002「その1 不登校という事実を早く受け入れる」
これは、私ができなかったこと。一年半経った今だから言える。行き渋りが発生してから、私が不登校という事実を受け入れたのは一カ月半後。この間、娘はきっと辛かったと思う。親として反省しているからこそ、失敗談を残しておきたい。すぐに受け入れられない親の気持ちは痛いほどわかる。だけど、その後の回復を考えるのならやはり早い段階で受け入れることを強く推奨します。
世間では、不登校という言葉が当たり前に行き交っている。だけど、不登校になる子供の保護者は寝耳に水です。ある日、突然そうなる。まさかうちの子が? ってほとんどの親御さんは思うはず。何の疑問もなく、すんなり受け入れる方は本当に稀だと思う。むしろ、いるのだろうか? って思ってしまう……。だから親は、どうにかこうにか学校に行かせようと画策する。学校に行きたくない子供からしたら、冗談じゃないって怒るかもしれないけれど……。親もただの人です。色々な葛藤はあるのです。
うちの娘の不登校の入り口は体調不良から始まった。新学期が始まってほどなくして、風邪を引いて学校を休んだ。GW明けから行き渋りが始まり、そんな娘にどうやったら学校に行ってくれるのか画策が始まったのです。本当なら、この時点で「不登校なんだ」って受け入れてあげるのが正解だった。
私の娘は、元々体が弱く喘息、アトピー、アレルギー体質という三重苦。幼稚園くらいまでは、年がら年中鼻水を垂らしていて、酷くなるとすぐに喘息の発作が出るような子だった。季節の変わり目になると、必ず体調を崩して酷いと喘息で入院なんてことも……。肌も弱くて、一年中皮膚科のお世話になり薬をぬらない日なんてなかった。そんな娘も、成長と共に体が強くなって小学一年生になるころには、喘息の発作が出なくなった。肌も段々と薬を塗らなくてもいい期間が長くなっていった。ただ、小学校一年生がコロナ禍真っ只中で入学式はあったけれど学校に通えない日が続き、実際に毎日学校に通い始めたのはたしか一年生の10月ぐらいからだったと思う。
学校に通うようになってからは、特に問題なく新しいお友達もできて楽しくしていた。それが崩れたのは、五年生になったばかりの4月。五年生になって二年ぶりのクラス替えがあり、新しいお友達、新しい先生と他にも諸々の変化が重なって、とても変化の多い四月になった。
新学期の最初は特に変わった様子は見受けられなかったのだけれど、季節の代わり目だったからか四月の終わりに体調を崩して学校を休みがちになってしまった。この時の私は、もともと体が弱い子だったし昔に比べたら強くなったといっても、やっぱり季節の変わり目には弱かったし、またいつもと同じようにただの風邪だよなってのんきに構えていた。
様子がおかしいと感じたのは、GWが終わった初日。GWはしっかり休んだし体調も回復していたのに、朝起きて来た時の顔色が悪い。ちゃんと自分で起きて来たし朝ご飯も食べたけれど、やっぱり具合が悪いという。そしてしきりに寒い寒いと言って、学校を休みたいと私に言ってきた。念のため熱を測ってみても熱はなし。
だけど、顔を見ると明らかに目が死んでいて活力がない。このまま行かせる訳にもいかずに、やっぱり学校を休ませることに……。午前中は寝ていたけれど、お昼ぐらいに起きてきて昼食を食べると別に普通に生活をしている。おかしいなと思ったけれど、様子を見ようと一週間くらいそんな毎日を送った。
そんな一週間を過ごして、流石の私もこれはただの体調不良とかではないと思い始める。今思うと、この時はもう完全に不登校なのだけれど、親としてまだそれを受け入れられなかった。だから、どうやったら学校に行けるのかばかりを考えていた。
ここで行かせなかったら、ずっと行けないままになるって危機感があった。変化に適応できていないだけで、学校に行って慣れてしまえば今までと同じように通えるはずだって思ってしまった。
娘と学校に行きたくないのか? という話をした。このまま行けなくてもいいのか? とも聞いた。この時は、行きたくないとは言わなかった。でも行きたいとも言わなかった。このまま行かないと、勉強はわからなくなるしお友達だってできないと、それでもいいの? って責めてしまった。そしたら、「わかってる。ちゃんと行く」って泣きながら返事をしていた。
私は、この時のことがずっと忘れられない。今思うと、本当にあの時は限界だったのだとよくわかる。あんな風に責めるべきじゃなかったし、無理やり学校に行くという言葉を言わせるべきじゃなかったと深く反省をしている。
