしまったら、この話はなかったことになってしまうだろう。
それでも、無条件で私自身に与えられたこの厚意に誠意を持ちたいと思う私は、愚かなんだろうか。
「あ、の」
「はっきり言って、断るのは薦めんぞ。儂のような第一位階の混血はそう多くはないはずじゃからの」
「そうではなく……っ、申し訳ありません!」
がばりと頭を下げたまま、まくしたてるように、罪を告白する。
古き神気の持ち主は異世界の神であること。
神の御業により世界を巡ったこと。
私は純血であってもそんな家の出ではないこと。
そうなるまでに至った顛末には軽く触れた程度であっても、ベルナンド老の誤解を解くための話は全て吐き出した。
私を人形のように扱っていた人々を欺くのは良心の欠片も痛まないのに、私自身に向き合おうとする人を欺くのはこんなにも難しい。
歪んだ対人関係しか持ったことがなかった私には、あまりにも苦しかった。
「――私は、貴方を利用しようとしました。血を与えることが重要なことだということだけ理解して、それを引き受けてくれるのなら純血主義の家柄の出だと思ってくれていた方がいいと。貴方の言うことは何ひとつ知らないのに、都合のいいように嘘をつきました。本当に、申し訳ありません」
これで血親の話はなくなるだろう。
せっかくの厚意。せっかくいい方に傾いた【奇運】の力。それを捨てることは正直惜しい。
でも、後悔はない。
人からの気持ちを、初めて与えられたんだ。それを汚すような真似はしたくない。
もう一度、地面に額がつく程に頭を下げる。
ややあってから、頭に柔らかな重みを感じた。
「お前さん、儂が何百年生きて……いや、何百年自我を保って在ると思っておるんじゃ。隠し事をしておることくらいわかるわ」
「…………」
「はじめは気が動転しているせいかと思うたが、純血の話をした辺りからわずかに違和感があったの。まぁ、その若さでそこまで隠せるのはある意味才能じゃ」
多少の驚きはあるものの納得してしまう。
私がひとつでも嘘をついていたのなら、話は終わりだった。うまく立ち回れていると思っていた私は、ただベルナンド老に試されていただけだった。
バレていないと思っていたことが恥ずかしい。それよりも、見抜いてくれたことに安心している自分がいる。
出会って本当に間もないのに、何故かこの人は私を見ていてくれていて、私に向き合ってくれているとわかるから。
「お前さんは“嘘をついた”と言っておったが、実際にお前さんの言葉にはそれはない。まさか真実がそこまで大仰な話になるとは思わなんだが、そこにも嘘はない。むしろそんな状況でよく話を合わせられたと感心しておる。ああ、今更じゃが儂は偽りを見抜くギフトを持っておるからの。嘘は純血主義と同じくらい大嫌いじゃ。もしお前さんが最初から嘘だらけだったらとっとと外に放り出して居ったわ」
「隠し事は、ベルナンド老の中で許容できると?」
「言っておくがの、儂がお前さんの立場だったら異界からの転移なんぞたまげた事情、絶対黙っとるぞ。何やら深いものを抱えているとわかっておったから、お前さんが嘘をつかん限りこのまま血親をやってやるつもりじゃった。そんな儂に、お前さんは精一杯真摯に応えた。そこまで聞いて血親をやってやらんなぞ、不実過ぎて主たる黒き神に申し訳が立たん」
肩を叩かれて、顔を上げる様に無言で示される。
ゆっくりとそれに従えば、目の前の老人は楽しそうに、少し意地悪そうに笑った。
「肝が据わっとるのも真、神に目をかけられているのも真、しかも正真正銘純血。
大いに結構! 久方の血親じゃ。程々の血などど言わず大盤振る舞いしようかの」
異世界転移のはじまり。
私のパターンは、だいぶ恵まれたものらしい。