でも、4年生までの娘は学校に行きたくないなんて一回も言ったことはなかったし、お友達もいて放課後に家に遊びに来るような子たちもちゃんといた。私の目から見た娘は、ちゃんと学校生活を楽しんでいた。それが、5年生になって突然の変貌に、親としてどうしても受け入れがたかったのが本音である。
それから、一カ月くらいは行ったり行かなかったり。行っても、3時間目、4時間目から遅刻して行ったり、とても不規則な登校をしていた。こういうのを、五月雨登校というのだと知る。うまいこと言うなと変に感心したのを覚えている。余談だけど、小学校の出欠席連絡がアプリに変わって、ボタン一つで欠席連絡を送れる時代に感謝した。二年前くらいまでは、まだ電話か連絡帳だったので、もしまだそれが続いていたらと思うと恐ろしい。
学校に行けた日の様子を先生に聞くと、とても普通に生活を送っていると言われる。むしろ、行けなくなっているのが不思議ですと首を傾げるしまつ。お友達も、普通に話かけていて仲良さそうにしているのだと疑問顔だった。
うちの娘は、あまり学校のことを自分で進んで話す子ではない。聞けば教えてくれたけれど、今日はあれがあって、あの子が何をして、どうだったなどと細かく話してくれない。幼少期から話すことがうまい方ではなかったし、今日はどうだった? って聞いても「普通」としか言わない。そっけなくて、話下手な子だ。
そんなこともあって、何で学校に行けないのか原因を聞きだすのも結構大変だった。というか、今思うと子供の少ない語彙力で自分の気持ちを言葉にするのが難しかったのではないかと思う。あと、「何でなのか?」子ども自身もよくわからないというのはあると思う。
それでも親は、「何でなのか?」を聞いてしまう。娘が答えとして出したのは、「お友達ができないから」だった。つねにボッチで目立つから、それが耐えられないのだと。だけど、四年生の時に仲が良かった子もいたし、先生に聞くとうちの娘に話しかけている子もたくさんいるのだということだった。
いじめられている訳でもなくて、話かけてくれる友達もいて、何で学校に行けないのよ?って毎日疑問ばかりだった。どうしても諦めきれない私は、毎日は行けなくても、遅刻しながらでも通い続けていれば、クラスに慣れて、また今までのように通えるようになるのではという淡い期待をどうしても拭いきれなかった。
だけど一カ月半、五月雨登校を続けていても改善の兆しが全くなかった。むしろ、朝起きては来るけれど眠そうだし、体よりも精神的に辛そうなのがまざまざと見てとれるようになってしまった。
そして私は、やっと不登校を受け入れたのです。
やるだけのことはやって駄目だったから、一回完全に休ませようと決心して、五年生の六月末から完全な不登校になりました。
ここで、五月雨登校の意味がないと思った理由を、ちょっと説明しておくと……。途中から学校に行くと、やっぱりどうしたって目立つ。そもそもボッチが目立って嫌だと言うのに、遅刻して悪目立ちさせるのは如何なものか? と思った。あと小学校の場合、保護者の送迎が必須なので親の負担が大きい。共働き夫婦の場合かなり難しいと思う。
今思うと、この一カ月半の期間は、無理をさせてしまったなと唯々反省するのみ。それと同時に、保護者の葛藤は大きいのだってことはわかって欲しい。だってね、明治6年(1873年) に日本で初めて近代学校制度が取り入れられてから、ずっと子供が学校に行くのって当たり前だった。時代が変わったのは知っているし分かっている。でも、子供って親だけで育てていた訳じゃないんだって改めて知った。良いのか悪いのかは別にして、社会の仕組みに組み込まれていて、親だけで育てている訳ではなかった。幼稚園の先生や、給食を作ってくれる人。学校の先生に、保健室の先生。用務員さんなど、学校や幼稚園に携わる大人。たくさんの人たちによって、子供って育てられている。
だから、子どもが学校に行かなくなると親が全ての面倒を見ることになる。これって、なかなか大変なことですよ……。何が大変って、健康的で規則正しい生活をさせることがすごく大変。行くところがなくなるから、家から出ることがなくなる。平日の日中に一人で外をプラプラ歩かせることはできないし……。どんどん運動不足になっていく。
何で学校に行くのか? と言う問いに、自信をもって答えたい。それは、健康的で規則正しい生活を送るためだよって。
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